第16話 夏は月(8) 母親
ニヤつくような三日月が3人を照らす。
薄明かりに映った鳥頭の母親の表情からは色と力が抜けているように見えた。
「これで話しは終わりよ」
鳥頭の母親は、カップをスミの前に差し出す。
「お代わりを頂戴。絵はいらないわ」
スミは、恭しく頭を垂れて、カップを下げる。
「あの子は、ここに来たのかしら?」
スミは、猫のケトルを手に取り、ゆっくりドリッパーにお湯を注ぐ。
「さあ?私には分かりません」
鳥頭の母親は、一瞬苛ついた表情を見せるもすぐに元の力の抜けた顔に戻る。
「そう。、ならまだ生きてるのかしらね?さっさとこっちに来ればいいのに・・」
「・・・なんで?」
カナが唇を震わせて言葉を吐き出す。
「何でそんなに他人事なの?自分の子どもなのよ?」
カナは、怒りとも悲しみとも問える感情と共に言葉を吐き出す。
「貴方がもっと子どもと向き合ってればあんな事件が起きなかったかもしれないのに!誰も辛い思いをしなかったのに!」
スミの背後の三日月がこの場を面白がるように半月に姿を変えていく。
鳥頭の母親は、つまらなそうに息を吐く。
「だから戻そうと思ったんでしょ。リセットしようと思ったのよ。あの子の魂をお腹に戻して、もう一度育て直そうと思ったの。
まあ、私も馬鹿よね。そんなことしても意味ないのに。ダメな子は生まれ変わってもダメなのよ」
そう言ってせせら笑う。
「あーあっ。私の人生なんだったのかな?お姫様のような生き方をしたかったのに結局最底辺じゃない。あの子を産んだせいで私の人生って大失敗よ」
カナの顔から表情が消えた。
唇が乾き、包帯の巻かれた手を爪が食い込むほどに握り、再び血が流れ出す。
カナの中で小さなドス黒い感情が生まれた。
それを言葉にするならたったの一言。
殺意。
カナは、血で汚れる手で白鳥の形を模したカップを掴む。
鳥頭の母親は、カナの変化に気づいていない。
カナは、カップを持った手を大きく振り上げる。
「一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
唐突にスミが声を上げる。
カナの手が止まる。
鳥頭の母親は、眉を顰める。
スミは、こちらに目を向けず、サイフォンに落ちていくコーヒーの雫をじっと見ていた。
「貴方は、それだけ息子さんを憎んでいた、無関心でいたにも関わらず、どうしてあの男を殺そうとされたのですか?」
「あの男?」
鳥頭の母親は、本当に分からないと言うように首を傾げる。
「貴方の息子を刺した男ですよ」
そう言われて「ああっ」と短く答える。
「別にただムカついただけよ。自分がどれだけ幸せだったかをひけらかして・・.最後にはあの子を刺し殺そうとして・・・ヒーローにでもなろうとしてたのかしらね」
彼女が言っていることは半分当たっていて、半分間違っていた。
彼は、ヒーローになろうとはしていた。
しかし、幸せではなかった。
「そんなことでは理屈になってません」
「どういうことよ?」
「彼は、貴方の息子を殺そうとしました。それは貴方の言っていることが正しければむしろ貴方の願っていることのばず。彼は貴方のやろうとしたことを代わりにやってくれたのですから」
鳥頭の母親は、何も言わない。
「貴方、本当は怒ったんじゃないですか?息子を殺されて怒ったんじゃないですか?憎んだんじゃないですか?」
半月が楕円に変化し、歪んでいく。
心の中を映し出すように。
「貴方は、息子を殺されたと思い怒り、憎んだ。だから殺そうとした。違いますか?」
鳥頭の母親は、何も言わなかった。
スミは、ドリッパーを外し、サイフォンに溜まったコーヒーを蝶を模したカップにゆっくりと注ぐ。
そしてミルクの泡を乗せ、細い棒で何かを描く。
「貴方は、"逝く扉"を選ばれました」
鳥頭の母親の前にカップが置かれる。
「どうぞ安らかに」
置かれたカップに描かれていたのは、赤ん坊を抱いて至福の笑みを浮かべる鳥頭の母親の姿だった。
鳥頭の母親は、じっとカップを見つめる。
「・・・母親はね」
その声は、誰に向けられたものなのか?
鳥頭の母親は、カップに向けて話し出す。
「どんなに憎かろうと、産んだことを後悔しようと母親なのよ。そのお腹にいた記憶を覚えている。一緒に遊んだことを覚えている、喜びを覚えているの。
でも、それと同じくらいにプレッシャーを感じているの。
子どもが失敗すると自分が失敗した気がするの。
子どものことで責められると死んだ方が楽なのではないかと思うくらい絶望するの。
だから、子どもにはちゃんとして欲しくなるの。
鏡に映る自分が綺麗であって欲しいと願うくらいに子どもには綺麗で、美しくあって欲しい。
だから何かで失敗したことがとてつもなく許せないの。抑えられなくなるの。間違っているとわかっても止められないのよ。」
鳥頭の母親は、顔を上げる。
双眸から涙が流れ落ちる。
そう、だから私は、あの子を戻そうとした。
殺して、魂にして。
そして私も死んで、生まれ変わって、あの子を産み直そうと思った。
もう一度、そしてちゃんとした親子になれるように。
「私は、どうすれば良かったの?どうすればあの子と、自分と向かい合うことが出来たの?」
「・・・さあ」
スミは、冷たく答えた。
「ただ、私が言えることは"それでも貴方は母親だ"ということだけです」
スミの背後の月が真円を描く。
温かい月明かりがカフェの中を照らす。
鳥頭の母親が大きく目を見開く。
そしてカップに目を落とし、2人に見えないように小さく微笑むと、ゆっくりと飲み干した。
コーヒーを自分の胎内に染み込ませるように。
「・・・ご馳走様」
鳥頭の母親は、カップをそっとカウンターの上に置く。
その表情はとても穏やかなものだった。
「美味しかったわ」
鳥頭の母親は、すっと立ち上がりと日傘を手に待ち、開いた。赤い雫の付いた水色の傘が月明かりに照らされて柔らかく輝く。
鳥頭の母親は、ゆっくりと"逝く扉"に向かう。
「あの子が来たら伝えて」
こちらに振り向かずに言う。
「もう、私の子として生まれては駄目よって」
鳥頭の母親は、"逝く扉"を開く。
銀色の光が溢れ、カフェの中を包む。
「ごきげんよう」
鳥頭の母親は、扉を潜る。
静かに"逝く扉"が閉まる。
柔らかな月明かりだけがカフェの中を照らした。
つづく
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