第7話 始まりの朝
お気に入りの曲が、どこか遠いところから聴こえてきた。
夢の中ではなく、現実の世界で流れている音だと気がつくのに数分かかった。
眼をこすりながら、無理やりまぶたをこじ開ける。
ごそごそと布団の中から手を伸ばし、枕の側に置いてあるスマホのアラームを止める。猛烈に眠い。油断すると眠気の波に飲み込まれ、再び眠りの沼に落ちていきそうになる。
・・・・・・何でこんなに眠いのだっけ。
・・・・・・ああ、そうだ。今日から新しい学校だ。
思い出した途端に憂鬱になる。
一晩中布団の中でごろごろと寝返りをうち、明け方になってやっと眠りについたところだった。布団から這い出て、瞼をこすりながら大あくびをした。
ベッドのすぐ横のカーテンを少し開けると、あんなに荒れた天気だったのに、空の端まで見えるほど晴れ渡っていた。強風に全部吹き飛ばされたのか雲ひとつ浮かんでない。
視線を床の上に移す。胸のすくような青空を見て上がりかけたわたしの気持ちも、とたんに急降下。ごちゃごちゃ物が散乱していて足の踏み場もない。
ベッドの上で座り込んだまま、まだ二割程度しか機能していない頭で考える。
とりあえず今やることは部屋の片付けじゃなく、学校へ行く準備だ。
今日は森徳高校、初登校日。
初日から遅刻するわけにはいかず、強烈な引力でわたしを繋ぎとめようとするベッドの誘惑からなんとか逃れた。体が鉛のように重い。
リビングに行くと、ママはとっくに起きていたようで、テーブルにはすでに出来上がったお弁当がふたつ置かれていた。
「おはよう」
わたしの気配に気がついたママが洗面所から顔を出す。もうちゃんと化粧もしてる。
「一睡もできなかったって顔ね」
ママはわたしの顔を見て眉をひそめた。
「朝方に少しは眠れたんだけど……そんなに酷い?」
恐る恐る訊く。
「そうね~少しクマがあるくらいかな。大丈夫よ、もとが可愛いから」
さりげなくフォローするってことは、わたしが思ってるより酷いってことだ。鏡を見るのが怖い。洗面所の鏡に映った自分の顔にぎょっとする。血色の悪い不健康な顔に、暗い藍色のクレヨンで塗りつけたみたいな眼の下のクマ。
今日は初日なのに。
洗顔した後、熱めのお湯でタオルを絞り顔にのせた。
ネットで調べた眼の周りのむくみ取りのマッサージを試してみる。
少しはましになったかな。
「食欲なくても少しは食べて行って」
数十分眼の下のクマと格闘してると、リビングの方からママの声がした。
は~い、と返事をする。普段はよく食べる方なのに、極度の低血圧のせいなのか朝だけはお腹があまり空かない。
だから朝食はいつもヨーグルトかシリアルを少しだけ食べるのだけど、今日は寝不足でそれも入りそうにない。冷蔵庫の中の食べられそうなものを物色し、カットフルーツをいくつか口に放りこむ。
部屋に戻り、ハンガーラックにかけてある深緑の制服を手に取った。
初めて袖を通して、鏡の前に立ちくるりと一回転してみた。
うん、思ったよりは悪くないかも。初めてみる自分の森徳の制服姿に少しだけテンションがあがる。サイズも大丈夫そうだ。
コンシーラーを手の甲に一度のせ、眼の下のクマに叩きながら薄く伸ばしてごまかす。完全ではないけれど、なんとか隠せた。髪型は迷ったけど、高すぎず低すぎずの位置で無難にひとつに結んだ。
教科書は今日学校で渡されることになっているから、他に荷物はほとんどなくて、お弁当をお菓子だけを詰めた小学生の遠足の鞄のように軽い。
「じゃ行ってくる」
ママがドバタバタと足音を立て、てリビングから出てきた。
「本当に一人で大丈夫? 初日だから、ママも学校までは一緒に行ってもいいのよ」
「大丈夫だから」
学校指定の黒のローファーを履きながらつっけんどんに言う。
このやりとりは昨日からもう何回もやってる。内心うんざり。
ママは楽観的なのに、娘のことになると変なところで心配性。今日からわたしは森徳高校の二年生で十六才。一人で学校に行けないないとかあり得ないし。
もちろんネットで学校までの通学路は確認済み。転校生なんてただでさえ肩身が狭いのに、親同伴で登校して目立つのは勘弁。
今日はホームルームの前に担任の先生と会う約束をしているので、念のためかなり早い時間に家を出る。
「気をつけてね。行ってらっしゃーい」
玄関ドアを開けると、四月だというのに凍るような冬の冷気に、熱湯をかけられた魚の身のようにきゅっと縮こまった。
「さむっ」
荷解き中に冬のコートをしまおうと思ったけど、そうしなくて正解だった。こんな気候なら、去年の誕生日に買ってもらったお気に入りのベージュのダッフルコートがまだまだ活躍しそうだ。
萩野高校では自転車通学だったけど、森徳学園までは自転車で通うには距離があるのでバスと徒歩。学校のバスはこの辺りは通らないから市バスを利用する。マンションからバス停までは歩いて十分程で、バスを下りてから学校までは二十分程歩く。
停留所には二番目に並んだ。
さすがに早い時間だからか、乗客はスーツを着た会社員ばかりで、制服を着た学生は一人もいなかった。後ろから二番目の席に座る。イヤホンを耳に差し込み、スマホから音楽を流す。座ってしまえばこうして音楽を聞いたりネットを見たり、テスト前なら勉強もできる。バス通学も悪くないかも。
車内は温かく、バスの何とも言えない心地よい揺れでウトウトとし始めた頃、次は森徳学園前~というアナウンスが流れた。
森徳という言葉ではっと眼を覚まし、座席の横についてある降ります、のボタンを慌てて押した。
バスから下りて時間を確認する。乗っていた時間は四十分くらい。あちこちに停車するし、朝は道もそれなりに混んでいたので予想より時間がかかってる。前にママと車で時間を確認した時には二十分くらいだったからその倍。
ここから学校までは方向音痴のわたしでも難しくはない。ひたすら真っ直ぐいけばいいだけだ。ゆっくり歩いて行くと、白地に青い文字で森徳学園と書いてある看板が見えてきた。
とうとう着いてしまった。
この森徳学園に残りの高校生活を全て捧げるのだ。
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