第17話 夏は月(9) エピローグ

スミは、カナの前にそっとコーヒーを置く。

 柔らかく、甘い香りの混ざった湯気が天井に昇っていく。

 相変わらず絵は失敗してぐちゃぐちゃになっている。

 カナは、椅子の上に両足を乗せて膝に顔を埋めたまま身じろぎもしない。

「冷めるぞ」

「・・・どうせ苦いんでしょ?」

「さあな」

 それ以上は何も言わずに猫のケトルを五徳の上に置き、火を掛ける。

 カナは、少しだけ顔を上げてちらりっとスミを見る。

 スミは、日に焼けたような赤い目でじっと五徳の火を見ていた。

「ねえ」

 カナは、か細い声でスミを呼ぶ。

 スミは、視線だけをカナに向ける。

「何で子どもは親を選べないの?」

 スミは、眉根を寄せる。

「勝手に作って、勝手に産んで、思い通りにならないからって殴りつけて、無視して、関心も持たない。それなの子どもは生まれてくる親を選べない。世の中にはいい親だっていっぱいいるのに。何でそんなに不公平なの?」

 カナの左目から、眼帯に包まれた右目から冷たい涙が静かに流れ落ちる。

「ねえ、なんで・・・」

 月が欠けていく。

 半月になり、段々と三日月へと変貌していく。

 スミは、湯気を上げるケトルを五徳から下ろす。

「・・・運命は誰にも決められない」

 スミから放たれた言葉にカナは付き放たれたような絶望を覚えた。

「"生く扉"で戻っても困難しかないのかもしれない。"逝く扉"を抜けても生まれ変われるかどうかも分からない。運命なんて誰にも分からないし、神様って奴にもどうしようも出来ない。

 でも・・・」

 スミは、カナの方を向く。

 そしてそっと右手を伸ばしてカナの頭を撫でる。

「こうやって手を差し伸べてあげるくらいは出来るはずだ。

 ただ一緒にいるだけでいい。

 話を聞いてやるだけでもいい。

 自分の力で出来ることがあるなら手伝ってやればいい」

 スミの手の温もりがじんわりと沁みてくる。

 「そしてこう言ってやればいい。

 君は1人じゃない、だから心配するなっと」

 そう言ってスミは小さく笑った。

 スミがこのカフェで笑ったのは初めてだった。

 懐かしい笑顔。

 懐かしい温もり。

 カナの目から再び涙が溢れる。

 先程のとは違う。

 スミの熱が染み込んだ涙が。

 スミの手がカナの頭から離れようとする。

 カナは、スミの両手首を握ってそれを止める。

 スミが驚き、目を大きく開く。

 カナの口がパクパク動く。

 必死に何かを訴える。

 しかし、それは声としては出ない。

 空気となって流れるだけ。

 カナの色が薄くなっていく。

 色白の肌が透明になっていき、三日月の灯りを透す。

 カナは、必死に訴える。 

 カナは、必死に叫ぶ。

 しかし、言葉は聞こえない。

 そしてカナの姿は消えた。

 そこに何もなかったかのように消え去った。

 三日月が目を閉じる。

 深淵がカフェに落ちる。

「どうか来世では我が子を愛して」

 スミは、小さく呟いた。

      

         第3章 秋は夕暮れに続く。

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