第14話 ホットココア
直後に、髪のやや薄い五十代くらいの男の先生が無言で教室入ってきた。
「ありがとう」わたしは素早くお礼を言った。
渡辺先生の時とは違い、騒がしかった教室はすぐに静かになり日直から起立、という号令がかかる。きびきびと動くみんなの様子で厳しい先生だということが分かる。
授業が始まると、先生は抑揚のない小さな声で教科書に沿って淡々と講義していく。お世辞にも面白いとは言えない一方的な授業だ。
昨日の夜はほとんど眠れなかったし、メインイベントの自己紹介が無事に終わった安堵感で、とたんに眠気が襲ってきた。初日から、それも最初の授業で、転入生が居眠りして怒られるなんていう悪夢みたいな状況は避けたい。
他の生徒に気がつかれないよう、頬をたたいたり、頭を振ったりして眠らないよう精一杯の努力を試みる。それでも、絶対寝ない、というわたしの意志はあっけなく生理的欲求に負けて、一瞬意識が飛んだ。
先生が背を向けている時に、隣の直井くんがわたしの左肩をとんとんと叩いた。
顔を向けたわたしに、すごく小さな声で言った。
「この授業で居眠りはダメだよ」
わたしはこくりと頷いた。だけど睡魔は容赦ない。数分も経つと、目蓋が重くなってきて、また意識が飛びそうになる。
先生が板書している間に、直井くんは紙をすっと机の上に差し出してきた。
ノートをびりびりに破った紙に問題が書いてある。
解いてみて。
一、Bクラスのアイドル渡辺先生の年齢はいくつですか?
そう思う理由も述べてください。
二、森徳には他校にはない珍しい部が二つあります。どんな部活でしょう?
三、森徳の修学旅行の行き先は何処ですか? そこで必ずする伝統行事があります。 それは何でしょう。
四、僕の第一印象は?
五、良かったら、吉野さんについてもう少し詳しく教えて下さい。
森徳学園のパンフレットに載っていた学校の紹介を思い出しながら、板書の合間で直井くんの問題を解いてみる。ただずっと聞いているだけだと眠いけど、手を動かしているととなんとか大丈夫だ。自分についての自己紹介が一番難しかったかも。
即席で作ってくれたから、字が所々読めないほど乱れててちょっと笑えた。そんなことをしているうちに長かった五十分の授業が終わった。
直井くんのおかげで、森徳での初授業を眠らずに終えることができた。
「起立。礼」
静かだった教室がチャイムの音で活気を取り戻す。
「なんとか持ちこたえたみたいだね」直井くんはくすっと笑った。
「おかげさまで、なんとか」
「昨日は眠れなかったの?」
「うん。今日から学校だと思ったら、緊張してほとんど眠れなかった」
同級生でもよく知らない人とは敬語になってしまうわたしが、初対面でタメ口で話してる。人の心を開かせるのがなんて上手な人なんだろう。
直井くんの前では、野生の動物も警戒心を抱くのはきっと不可能だ。
「あの先生は寝てても授業中は怒らないけど、名前を全部メモしてるんだ。それで、どんなにテストが良くても評価を下げる。一番気をつけなくちゃいけない科目だろうね」
「貴重な情報ありがと」
心からのお礼を伝えた。それにこの学校で、わたしに最初に親切にしてくれたことも。
「じゃ、それくれる?」指を差した。
「回収するつもり?」
「もちろん。せっかく解いてくれたんだから答え合わせしないとね」
手を伸ばす直井くんに、あきらめて回答用紙を差し出した。
「僕の印象がホットココアって?」
「寒い時期に温かくて甘いココアを飲むとほっとするから。そんなイメージ」
「じゃ、褒め言葉だととっていいのかな?」
「もちろん」
「良かった。・・・・・・あれ、五番はあまり書けてないけど?」
訊かれれば答えられるけど、自分のことについて話したり書くのって案外難しい。
さんざん考えて、出身地と萩野高校での部活と、好きな食べ物くらいしか思いつかなかった。
「吉野さんて、北倉市に住んでたの?」
「知ってる?」
北倉市はこれといった特色があるわけでもなく、人に話しても知ってるひとはあまりいない。
「子供の頃寄ったことがある。と言っても、通ったってくらいだけどね。なかなかの都会だった記憶があるな。そんな所から来たなら、ここは山と森しかないと感じると思うよ」
「正直もう思ってるところ」
「だよね」直井くんは白い歯を見せて笑った。
「あ、次は国語ね」
「悠音」
廊下側の方から大きな声がして、振り返ると背が高くがっしとした体格の男の子が近づいてきた。
「あ、どうも。俺、大崎樹」
さっき最後まで話していて渡辺先生に注意されてた男の子だ。
「吉野です」わたしはぎこちなく言った。
大崎君が笑みを浮かべ、軽い口調で訊いてきた。
「で、吉野さんは彼氏とかいるわけ?」
「そういうこと普通、初対面で聞く? それ反則だろ」
直井くんがつっこむ。
「こういう情報こそ最初におさえとかなくちゃだろ。で、どうなの?」
大崎くんはわたしに向き直る。
「こいつは無視していいからね」直井くんは白い歯を見せて笑った。
こんな感じで休み時間は直井くんがフォローしてくれつつ、午前の授業はあっという間に過ぎていった。
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