恋は走り出した①


歩いているだけで、汗がじっとりと額に滲むような季節になってきた。

ここに来た時はすごく寒かったのに、いつの間にか太陽の位置がずっと高く、日差しも強くなってきて眩しいくらいだ。まだ夏はもう少し先なのに。



 周りを広大な森林に囲まれる森徳学園は、冷暖房完備で暑い季節でも校舎に一歩入れば快適そのもの。

四階建ての校舎はどこも日差しが降り注ぎ明るく、高校の施設とは思えないほど大きな図書室もある。外には野球場、サッカー場、ラグビー場、テニスコート、人工芝のトラックもあり、勉強はもちろん、スポーツをやるにしても最高の環境だ。



 三湖夜祭のあと、丸々二日休んで体はすっかり元気になったけど、気持ちは真っ暗な深い海の底に沈んだままだ。

チョウチンアンコウにでもなった気分。

美咲とはづきに会って話をしたら、元気をもらってほんの少しだけ浮上したけど、まだ太陽の光は届いてこない。


「冬ちゃん、今日はなんだか元気ないね」


 はづきが心配そうに顔を覗き込んでくる。

ふたりにも何度か話そうかと思ったけど、あの出来事を全部説明するほどの気力はまだなくて、疲れてる、という言い訳でやり過ごした。

聞いてもらいたい気持ちはあるけど、二人に話すのは後日にしよう。



 クラスはまだ三湖夜祭の興奮からいまだ冷めやらぬ雰囲気だった。みんなその話題で持ち切り。

登校してみると黒板に大きく『金賞 二年Bクラス! おめでとう!』と書いてある。渡辺先生は朝からもの凄くご機嫌だ。

 


 確かに太鼓とチェロ、弦バスの演奏は鳥肌がたった。最初は音をはずさないように緊張していたけど、途中からそんなものは吹っ飛び、気が付くとただ夢中で弾いていた。わたし自身がただ純粋に楽しんでいた気がする。



三湖夜祭の後片付けで、今日は部活はなし。片付けは予定していたより早く終わり、他グループの女子達にショッピングモールのカフェに行こうと誘われた。美咲とはづきは参加。


わたしはそんな気分にはなれず、用事があるからと断って、ひとりバス停に向かった。まだ笑顔を見せられるほど心の傷は回復してない。

今日はベッドでゴロゴロしながら、心ゆくまで海底散歩してどんよりするつもり。


空を見上げた。泣きたくなるほどの快晴だ。

部活もなくて、まだ外は明るいのに帰れる日はそんなに多くはない。そう考えたら、やっぱりそのまま帰るのはもったいない気がした。



 いつも乗るバスではなく、違う方面のバスに乗り三つ目の停留場で降りて、公園に向かって歩いた。公園の真ん中には大きな池もあって、本格的なアスレチックやランニングコースもある。

以前、ママと住む場所を探しに来た時に、この公園に来たことがあった。

この町は自然も公園も多い。



気持ちが晴れない時や悩みがある時は、何も考えずもくもくと歩くのが一番効果的。最初は考えることが途切れないけど、ずっと歩き続けるとそのうちに頭が空っぽになってくる。わたしの場合はだけど。



 だだっ広い公園にいくつも設置されているベンチに鞄を置いて座った。

彼のことなんて気にしなければいいんだって自分に言い聞かせるけど、そんな言葉ではもう自分をごまかせないところまできていた。



 どうしようもなく心が揺れている。

大嵐の中の小船に乗ってるみたいだ。荒ぶる大波に上下左右に揺れてまともに立っていられない感じだ。

好きじゃないでしょ。好きじゃないよね?

あんな意地悪で二重人格のサイコパスなんて、絶対に。


──本当に?


 彼と初めて会った日からずっと無視し続けてきた心の奥底の声。

そんな声、無視できたらいいのに。聞きたくないのに。

下を向いていたら、ふいに芝生の緑が滲んで見える。

涙はぽたぽたと芝生にまっすぐに落ちる。



 大丈夫、たいしたことじゃない。

別に友達でもない高下蓮にひどいこと言われたって傷つくことなんてない。

そう言い聞かせても、引き裂かれたように胸が痛む。

見えない傷口を塞ぐように、右手で胸もとをぎゅっと掴んだ。



 涙が止まりそうもない。泣き虫はいいかげん卒業したいのに。

初夏の爽やかな風が頬をなでた。公園では何人かの家族連れが、シートを広げて楽しそうに遊んでいる。   



 突然走りたくなった。

体力も運動神経も壊滅的だけど、昔から体を動かすのは嫌いじゃない。制服のジャケットだけ脱いだ。鞄からスマートフォンと財布を取り出して、ポケットにねじ込む。

教科書と参考書がパンパンにつまった重い鞄は、さすがにベンチにそのまま置いておいた。


 髪を結び、公園をぐるりと回るように設置されたランニングコースに向かう。スカートを履いてるし、どう見てもランニングするような格好じゃないけど、わたしは挑むようにコースに立った。

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