第10話 夏は月(2) 第2の客

「こんにちは」

 その女性は、とても品の良い笑みを浮かべて立っていた。

 歳の頃は60手前と言ったところか?目尻のところに小さな皺が幾つか走っているが細面の愛らしい顔立ちをしている。少し濃いめの化粧にアイシャドウをし、口紅も少し濃い紅だ。白い帽子を被っており、肩まで伸びた髪は綺麗なストレートで薄く茶色に染めている。小柄な身体に藍色のワンピースを身につけ、ヒールの付いた花柄の編みかけサンダル、首元のハート型の小さなネックレスが品の良さを際立たせていた。

 そして細い左手には水色の日傘を持っていた。

「?」

 カナは、眉根を寄せる。

 彼女の日傘を見た瞬間、小さな違和感を感じた。

 しかし、何か分からない。

「いらっしゃませ」

 スミは、恭しく頭を下げる。

「素敵なカフェね」

 女性は、足音すらも品よく静かにこちらに向かって歩いてくる。

「まあ、素敵な絵ね」

 スミの背後にある絵を見て感嘆の声を上げる。

 でも、その後に少しガッカリしたように眉根を寄せる。

「半月じゃなくて満月か三日月ならもっと素敵だったのに」

 そう言われて絵を見ると満月だった月がいつの間にか半月に変わっていた。

 月光も弱まっており、スミの顔に少しだけ翳りがさす。

「どうぞお座りください」

 スミは、絵のことには触れず女性に席に座るよう促す。

 女性は、音も立てずに椅子を引いて椅子に座り、日傘を隣の椅子に立てかける。

 そこでカナは、ようやく違和感の正体に気づいた。

 パステルの水色の傘の表面に赤い雫模様がついているのだ。それも雨に降られたかのように散らばって。

 決してない配色ではない。作品のコンセプトによってはそう言った違和感の出る配色を敢えてすることもある。

 しかし、日傘のような日用品にそのような配色をすることは滅多にない。

 しかし、よく見るとこの赤は元々の模様ではない。

 赤い何かの塗料がそこに飛び散ってそのまま乾いてしまっているのだ。

 これって・・・。

 女性は、カナがじっと日傘を見ていることに気づき、不機嫌そうに顔を顰める。

「何か?」

 声は、穏やかで上品だが不快な感情を乗せている。

 カナは、慌てて謝る。

「すいません。とても素敵な傘なので」

「あらそう。ありがとう」

 女性は、短く答えるとカナから顔を反らし、スミの方を向く。

「紅茶をもらえるかしら?ダージリンかセイロンがあると嬉しいのだけど。ハーブティーでもいいわ。それかフレッシュなオレンジジュースでも」

「申し訳ありません。当店はコーヒーのみを取り扱っています」

「あら、そうなの」

 女性は、明らかに失望した声色で言う。

「この雰囲気の店にコーヒーは似合わないわよ。紅茶やハーブやオーガニックの料理とかがいいと思うの」

 凄まじく余計なお世話だとカナは思った。

 お客が喜ぶものを提供することはとても大切だ。

 しかし、店側にだって経営する上でのポリシーと言うものがあるのだ。

 気に入らなければ来なければいいし、帰ればいい。

 カナは、一変に女性に対する印象が変わった。

 彼女は、上品などではない。

 図々しいだけなのだ。

「善処いたします」

 スミは、小さく頭を下げる。

「それでコーヒーでよろしいですか?」

「それしかないのでしょう。頂戴な」

 ふんっと鼻息をついて捨てるように言う。

 注文を受け、スミはコーヒーを作り始める。

 蝶を模したドリッパーにフィルターを差し、コーヒー粉を入れる。

 猫のケトルでお湯を円を描くように注ぐ。

 サイフォンに溜まったコーヒーを蝶を模したコーヒーカップに注ぐ。

 そして最後にミルクの泡を乗せ、絵柄を付ける。

 その一連の動作にはまるで無駄がなく、女性は思わず見惚れてしまう。

 ソーサーに載せて女性の前にコーヒーが出される。

 女性は、驚く。

 コーヒーに描かれていたのは笑顔を浮かべる女性の姿だった。

 写真をそのままに貼り付けたように描かれた女性は今よりも若い、恐らく40代前半くらいか?とても穏やかな笑みを浮かべている。

 そしてその手には赤ん坊が抱かれていた。

 無邪気な笑顔を浮かべている赤ん坊が。

「これは凄いわね」

 女性は、感嘆の声を上げる。

「貴方どこでこんな技術を学んだの?」

 しかし、スミは答えずに頭を小さく下げて「どうぞお飲みください」と告げる。

 質問に答えてもらえなかった女性は明らかに不機嫌になる。

 しかし、それ以上は答えずにソーサーごとカップを持ち上げ、丁寧に口を付けた。

 女性の目が一瞬大きく見開かれる。

 カナは、また不味い!と吐き出すのではないかと身構える。

 しかし、女性は恍惚な表情を浮かべてそのまま喉を鳴らして飲み干してしまった。

「美味しい・・・」

 女性は、蕩けるような表情を浮かべて呟く。

「コーヒーってこんなに甘くて美味しいものだったのね。概念が入れ替わったわ」

