第11話 夏は月(3) あんな子
スミに言われても特に彼女は驚かなかった。
不機嫌そうにコーヒーの絵を睨み、口を付ける。
恍惚な表情を浮かべて口を離し、いつも間にか持ってきた花柄のレースのハンカチで拭く。
「絵は最悪だけど味は最高ね」
「恐れ入ります」
スミは、小さく首を垂れる。
別に褒められた訳じゃないと思うけど・・とカナは、胸中で呟く。
「"生くか"か"逝くか"・・ね。と、いうことは私はもう死んでいるのかしら?」
カナは、驚きに左目を見開く。
「いえ、正確には生と死の狭間に貴方はいます」
「そうなの」
女性は、もう一度コーヒーに口を付ける。
「おかしいと思ったのよね。気がついたら見たこともない暗い、砂利道の坂の上に立っていて、歩いても歩いても誰ともすれ違わない。散々歩かされてようやく辿り着いたと思えばこの店に来た。死後の世界と聞いて納得だわ」
女性は、ゆっくりとコーヒーを飲み干し、カップをソーサーの上に置いた。
「それで私は、天国に行けるのかしら?」
品の良い笑みを浮かべて女性はスミに聞く。
「それともあっちに帰れるの?あの子も待っているだろうし、お夕飯を作ってあげたいんだけど」
彼女の言動に三度、違和感を感じる。
彼女の口から放たれた手指の違う言葉。
しかし、どちらも現実感がなく、嘘っぽい。
まるでどっちに転がっても良い方に、綺麗に着飾るかのような台詞。
「話してください」
スミは、無感情に答える。
女性は、首を傾げる。
「話す?何を?」
「さあ?私には分かりません。貴方が話したいことは貴方にしか分かりません」
「そう」
女性は、唇に人差し指を当てる。
「それでは私の可愛い息子の話しでもしようかしら。きっと2人ともキュンキュンするわよ」
女性は、微笑を浮かべて言う。
「どうぞ」
スミは、無機質に短く答える。
「嘘ではなく真実の話しをお願いします」
女性の顔から笑みが消えた。
固く、冷たい、能面のような顔。
「どういう意味かしら?」
その声も凍えるほどに冷たかった。
「特には」
スミは、女性の飲み干したカップを下げる。
「この店では嘘を言っても意味はない。嘘を話してたら扉は開かない。真実の話しのみが扉を開ける鍵・・・それだけです」
「開かないとどうなるの?ずっとここにいることになるのかしら?」
「消えます」
「消える?」
「ええっ。死ぬことも生きることも出来ないまま消えます。その後、どうなるかは私にも分かりません」
女性は、口を閉じ、目を閉じた。
沈黙が流れる。
スミは、猫のケトルを五徳の上に置き、火をかける。
カナは、微動だにしない女性を不気味そうに見る。
スミの背後の絵の三日月が瞼を落とすように閉じていく。
月光が弱まり、白い空間に闇が降りる。
「あんな子・・・」
女性は。ぼそりっと呟く。
三日月が完全に閉じる。
「あんな子・・・産まなければ良かった」
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます