第2話  落とされた爆弾①


その衝撃的すぎる懺悔をママから聞いたのは、今から三週間前の春休み直前の日曜日のこと。まだわたしが荻野高校の生徒だった時だ。

その日のことは、辛すぎてあまり思い出したくはない。



 過去形なのは、すでにわたしが萩野高校の生徒ではなくなったからだ。

簡単に説明させてもらうと、わたしがつい最近まで通っていた荻野高校は、創立八十年というそこそこ歴史のある県立の進学校で、レベルは中の上くらい。



 残念なことに制服は紺一色でリボンもなく、イマドキ信じられないくらいダサい制服。少しだけ頑張って勉強すれば誰でも入学できる、つまりはごく普通の高校だ。まるでわたしみたいに良くも悪くも平凡。

そう、人の記憶に残らない。

そこにいたのに、後から『あの時いたっけ? 知らなかった』なんて言われるのはいつものことだ。

 


 もし全人類の記録が神様の手元にあるとしたら、わたしという人物の欄には間違いなくこう書かれている。

『特記すべき事項なし』



 同じ年齢の子と比べてのんびりしているわたしだけど、まわりの友達が受験なんてまだまだ先の話だよね、なんて言っている時期から志望校はここに決めていた。

自分の実力や卒業後の進路を見据えて・・・・・・なんていうことではもちろんなく、理由は単純。

近所に住んでいる二つ上の男の先輩が萩野高校に入学したと母親から聞いたからだ。

小学校の時から誰にでも優しくて、ずっと憧れていた。いわゆる初恋ってやつ。

 


 三年生に進級したわたしはすぐさま塾に入り、参考書がボロボロになるまで受験勉強を頑張って、見事、萩野高校の合格を勝ち取った。


 何かに必死に取り組んだことのないわたしが人生で初めて大きな達成感を感じ、これでようやく自分の人生が回り始めるのかと期待したけど、結局、わたしの快進撃はここまでで、告白することはおろか、ろくに話すこともできずに先輩は卒業してしまった。北海道の大学に進学したということを風の噂で聞き、恋とも呼べないような初恋は、あっさりと終わった。



 それでも仲のいい友達も何人かでき、それなりに充実した学校生活を楽しんでいた。萩野高校での一年が終わる直前、わたしの人生を大きく変えるような大事件が我が家のリビングで起こるあの日までは。


 

 

 昼下がりの入浴後、バスタオル一枚の姿で右手にうちわ、左手にペットボトルを持ち、火照った体をさましながらソファにだらしなく体を預けていた。一昨日は真冬の凍えるような寒さが戻ったと思ったら、今日は一気に春になったかと思うくらい気温が上昇している。



 誰も見ていないのに、さっきからずっとつけっぱなしになっているテレビから、天気予報と桜の開花前線についての解説が流れてきた。

『今年は特に気温の上昇が早く、観測史上二番目に早い桜の開花となりそうです。次のニュースですが・・・・・・』



 ママはキッチンで、早くも夕飯の支度をし始めていた。トントントンという包丁のリズミカルな音。


「今日のご飯は何?」

「餃子よ」


やった、と小さく呟く。餃子は大好物だけど、肉を包むのが面倒だからと平日はお目にかかれないメニューだ。

ママは家でのんびりするのが性に合わないらしく、わたしが生まれて一年間だけ専業主婦をやったけど、わたしが二歳になると同時に仕事に復帰した。


 

 ほぼ毎日残業で、帰宅するのは九時過ぎ。

だから日曜日はこうして早めの夕飯で、早めの入浴、早めの就寝。平日は寝不足の日々が続くから、ママもわたしも日曜日は夜更かしせずに、多忙な一週間に備えるのだ。今は春休み中で、わたしは連日夜更かし満喫中だけど。



 ママはいつになく真剣な顔をして、ボウルの中のひき肉と格闘中。ある程度終わったのかぴたりと手を止めると、ちらりとこちらを一瞥してから大きなため息をつく。

お風呂から上がってから、すでに二十分が経過している。

そろそろだ。



『そんな格好してないでちゃんと服を着なさい』という小言が飛び出すのは。

靴をちゃんと揃えなさいとか、ご飯粒は残さずきれいに食べなさいとか、定番の小言がいくつか。それに変化形の小言も時々加わる。



 よく飽きもせずに同じことが言えるものだ、と感心してしまう。まあ、毎回同じことを言われるわたしもわたしだけど。キッチンで夕飯の準備をしているママがもう一度わたしに視線を向けた。

そして、何も言わずまた視線を落とした。


・・・・・・ん?


