第10話 始まりはトイレ前


時間を確認。まだもう少し見ても大丈夫そうかな。

ふらりとトイレに寄ってみる。わたしが入ると、センサーが反応して自動的に電気がついた。

自動的に電気がつくのは、最近では特に珍しくないんだろうけど、古くて汚かった前の高校と大違いだ。もちろん全部ウォシュレットつき。



 こんなにきれいで都会的なトイレじゃ、花子さんだって出るに出られないし、第一、いるところがない。よくある学校の七不思議なんて怪談話もきっとないんだろうな。



 きれいに磨かれた曇りのない鏡の前に立つ。身を乗り出して鏡に顔を近づける。

顔色も冴えないし、コンシーラーで隠してきたはずの眼の下のクマも目立つ。

そう思い始めたら、この深緑のブレザーもきちんと寝癖を直してきたはずの前髪も、何もかもが気に入らなくなって泣きたくなる。



 わたしにはこんな洗練されたブレザーじゃなく、近所のお姉さんからもらったお古の萩野高校の制服のほうが断然似合ってた。



 感情の雪崩が起き始める。僅かな負の感情が引き金となって、急斜面を転がりながら小さな雪玉がどんどん大きくなり、ブレーキが上手く働かない。

どんなに時間がかかっても二人を説得して、萩野高校に通いたかったな……。



 部活の友達やクラスメイトが懐かしい。時代遅れの制服や、古い校舎、緑の黒板、傷だらけの机が懐かしい。教室の軋む扉や、キンコンとなるチャイム、保健室の掲示板の破れたポスター、全てが恋しい。あの高校でみんな一緒に卒業できると思ってたのに。

戻りたい。

眼のまわりがじんわりと熱を帯びてきた。


……だめ、泣きそう。

 

これから先生に会うのに、泣いたら眼が赤くなっちゃう。

慌てて上を向いて、ハンカチを取りだそうとスカートのポケットをまさぐった。

──最悪。



 こういう時に限って、いつもは必ず持ち歩いているハンカチを忘れてきた。

天を仰いでため息をついた。

──これがわたしだ。

そそっかしいというか、不注意というか。

さっきまで悲しかったのに、今度はどこまでも間抜けな自分に無性に腹が立ってきた。



 冷たい水で気持ちを切り替えようと思ったのに、ありがたいことに人肌の温水しか出てこない。仕方がないから温水で顔をそっと洗った。

制服の袖でちょんちょんと顔を拭いていく。

パリッとのりがきいている新品の制服は、水分を一滴も吸収せず見事に弾いていく。

こうなったら最後の手段。両手で必死にパタパタと顔をあおいだ。

なんとか乾いてきたかな感じ。


今、何時だろ……。


 やばっ、もう行かないと。思ったより時間が経っていた。先生との約束の時間まであと十分ちょっとしかない。

もう一度、左右の角度から鏡の中の自分を最終チェック。

眼はまだ少しだけ赤いし、水に濡れたせいできちんとセットした前髪がうねっていたけど、大丈夫と自分に言い聞かせるように呟いた。



 よし、行くぞ。

気合を入れ、トイレから小走りで出ていく。

その直後、全く前を見てなかったわたしは、誰かに思いっきりぶつかった。


「うやっ」


 ぺしゃんこに鼻がつぶれて、変な声が出る。

かなりの勢いでぶつかったから、体が後ろに弾き飛ばされた。

とっさに右足を引いて踏ん張ろうとしたけど、ピカピカの床のせいでつるりと滑った。こんな廊下で思いっきり走って滑ったら大惨事になりそう──さっき思ったことが、頭をよぎる。


転校生が初日に流血沙汰なんて、一生の笑い者だ……。



 自分の体が倒れていく感覚がはっきりと分かる。

時間が止まっているのかと思えるほどゆっくりなのに、体は何ひとつ自分の思い通りにならない。瞬きひとつさえ。

わたしに唯一できることは、廊下に打ちつけられる痛みに備えることだけだった。



 覚悟を決めたその瞬間、目にも止まらぬ速さでひゅっと長い腕が伸びてきて、わたしの左手首を掴み、もう一方の腕はわたしの腰に巻きつき、倒れかけている私の体を引きもどした。



 見事なまでの動画の逆再生って感じ。

とりあえずサイアクの事態だけは避けられたことにほっとして、大きく息をついた。

トイレから出て僅か数秒の間に起こったことに、まだ頭がついていかない。


 走る、ぶつかる、倒れる、引っ張られる……抱きしめられる。

今、わたしは誰かの逞しい胸の中にすっぽりと納まっていた。

停止してたわたしの頭がゆっくりと思考を再開する。


 抱きしめられる……わたし抱きしめられてる?!

ついさっきまで心を占めていた安堵感が、驚きにとって変わる。


 抱きしめられてるって……、一体誰に?

自分の心臓の鼓動を感じながら、ゆっくり顔を上にあげた。

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