第16話 選択
……冬桜、冬桜。
耳元で名前を呼ばれて眼が覚めた。
ママが帰宅したのも気がつかないほど寝入っていた。
「ふぁ~あ、おかえり~」手足を思い切り伸ばして大欠伸。
「制服のまま寝るなんて、随分疲れてるみたいね。インターホン鳴らしても鍵を開けてくれないから、まだ帰っていないのかと思ってびっくりしたわよ」
「そのまま寝落ちしちゃって、全然聞こえなかった。今、何時?」
「もう九時過ぎてるわよ」
「ほんとに?!」
帰宅したのは七時前だから、たっぷり二時間以上は寝ていたんだ。三十分くらいしかたってないと思ってたのに。そういうママもすごく疲れてる顔をしていた。わたしがようやく眠りに入った明け方頃には、リビングから音がしていたからかなり早起きしたに違いない。
新しい場所で私と同じように慣れないところもあるのだろう。なにしろ支社のトップで責任者だ。ママは黄色のスプリングコートをハンガーにかけながら訊いてくる。
「で、学校はどうだった?」
「校舎がすごい豪華だったよ。前の学校と全然違うの」
「ママも最初見た時驚いた。グラウンドも二つもあるし、カフェテラスとかあって高校じゃないみたいだと思ったもの。もう一方の高校は設備はイマイチだったのよね」
「え? 他の高校も見たの?」
「見たわよ」
冷蔵庫の横に吊るしてあったエプロンをさっと着て、朝作っておいたカレーを温め直しながら平然と言う。
カレーのいい匂いがリビングに充満してくる。とたんにお腹が反応し鳴った。そういえばお昼もおにぎり一個だけだったし、夕飯もまだ食べてなかったっけ。
「それ聞いてない。いつ? ひとりで行かないで私にも言ってくれればよかったのに」わたしは文句を言った。
「ちゃんと言ったわよ。でも冬桜はふてくされてて、今の高校に行けないならどこでも同じって言ってたでしょ」
ママの反論に撃沈。
言われてみればそんなこと言った気もする。なにしろ引っ越しのことを聞いて、数日間はショックと怒りで、頭がパニック状態だったから細かいことはあまり覚えてない。心も体も劇的な成長を遂げる思春期の時期に引っ越しなんて、ストレスでかなりの脳細胞が死滅した気がする。
この先、成績が伸びなくてもわたしのせいじゃないんだから。
「もしかして、森徳学園気に入らなかった?」
「あ、別にそういう訳じゃないけど」
「森徳はあまりにも前の高校と雰囲気も規模も違うから、ちょっと心配だったのよ。冬桜はほら、ちょっと人見知りのところがあるでしょ? だからマンモス校より規模の小さい学校の方がいいのかなとも思ったのよ。でも森徳は制服も可愛かったし、見学して話も聞いてみたら先生の感じも良かったのよね。手、洗ってきて」
もっともらしいことを言ってるけど、制服が可愛かったのと対応してくれた先生の感じが良かったってだけ。普通の親が気にしそうな大学への進学率とか、実績とかを見ていないところが実にミーハーなママらしい。
わたしはなんだかなぁとぶつぶつ言いながら部屋に行き、ジャケットをハンガーにかける。
今日の夕飯はカレーとみそ汁とサラダ。
「いただきます」
休息の欲求が満たされた今は、食欲。
充分に冷まさずにカレーとご飯を口に運ぶ。
「あちっ」
慌てて水を飲む。猫舌でご飯の時には冷たい飲み物は欠かせない。成長したら自然になおるものと思ってたのに、高校生になってもいまだに猫舌で、熱いものがまともに食べられたことがない。
わたしの顔を見てママが言う。
「今日はすごく疲れてるみたいだから、早く寝なさいよ」
「課題がどっさり」
「大丈夫よ。転校生なんだからきっと大目に見てくれるわよ」
ママが親らしくないことを言うのはいつものこと。
転校生であっても、もう森徳学園の生徒なんだから宿題をしなくていいなんていう理屈が通るわけない。
いつもおしゃべりなママも余程疲れているらしく、その後は二人とももくもくと食べた。空腹時のカレーは、二割増しで美味しい。お皿とコップだけシンクに運び、そのまま食卓で宿題を終わらせた後シャワーを浴びる。
部屋に戻り、濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭きながら、ふと思った。
ママに下見に行こうと言われた時、もう一校もちゃんと行っとけばよかったかな。
もし、別の高校を選んでいたとしたら、今日はどんな一日になっていただろう。
深緑の制服じゃなく、他の色の制服を着て学校に行き、違う先生とクラスメイトに会い、まるで違う一日になっていただろう。
今日、森徳で出会った人達とは一生出会うこともなかったかもしれない。
そう思うとすごく不思議な気がした。どっちがいいとか悪いとかの話じゃなく、わたしの人生に大袈裟じゃなく、全く違う歴史が刻まれてたってことだ。
転校することが決まって、確かにふてくされてたし落ち込んでもいたから、ママの言葉に耳を貸さなかった。
別に森徳がイヤな訳じゃない。むしろ想像していたよりずっと良かった。
でもたった二校だとしても、少なくともわたしに選択権はあったのだ。
いつだったか読んだ本にこう書いてあった。
人生とは一言で言うと、選択すること。起きる時間、毎日の着る服、食べるもの、行き先、買い物といった小さな選択から、進学する学校や仕事、結婚のような人生の大きな選択まで。
人間は死ぬその瞬間まで、自分の意志で何かを選択し続ける。だから選択を放棄するってことは、人生を放棄するってこと。確かそんなようなことが書いてあった。
えっと……他には何て書いてあったんだっけ。
とにかく自分が通う高校を、ママに一任したことを今になって後悔していた。
何気ない選択がその後の人生を決めることだってあるのに、大事な自分の人生の選択を軽々しく考えるなんて。まして選択権を放棄するなんて。
ベッドに横になり、ぼんやりと前の学校の友達のことを考えた。
あっちも同じ今日から新学期。
この時期だと教室の窓から、花壇にきれいに咲いた水仙が見えるはずだ。わたしの想像する教室の中に馴染みのある顔があふれている。
みんなに会いたいな。
柔らかな心地いい眠気が、眉間から手足に向かってじわじわと広がってきた。手も足も体も、重力から解放され底なしの沼に沈んでいく感覚。眼を閉じると、まどろみの中で例の彼の顔がぼんやり浮かび上がってくる。
現実なのか夢なのか分からない不明瞭な世界で、彼の圧倒的な美しさにわたしはただただため息をついている。
眠りに落ちる瞬間、あの燃えるような眼に睨まれた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます