第19話 秋は夕暮れ(2)黄泉此良坂
スミとカナは、引き寄せられるように扉の方に首を向ける。
カナは、息を飲んだ。
夕日染まった"生く扉"の前に暗い影が浮かんでいた。
噛み心地の悪そうな黒いゴムの肌、蛆の沸いたような無機質な丸い目、切れ味の悪い包丁のような嘴、そして体を覆う理科室のカーテンのような黒い外套・・・。
カナの身体が震えた。
左目の瞳孔が開き、呼吸が荒くなり今にも吐きそうになる。
しかし、目を反らす事なく黒い感情のままに"それ"を睨む。
それは無機質な目でスミを、そしてカナを見る。
「ようやく来ることが出来ました」
その声は、異様な姿に似つかわしくない少女のような高く、そして可愛らしい声だった。
"それ"は鳥頭と呼ばれる者だった。
鳥頭は、音を立てることなく、まるで浮かんでいるかのように床を擦りながらカウンターの前に来るとゆっくりと腰を下ろした。
「・・・コーヒーを」
鳥頭が言うとスミは丁寧に頭を下げる。
そして猫のケトルを五徳の上に置いて火を掛ける。
鳥頭は、カフェの中をゆっくりと首を回して見る。
不安定な被り物をしていると言うのに首の動きには少しのブレもなかった。
「素敵な絵ですね」
スミの後ろにある桜の木に沈む夕日の絵に目を向けて鳥頭は呟く。
「ありがとうございます」
五徳の火を見ながらスミは言う。
「この夕日がまさに今の僕にはぴったりだ。なんせカラスなもので」
鳥頭は、肩と思われる部分を含ませる。
「ここは平坂のカフェなんですよね?」
「はいっ」
スミは、短く答え、蝶の形のドリッパーにフィルターを挿し、コーヒー粉を入れる。
「平坂と言うのは
「さあ、私にはさっぱり。学がないものですいません」
「僕も学なんてありませんよ。全てネットで得た知識です。ネットを見るしかすることがなかったもので」
「そうですか」
「平坂のカフェのこともネットに載ってたんです。臨死体験をした人たちのチャットでここのことが出ていました。
暗い坂の上を登ると白いカフェが現れる。そしてそこの店主に聞かれるそうです。
"生くか"?"逝くか"?を」
スミは、何も答えない。
鳥頭は、首を横に向ける。
カナが体育座りのように両足を椅子の上に乗せて両腕で足を包むように掴んでいた。
まるで暴れようとする自分の身体を押さえつけるかのように。
しかし、眼帯に包まれていない左目だけが燃えたぎる炎のように鳥頭を睨んでいた。
鳥頭は、首を傾げる。
「どこかでお会いしましたか?
僕は、ほとんど学校に行ってないので同じ年の友達がいなかったんです。
だから貴方のことを存じ上げません」
カナは、答えない。
怒りのこもった目で鳥頭を睨むだけだった。
「・・・・ひょっとして貴方は僕が手を掛けてしまった人の1人なのでしょうか?
だとしたなら・・・ごめんなさい」
鳥頭は、首を垂れる。
「貴方のことは全く覚えていないんです。と、いうよりもあの人以外に興味がなかったんです。本当にごめんなさい」
頭を下げる鳥頭の頭部に白鳥の形のカップが当たる。
カナは、息を大きく荒げ、口をパクパクと激しく動かす。
言葉は出ない。
しかし、その怒りの声は感情の波に乗って伝わってくるようであった。
鳥頭は、頭を下げたままじっとその声なき声を聞いていた。
スミがコーヒーを置く。
甘い湯気が立ち昇り、2人の合間を抜ける。
カナは、興奮に肩を揺らしながらスミを睨む。
『なぜ止めるのか!』とその目は如実に訴えていた。
スミは、何も答えずに頭を下げたままの鳥頭を見る。
"生く扉"の向かい側に"逝く扉"が現れる。
そして告げる。
「貴方は選ばなければならない。"生く"か?"逝く"か?を」
鳥頭の前に置かれたコーヒーに絵は描かれていなかった。
茶色と白のマーブルになった泡が乗せられているだけ。
黒い外套の中から白い手が現れる。
異様な外見からは想像も出来ないような白い、女の子のように白く、細い指、青白い爪、筋張った甲・・・。
鳥頭は、子猫でも抱くようにそっと蝶の形のカップを持ち、それを高く持ち上げた。釣られるように首も上に傾ける。
黒い嘴がチーズのように先端から裂けていく。
肉がちぎれるような嫌な音を立てる。
カナは、思わず耳を塞いだ。
鳥頭は、カップの縁を嘴の先に付けるとゆっくり流し込んでいく。
コーヒーがゆっくりと嘴の中に流れ込んでいく。入り切らなかった雫が嘴を濡らす。喉の動きは見えないのに飲み込む音だけが聞こえた。
溢れたコーヒーの筋と嘴の色を見てなんて対照的な黒なのだろうとカナは思った。
スミの淹れたコーヒーは、例えるなら星が煌めく夜空のような人の心を魅了する鮮やかな黒色。
しかし、鳥頭の黒はどうだろう?不法投棄で埋められたゴミから出た汚染物質がへ泥となって湧き出たような、見ただけで相手を不幸に落とすような絶望の黒。
明と暗。
陰と陽。
対照的という言葉すら弱い相反する黒にカナは気持ち悪くなって目を背けてしまう。
嘴が閉じる。
カップをそっとカウンターに置き、首を戻す。
「・・・いかがでしたか?」
「なんの味もしませんでした」
「そうですか・・・」
スミは、カップを下げる。
「このマスク・・・何度も外そうとするけど外せないんです。触ると感覚があって爪を立てると痛みまである。もう顔の一部になってしまったようなんです」
そう言って鳥頭に触る。
「僕は"生く扉"を選ぶつもりはありません。誰も僕が生きる事を望んでいないずです。母親ですら僕の死を望んでいました。父親は望んでくれているようで申し訳ないですけど、僕にそのつもりはありません。僕は"逝く扉"を選びます」
スミは、ケトルに水を注ぎ、五徳の上に置く。
「扉が開けばご自由に」
鳥頭は、席から立ち上がり"逝く扉"に向かう。そして取っ手を握り、引っ張るが"逝く扉"は開かなかった。
「扉が開かないと言うことは貴方は選んでいないと言うこと。話してください。貴方の話しを」
鳥頭は、肩を落として元の席に戻る。
そしてスミの背後の夕日を見つめる。
「もう一度、あの人に会いたい」
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