第12話 二年B組

廊下を曲がり姿が見えなくなった階段の踊り場で立ち止まり、大きく息をついた。

彼は一体何者だったんだろう? 壁に寄りかかって右手で胸のあたりをおさえる。

今になって心臓がドキドキしていた。

心臓が拍動するのを、肺が呼吸するのをうっかり忘れてしまうくらい見惚れてしまった。


 

 掴まれた左手首がまだ痛い。でも彼が掴んでくれなかったら、固い廊下に頭を打ち付けて、今頃大変なことになっていただろう。

ぶつかったわたしをとっさに掴み、支えるなんて凄い反射神経。

そんなことを暫く考えながら、ふと我に返る。

そうだ、こうしてる場合じゃなかった。



 とりあえず、彼のことは一旦保留。

パソコン画面のウインドウを最小化するみたいに、こころの片隅に縮小して置いておく。ただでさえ初日の緊張と不安で混乱しているのに、これ以上余計なことを考えてたら完全にキャパオーバー。



 どこをどう見て回ったのかよく覚えていないけど、職員室は一階だから、とりあえず階段を下りていく。

さっきまで何の音の聞こえなかった校舎が、いつの間にかあちこちからガヤガヤと生徒達の声が聞こえてる。


 

 校舎の隅々まで、生徒達の活気に満ち溢れていた。登校の風景はどこの高校でもほとんど変わらない。ある生徒はひとりで、ある生徒は携帯をいじりながら、音楽を聞きながら、友達とふざけながら。



 ただ賑やかというのとは違う、学校、という空間だけが持つ独特な空気感。ちらりとこちらに視線を向けてくる子も何人かいた。当たり前だけど、ここには誰もわたしに声をかけてくれる人はいない。わたしは知らない人だ。

遠回りしながらも、なんとか職員室にたどり着いた。約束の時間二分前。ギリギリセーフ。 



 すでに大勢の先生達が座っていた。

さっきの親切な初老の先生の姿はなく、近くの女の先生に声をかけると壁際に座っているピンクのスーツの人よ、と教えてくれた。


「おはようございます。あの、転校生の吉野冬桜です」


先生がぴたりと手を止めて顔を上げる。


「あ、吉野さんね?」


「はい。吉野冬桜です」


 先生がにっこりした。

数日前に電話で話した弾むような声のイメージ通りの先生だった。まだ見た目は私とほとんど変わらないんじゃないかと思うくらい若くて可愛い先生。女の先生は、ちょっと小言が多いってイメージがあるけどこんなに若い先生ならその心配はなさそう。

淡いピンクのスーツで肩まである髪がふわふわとカールしている。


「Bクラス担任の渡辺絵里です。もうすぐホームルームが始まるから、そこでみんなに自己紹介してね」


自己紹介、という言葉に胃がずしりと重くなる。


「ああ、それとこの前渡せなかった残りの教科書と問題集ね。今日の授業で使うものもあるから渡しておくわね。かなり重いから気を付けて」


そう言って、十冊くらい入った紙袋を渡される。


「じゃ、教室に行きましょうか。ちょっと歩くわよ」


職員室を出て歩き出した先生の後ろをあわててついていくと、ふわりとシャンプーのいい匂いがした。


「吉野さんの前の学校は確か、県立高校だったのよね?」


「そうです」


先生に追いつき、横に並んで歩く。教科書が重くて腕が痛い。


「ここは凄く広くて設備がきれいよ。もう回ってみた?」


「はい。全部ではないですけど、さっきまで校舎を見学していました」


「そうなのね。教室もそうだけどトイレもすごくきれいだったでしょ? 数年前にリフォームしてから凄く人気が出て、県外からも通う子がいるくらいよ」


「そうなんですね」


確かにこんなきれいな校舎なら、それだけで通いたいと思うのも頷ける。どうせ使うなら、誰だって清潔感のあるトイレがいいに決まってる。


「私はここに来て三年になるんだけど、初めて来たときはびっくりしたの。敷地が広くて海外の学校みたいじゃない? 学校のすべての教室の位置関係を把握するのに一週間はかかるわよ」

 

こんなに広い学校、一週間どころか、方向音痴のわたしはゆうに一か月はかかりそう。


「この学校は近代的で最新なのに、周りは大自然に囲まれてて本当に良いところよ。冬は大雪が降ってすごく寒いけどね」


そう言って、にっこり笑った。先生というより、友達に向けるような笑顔。こんな先生なら男子生徒はもちろん、女子生徒にも人気がありそうだ。

 


 この学校は天井も高く、窓も大きいから光がよくはいるのだろう。校舎の中はどこにいても明るかった。

 


 もともと話好きなのか、緊張しているわたしを和ませようとしてくれているのかは分からないけれど、渡辺先生は職員室を出てからずっと話続けている。わたしは先生の話しに、時折返事を挟みながら、昨夜ずっと練習していた自己紹介を頭の中で繰り返していた。

  


 今日のメインイベント。

人前に立つのは昔から苦手だし、人前で話すのは話すのはもっとダメだ。

それが無事に終わらないと、先生の話も頭に入っていかない。

先生の少し後をついて、さっき自分が通った階段を上る。



 教室は何階なんだろう。

すぐに別の疑問が湧き上がった。

あのぶつかった男の子が同じクラスとかいうことはないよね?

あんな完璧な顔をした男の子の前で、オドオドしながら自己紹介をしてる惨めな自分を想像しただけでぞっとする。


 まさかね。その恐ろしい考えを打ち消した。

さっきトイレの前でぶつかった場所は、確か西棟の四階。

朝早く、用事もないのにわざわざ他の階をウロウロしないだろうから、彼は四階のクラスの可能性が高い。



 ・・・・・・と、すれば今向かっている教室が四階じゃないなら、きっと大丈夫。そもそも同じ学年とは限らないし、こんなマンモス校で、よりによって二年Bクラスなんてあるわけない。心配ない、いるはずないと小さく呟く。



 神様、お願いします!

この先、学校生活であまりわがまま言わないようにしますので、あの男の子が同じクラスにいませんように。

 


 先生の後ろを歩きながら、わたしは必死に祈っていた。

どこの教室もがやがやと生徒達の話し声が聞こえてくる。

先生がピタリと足を止めて振り返る。

 

「ここが2年Bクラスよ。どうぞ入って」

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