第15話 甘い匂い

昼休みは、さすがに男子の中に一人混じって食べる勇気もなかったし、かといって教室に残ることもできなくて、長い渡り廊下を通って図書室がある円柱の建物に向かった。



 図書室には入らず、まずテラスに出てみる。

風はなく、日差しが注いでいて朝よりは寒さはいくらか和らいでいた。

とはいっても外で食べるには今日は肌寒く、テラスは静かで人はいない。

端のベンチに座った。



 ここなら人目を気にせず食べられるし、時間が余ったら図書館で大好きな本を見ながら時間を潰せばいい。

ママが作ってくれたお弁当。けど慣れない環境のせいかお腹は空いてなかった。おかずは手をつけずおにぎりをひとつだけ食べた。



 寒さに震えながら十分で食べ終え、テラスから直接図書室に入った。

図書室に入ると、ふわっとした空気がわたしの頬を包んだ。心地いい温かさ。

床を触ると手のひらにじんわりと熱が伝わってくる。床暖房だ。



 参考書以外にも、小説や雑誌も置いてあって学校の図書室とは思えないほどの広さだ。高校の図書室がこんなにも広いなんて。読書や勉強をするには最高の環境だ。きっとお昼寝にも。午後もここで過ごせたらいいのに。

始業時間になるまで、気になった本を手に取りパラパラと流し見したりして時間を潰した。 


 さてと、そろそろ教室に戻らないと。後半戦が始まる。

トイレに寄ってから後ろのドアからそっと入った。まだ授業開始まで少しあるから、全員揃ってはいないようだった。隣の直井くんはもう着席していた。

席に着くと、直井くんがもうずっと前からの友達のように自然に話しかけてくる。


「お昼はどこで食べたの?」


「図書館のテラスで」


「寒くなかった?」眼を丸くした。


「結構寒かった」わたしは笑った。


「カフェもあるし、外じゃなくても食べるとことはたくさんあるよ」


「みんなは普段どこで食べてるの?」


「それぞれって感じかな。寒い季節はみんな校内だけど、もう少し暖かくなってきたら外で食べる人も多いよ」


学校のことで分からないことを聞けば、嫌な顔せず何でも説明してくれた。直井くんがいてくれるから心強い。午後はあっという間に過ぎていく。

六時間目の授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。森徳学園での長かった初日が終わった。



  一日中緊張していたせいか、肩も首もガチガチに凝っていた。思い切り伸びをしたいところだけど、周りの注目をひきそうでやめておいた。手で口元を隠してあくびをかみ殺す。



 直井くんのおかげで休み時間に一人ぽつんとすることはなかったけど、結局女子とは誰とも話せなかった。

休み時間や掃除の時に、こっちにちらちらと視線を投げてくる子もいたにはいたけど、なんとなく女子はみんな遠巻きに見ている感じ。

誰があの子に最初に話しかけるんだろうみたいな、そんな雰囲気。



 初日から女子の攻略はやっぱり無理だったか・・・・・・。

でも、初めてできた友達が顔良し、性格良しの男子っていうのもいいのかな、と前向きに考える。少なくとも、誰とも話さずに一日を終えるっていう最悪な結末だけは避けられたし。


「吉野さんは部活は入るつもりなの?」


帰る準備をしていると直井くんが訊いてきた。


「うん、そのつもり」


「どの部活かもう決めてる?」


「それはまだなんだ。いろいろ見学してから決めたいなと思って」


「面白そうな部活がたくさんあるから、いろいろ見て回るといいよ。もうすぐ新入生の部活見学が始まるけど、どこの部も見学は随時やってるから渡辺先生に言ってみなよ」


「ありがと、そうする」


「じゃまた明日」直井君はにっこり笑って手をあげた。


「うん、明日ね」


 廊下の窓から外を見ると、グラウンドには運動部の生徒たちが運動着に着替えて活動を始めていた。ランニング中の生徒達のかけ声が三階のここまで届いてくる。



  並木道を通りぬけ、朝と同じように一人でバス停まで歩いていく。

朝、ここを通った時は不安しかなかったけど、なんとか大きな失態もなく今日という一日が終わって心からほっとしていた。



  学校の前の市バスの停留所には、生徒の行列ができていた。ひとりの子もいるけど、ほとんどが誰かと楽しそうに話している。混み合ったバスに乗る気分にはなれなくて、次のバスにしようかとも思ったけど、とりあえず少しでも早く帰宅したくて乗り込んだ。座れないどころか、朝とは違って生徒が多すぎて全く身動きがとれない。


 

 音楽を聴きながら、立ったまま何度も寝落ちしそうになる。

わたしは重い足取りで、マンションに向かった。

ママはかなり遅くなると言ってたから、まだ帰宅していないだろう。鞄から鍵を取り出す。ドアを開けて中に一歩入ると、馴染みのない匂いがした。

友達の家に遊びに行った時のような、他人の家の匂いがする。我が家に帰ってきたって実感が湧かない。

 


それでも疲れ切った体を休められるなら、今日は誰の家だって構わない。

ラグの上に鞄を放り出し、そのままソファーにダイブしようと思ったけど、ぎりぎりのところで考え直し深緑のジャケットだけは脱いでテーブルに置いた。



特に何をしたってわけでもないけれど、ずっと緊張しっぱなしでくたくただ。

一日が長かったようにも短かったようにも感じる。

ソファーに倒れ込むように横になると、朝から張り詰めていた緊張と疲れが一気に溶けだしてく。眼を閉じたまま、暫く動けなかった。



 朝からの一日の出来事がぼつぼつと頭の中に浮かんでは消える。学校が広くて豪華だったこととか、渡辺先生が可愛いかったこととか、女子とは誰とも話せなかったのに直井くんと仲良くなったこととか。

でも何といっても最大の事件は朝、トイレの前でぶつかった男の子のことだ。保留にしておいた彼のことをあれこれと考え始めた。



 眼を開けてごろりと仰向けになる。

それにしても……何だったんだろう。

桁違いに美しい顔に燃えるような視線。押しつけがましいような美しさではなく、なんて言うんだろう。気品があって、凛とした美しさ。彼の眼はこれまでわたしが出会ってきたどんな眼とも違った。

なんであんな眼でわたしを睨みつけたんだろう。美しさの奥に隠れた凶暴な光。



 泣いた後だったから、わたしの顔が変だったのかな。トイレの鏡で確かにチェックしたはずだけど。それとも、今まで見たこともないほど特徴的な顔だったとか。

いや、顔は良くも悪くも平均的だと思う。もしかしてわたしを他の誰かと勘違いしていたとか。



 一体彼は何者なんだろう。制服を着ていたからうちの生徒であることは確かだ。あんなに背が高くて大人びてたから、多分三年生。

抱きしめられていたあのたくましい胸と腰に回された腕の感触。



 そういえば……思い出した。抱きしめられた時、なんだか甘くていい匂いがしたんだっけ。何の匂いだろう。前にどこかで嗅いだことのある匂い……思い出せない。 頭の中の彼の甘い匂いに誘われるように、目蓋が重くなってきた。


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