第8話 森徳学園①
朝はなかったのに、空には綿あめを手でちぎったようなふわふわの雲がいくつも浮かんでいた。このままふらっとどこかへ行ってしまいたい気分になる。
歩いたこともない街を探検するのはきっと楽しいだろうし、近くにあった公園を散歩するのもいい。そんなことを考えながらため息をついた。
考えるだけで、初日から学校をさぼるなんていう勇気はわたしにはない。右ポケットからスマホを取り出し無事についたことをママにラインする。生徒の姿はどこにもなかった。それも当たり前か。まだ登校時間より一時間以上も早い。
さすがにちょっと早すぎたかな。ふと歩みを緩めた。
新しい革靴は固くて、足に馴染んでないからかかとにあたって痛い。
看板の所を曲がると、道は狭くゆるやかな登坂になっていて、校門まで続いている。
道の真ん中を歩くわたしの頭上を覆うように、枝を伸ばした桜の並木道を抜けると、正門の向こうに木々に囲まれたレンガ色の校舎が一部が見えてきた。
時間をもう一度確認する。まだ約束の時間までたっぷりある。
どうしよう……校内をぶらぶらしてみようかな。
正門はもう開放されていた。前にママと来た時は半分ふてくされていたから、校内には入らなかった。一歩踏み入れる前に、深呼吸をする。
肺いっぱいに息を大きく吸い込んだら、冷えた空気に思わずむせこんだ。
とにかくここで二年間踏ん張るしかない。たった二年。泣き言をいっても始まらない。わたしの人生に一度しかない高校生活は、今日ここから始まりここで終えるのだから。両の拳を握りしめながら、覚悟を決めて正門をくぐる。
パンフレットに敷地が広いと書いてあったけど、本当に広そうだ。背の高い木々が至るところに植栽されていて、高校というよりむしろ大学みたいな雰囲気。
校舎の一部の外壁はツタに覆われ、石畳のアプローチの周りには、均等な長さに刈揃えられた芝生がずっと奥まで広がっていた。ところどころに生徒が座るであろう木製のベンチが置かれている。芝に残る昨日の雨粒が太陽の光を反射してきらきらと光っていた。
学校の雰囲気は文句なしに素敵だった。
ここに通う学生はどんな子達なんだろう。
果たしてこの学校の生徒達は、これと言った取り柄もないわたしみたいなよそ者を受け入れてくれるのかな。卒業まで友達が出来なかったらどうしよう……。
一週間、この質問を何度も頭の中で繰り返してきた。手のひらで自分の頬をぽんぽんと叩いて頭を切り替えた。
石畳をずっと奥まで歩いていくとやっと校舎の入口が見えてきた。
ママと来た時に意地を張らずにやっぱり見ておくべきだった。迷子になりそうな広さだ。
アーチ上の扉をぬけていくと、色鮮やかなステンドグラスが施されたエントランスに続いていた。天井がすごく高い。前の高校とはあまりにも違いすぎて戸惑う。ドラマでしかみたことのないような近代的な学校だ。中を覗こうとおでこをガラスに近づけたら、扉が横にスライドして、慌てて頭を引っ込めた。
自動ドア!
靴箱がずらりと並んでるから、ここが生徒用の入り口だ。
えっと……、二年Bクラスの靴箱は……あった。ここだ。
Bクラスの一番最後の生徒の靴箱の下に、吉野冬桜の名前が貼ってあった。
テープの上を指でなぞる。ここの生徒だと受け入れてもらえたみたいでなんだか嬉しくなる。
ローファーを自分の靴箱に突っ込んで、持ってきた新しい上履きを鞄から出して履いた。真っ白で妙に気恥ずかしい。
さて……どうしよう。
誰もいない校舎を勝手に見て回るのはのはちょっと気が引ける。
先生に会ってなんか訊かれても嫌だし。気は進まないけど、とりあえず職員室に行ってみるしかないか。
職員室はどこだろう?
スカートの中まで映ってしまうんじゃないかと心配になるほど、ピカピカに輝く廊下。こんな廊下で思いっきり走って滑ったら、大惨事になりそう。
萩野高校は校舎はかなり古くて、外壁や内壁のあちこちにヒビが入っていた。
それに歩くとミシミシいう廊下。雨がふると校舎の一角で雨漏りがするので、青いバケツが置いてあった。午前中の授業が終わると、一目散に売店に向かって友達と廊下を走り、先生に怒られたっけ……そんなところも全部懐かしい思い出だ。
だめだめ、わたしは今日からここの生徒、と自分を戒める。前の学校の思い出ばかりに浸っていてもしょうがない。前進しなきゃ。
職員室は昇降口からそう遠くはないはず……適当に廊下を進んでいくと、予想通り廊下を曲がってすぐのところに職員室の文字が眼に入った。
ドアの前で一旦立ち止まった。
失礼します、ってドアを開けると近くに座っている何人かの先生が振り返って、じろりと見られるあの感じがどうも苦手だ。
どうしようかなと迷っていたらセンサーが反応して、ドアが滑るように開いた。
心の準備がまだできていなかったけど、先生達は数人しかいなかったし誰ひとりとして振り向かなかった。
なにしろ、ガラガラガラと騒々しく開くわけじゃないのでドアが開いても一切の音がしない。
「失礼します」
蚊の鳴くようなわたしの声に、一番近くに座っていた少し白髪の混じった初老の先生が振り向いた。
「おはようございます。あの、転校生の吉野冬桜です。二年Bクラスの渡辺先生と約束していたんですが、かなり早く着いてしまって……先生はもう来ていますか?」
しばしの間。そして思い出したように言った。
「ああ、転校生だね。ええと、渡辺先生は……と」先生は職員室を見回した。
「渡辺先生はまだいらしてないようだね。約束の時間は何時かな?」
「八時少し前には来るように言われていました」
先生は職員室の時計をちらりと見やる。
「そりゃまた随分早く来たもんだね。まだ先生は暫く来ないから、どうしたもんかな。ここで待ってもらってもいいんだけど」
「あ、いえ」間髪いれずに首を左右に振ってしまった。
できることなら、というか絶対に職員室でなんか待ちたくない。先生達がいる中で、することもなくただぼーっと待つなんて……居心地が悪すぎる。
わたしの反応から察したのか、他の案を提案してくれた。
「それなら時間まで校内を見て回ったらどうだい?鍵が開いているところなら、見ても構わないよ」
「そうします」わたしは即答した。
「校舎は西棟と東棟があってすごく広いから迷子にならないようにね。ここは東棟だよ」親切に教えてくれた。
「ありがとうございます。では、時間になったらまた来ます」
頭を軽く下げて職員室を出た。
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