救世主


その後は、どうする?

その後は・・・・・・とにかく全速力で走りながら考えればいい。ちょっとでも失速したら、間違いなく捕まってしまう。一度捕まえられれば、こんな大柄の男から逃げることはまずできない。


「そんなに怖がらなくっていいよ。ただ仲良くしたいだけだから」

ふらつきながら、また数歩近づく。


わたしは慎重にタイミングを見極めようと間合いをとった。

ボクサーのように。


 

 ふいに男が手を伸ばして、またわたしの手首を掴もうとした時、男の背中越しにガシャンと何かが壊れるような大きな音が響いた。

男が音に一瞬気を取られ、視線がわたしから外れる。

今だ!



 思いっきり右足を高く蹴り上げたが、男が予想外に素早く反応し体をよじったので、わたしの右足は急所を直撃せず太ももに軽く当たっただけだった。

はずした。最大のチャンスだったのに。


「こいつ!」


 男はカッと眼を見開き、わたしの腕を凄い力で掴んで自分の方へ引っ張った。急に引っ張られて、バランスを崩し胸から倒れ込む。引きずられながらもすかさず、手首を掴んでいる腕に思い切り噛みついた。



 男はぎゃっという声を上げ痛みに顔を歪めた。わたしの髪を思いきり引っ張り、腕から引きはがそうとする。頭に激痛が走るけど、必死に食らいついた。

その時、何かを眼の端で捉えた。影のようなものがこっちに移動している。

わたしが地面に転がって、視界が九十度回転して見ているせいなのか、動きがとてつもなく素早く見える。


──何? 

──誰?


 まるで、滑るようにそのまま黒い影はわたしの眼の前に忍び寄った。音もなく。

薄明かりの中で顔がはっきり浮かび上がる。

彼だ。

そう、あの──高下蓮。


 男をわたしから引き離し、首もとをつかんで、片手で高く持ち上げた。

こんな大柄の男を、まるでこの地球から重力が消えたみたいに軽々と。

僅か数秒の出来事。

ライトの明かりでぼんやりと照らされた高下蓮は、唇の端を歪め、これまで見たこともないような恐ろしい笑みを浮かべていた。



 シャツで首が締まり息がきないのか、苦しそうに足をバタバタさせ、ただでさえ酔って赤みがかっていた顔が今や耳まで真っ赤になっている。

高下蓮はその男に顔を寄せ、耳元で何かを呟いた。

声が小さすぎてわたしには聞こえなかった。


「ひっ」男が大きな図体に似合わない女のような甲高い声を上げた。


 まるで丸めたゴミでも投げるように、首元の手を乱暴に離して男を投げると、ドスンと派手な音を立てて地面に転がった。

苦しそうにゲホゲホと暫くせき込んでからなんとか落ち着くと、顔だけ高下蓮の方を向けた。



 男は恐怖に顔を歪めながら、また小さく悲鳴をあげた。

一体何を言われれば、こんな表情になるのだろう。

事情を知らない人がこの場面だけを見れば、悪者は間違いなく彼だと思うだろう。



 腰が抜けたのか四つん這いのままでくるりと方向転換し、なんとか立ち上がると、入り口のところでうずくまっている二人を無視して一目散に逃げて行った。二人も後を追うようにして校舎の向こうに消えた。何事もなかったように、グラウンドには静寂が戻った。わたしは呆然としたまま、立ち上がることが出来ずまだ地面にへたりこんでいた。


 

男に髪を鷲掴みにされ引っ張られたからか、頭皮がひりひりと痛い。

とりあえず何事もなく助かった。



 ほっとしたのもつかの間だった。

高下蓮はくるりとわたしの方へ向き直り、大股で歩いてきた。

彼の顔を見て、わたしもさっきの男のように思わず声をあげそうになる。

鬼のような形相でわたしを見下ろしていた。



 まさか危害を加えられることはないだろうけど、さっきの男と今、眼の前の睨んでいる男とどっちか怖いかと問われれば、迷わず高下蓮と答えるだろう。

それくらい、眼の前にいる高下蓮は恐ろしかった。



 長い足を一歩踏み出し、わたしの方へ歩いてきた。

彼が着ているスーハイのクラTは、黒い下地にピンクの文字で 

we love music、と大きく書いてある。 

今のこの状況とは笑っちゃうほどちぐはぐだ。


もちろんわたしに笑う余裕は全くないけど。

立ち尽くす彼の前で、わたしは怯えた子犬のように審判を待った。

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