 何かがおかしい。いつもと様子が違う。

小言を言わないのは、どちらかの体調が悪い時だけだ。

ママの調子が悪い時は小言を言う元気がないし、わたしの調子が悪い時はさすがに大目に見てくれるから。



 ママは手術室に入る執刀医のように、餃子の種でベトベトになった両手を挙上しながらリビングに入ってきた。なんだか険しい顔をしてる。


冬桜とうか


 明らかに声のテンションもいつもと違う。いつもの小言じゃない。何かがおかしいという疑問が確信に変わる。ママの普段の声は糸がピンと張ったような弾んだ高い声。今の声は、いつもより半音低い。糸もたるんでる。


「ちょっと話があるの」


 ママはおもむろに、わたしがあらぬ姿で寝転んでいるソファーの前に座った。

それも信じられないことに正座で。二十分かけてせっかくひいてきた汗が、またじわりじわりと額に滲み出てきたのを感じる。



 悪い予感しかしない。緊急事態と言っていいかもしれない。

ママはわたしに話がある時、手を止めずに話すことがほとんどだ。洗濯物をたたみながら、料理をしながら、掃除機をかけながら。

ひと昔前の我が家の掃除機はブオーンブオーンと騒音を撒き散らすので、それに負けないくらいの大声をだして話す。そんな忙しいママが、こんな風に家事の手を止めてまでかしこまって話すのは、とてつもなく重大な話に決まってる。



 ニュースが終わり、最近人気の若手俳優が主演の時代劇の再放送が始まっている。

主人公が数十人はいるであろう敵の侍にぐるりと囲まれている。まさに絶体絶命のピンチ。



 ちょっと待って。わたし何かやらかした?

お風呂上がりでまだ幾分ぼーっとしている頭を、ぶんぶん振ってすばやく考えを巡らせた。一年の成績だって悪くなかったし、友達とのトラブルもない。校則違反もしてないはずだし。

あとは・・・・・・まぁ、ばれたら怒られるであろうことがいくつか思い当たるけど、そんな大事ではないはずだ。



 普段おちゃらけたママが、こんなふうに神妙な面持ちで名前を呼んでから、話をした時が過去に二回あった。

一回目の時は確かおばあちゃんが倒れた時。

わたしは小学2年生だった。

  


 それまで元気だったおばあちゃんが脳出血で倒れたのだ。しかも病状は深刻だった。医師から命が助かっても言語や運動に障害は残るだろうと言われていたけど、奇跡的にも手に軽いしびれが残っただけで、数ヶ月後無事に退院した。

今でも定期的に通院するぐらいで、おばあちゃんはピンピンしてる。



 二回目は確か、パパとママが離婚することになったんだけど、あなたはどっちについていく? って言われた時だ。あの時もママは泣きながら正座をしていたっけ。

小学校の卒業式の何日か前のことだったからよく覚えてる。

 


 どっちと暮らすのかはともかくとして、目前にせまる卒業式にママとパパ、どっちと出ようかなぁと呑気なことを考えていたっけ。パパの浮気を疑ってのことだったんだけど、単なるママの思い込みってことで一件落着。



 でも、今回は一体何だろう。

ママは座ったまま、何も言わない。その沈黙が余計に怖い。

これから落とされるであろう爆弾がどうか小さいものでありますように。

わたしは心の中で祈った。

ひとまず落ち着こうと、ペットボトルのお茶を口に含む。



 ママは唐突にギトギトの手を頭の前で勢いよくパチンと合わせて言った。

「冬桜、本当にごめん。引っ越すことになった!」

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