 そう言ってカップをスミの前に差し出す。

「もう一杯いただけるかしら?」

 スミは、無言で頭を下げ、カップを受け取る。

「あの子にも飲ませてあげたいわ」

「あの子?」

 カナは、小さく呟く。

「私の息子よ」

 女性は、にっこり笑う。

 そしてカナの姿を値踏みするように見回す。

 その目つきが少し嫌らしくカナは、皮膚が粟立つ。

「貴方、高校生?」

 その言葉にカナは、一瞬反応出来なかった。

「あっ・・・そうです」

「目はどうされたの?」

「・・・ものもらいです」

「学校は?」

 また、この質問かと少しうんざりする。

「今日は休みです」

 適当に答える。

 スミの眉が一瞬ぴくんっと動くが気にしない。

「あらそうなの」

 女性は、特に疑うこともなく納得する。

「私の息子もね。高校生なの。1年生よ」

「そうですか」

「年取ってから生まれた子どもでね。それこそ目の中に入れても痛くないくらい可愛かったわ」

「・・・そうですか・・・」

 語尾が少しづつ萎んでいく。

 座り心地が悪そうに身体を揺する。

 しかし、そんなカナの様子など気にせず女性は話し出す。

「小さい頃は、ママ、ママって寄ってきて、本当に可愛かったわ。成績も良くて、運動も出来て皆んなの人気者だったのよ」

 カナは、再び違和感を感じた。

 何かがおかしい。

「学校の先生からもいつも褒められて。近所の方達からもいい息子さんねと褒められて。自慢の子だったわ」

 女性は、ニコニコして話す。

 カナは、違和感に気づいた。

 この女性が言っているのは全て過去形なのだ。

 口調は、現在進行しているようなのに話す言葉は全て過去形。

 そして上品な笑顔を浮かべているはずなのに、どこか嘘っぽい。

 まるでフランスの喜劇に出てくるピエロのようだ。 

 スミの背後の月が少しづつ欠けて行く度に翳りがさす。

 女性の上品な笑顔が下卑た狐のように歪んでいく。

「貴方、綺麗ね」

「えっ?あ?」

「ちょっと右目が残念だけど、とても綺麗だわ

 どう?うちの子と友達になってくれない」

 女性の手が伸びてカナの手に触れる。

 背筋が震え、カナは手を退かそうとする。

 しかし、その前に女性の手がカナの手を強く握り締め、離さない。

「どお?

 うちの子と友達になってくれないかしら?

 なんだったら恋人になってくれてもいいわよ」

 女性の手の爪がカナの手に食い込む。

 皮膚が破れ、血がうっすらと流れる。

 カナは、恐怖に左目を揺らし、唇を震わす。

「それとも誰か特別な人でもいるの?

 うちの子がいるのに?」

 爪がさらに食い込む。

 カナは、思わず小さく悲鳴を上げる。

 女性の目に暗い火が灯る。

 カナは、手を振り解こうとするが、華奢な身体のどこにそんな力があるのか?まったく外れない。

 爪がさらに食い込む。

「このアバズレ・・・そんなこと絶対に許さない・・・」

 女性は、空いている手で日傘を握る。

 女性の手が唐突に離れる。

 スミが女性の手をカナから引き剥がした。

 スミは、無表情のまま赤みがかった目で女性を睨む。

 赤みがかった目の奥に普段、スミが見せない感情が見えた。

 怒りだ。

 静かな怒りで女性を睨みつける。

 女性の目が恐怖に震える。

 スミの目から怒りが消える。

「お客さま、店の中では静かにお願いします」

 小さい声で言って女性の手を離す。

 そしてカナの方に向き直る。

 カナの手から血が滴り、色白の肌が青く染まっていた。

 カナの左目から、眼帯に包まれた右目から涙が溢れる。息が荒く、身体が震える。

 スミは、彼女の手を優しく握る。

 その温かい感触でようやくカナは、我に帰る。

「あ・・・」

「大丈夫だ」

 スミは、短くそう言うと、いつの間にか持っていたタオルで血を拭い、どこかから取り出した包帯を器用に巻いていく。

「直ぐに治る」

 スミは、カナの手をそっとカウンターの上に置く。

 カナは、赤く腫れた左目でスミを見る。

 女性は、苦々しい表情で2人を睨む。

 スミは、サイフォンに溜まったコーヒーを蝶に模したカップに注ぐ。

「貴方は選ばなければならない」

 女性は、スミの発した言葉が自分に向けられていることに気づかなかった。

 彼女の入ってきた扉の反対側の壁に同じ形の扉が現れる。

"生く扉"と"逝く扉"

 スミは、そっと女性の前にカップを差し出す。

 そこに描かれていたのは顔のない人間の首を絞めている女性の姿だった。

「生くか?逝くか?を」

 スミの背後の月が三日月に変わる。

 それは月下にいる3人を睨んでいるようであり、嘲笑っているかのようであった。


                つづく

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