第9話 夏は月(1) 学校

闇に笑みが浮かぶ。

 薄く、鈍い、布地を切り裂いたような鋭利な笑みが。

 笑みは、少しずつ口を開いていく。

 銀色の淡い光を放ちながら歯を見えるように笑う。

 銀色の光は、白い墨汁のように闇の中に染み込み広がっていく。

 闇の中に木が浮かぶ。

 雄々しく枝を伸ばし、艶やかな緑の葉を茂らせた大きな桜の木が。

 笑みは、銀色の光を強めながら大きく口を開いていく。

 歪に。

 楕円を作り。

 そして円へと変わる。

 そして笑みは、闇夜に浮かぶ満月へと姿を変えた。


 温度の感じない淡い月明かりの下でスミは、蝶の形を模したドリッパーにお湯を注ぐ。

 甘い湯気が月明かりに入り込み、消えていく。

 背後の闇よりも黒い液体がサイフォンの中に落ちていく。

 その雫が背後の闇から搾り出され、より純然とした穢れのない闇の卵が生み出されているかのようにカナには見えた。

 脈打つような生々しい白色のカフェ。

カウンターも、椅子も、扉も全てが白い。

 色を持つのはカナとスミ、ドリッパーから落ちるコーヒー、そしてスミの背後にある巨大な月の絵だけだった。

 触れたらそのまま沈んでいきそうな闇に浮かぶ大きな銀色の丸い月、熱を帯びない強い光を放ってスミを、カナを、カウンターを、そして平坂のカフェの中を冷たく照らす。

 丸い月の下には大きな木が映し出されている。

 幹は闇に溶け込み、輪郭見えない。しかし、鹿の角ように太い枝が幾重にも伸び、深緑の葉でその身を包んでいた。

 この木が春に花びらを美しく舞い散らせた桜の木であることは容易に想像がついた。

 季節が巡り、姿を変えた桜の木は、闇に覆われ妖艶な美しさを惜しげもなく表していた。

 

 季節はもう夏なのだ。


 カナは、左目を細めて悲しげに月を見た。

 右目には相変わらず眼帯をし、夏だというのに制服の上にピンクのカーディガンを羽織っていた。

「・・・絵変わったね」

「そうだな」

「・・・誰が描いてるの?」

「・・・さあな」

 スミは、サイフォンに向き合ったまま肩を竦める。

 その仕草を見てはぐらかしているのではなく、本当に知らないのだろうと察し、カナはそれ以上質問はしなかった。

 スミは、サイフォンに溜まったコーヒーを白鳥を模したカップに注ぐ。その上にミルクの泡を乗せ、細い棒でその表面を弄る。

 すうっと音もなく、無駄な動きもなくカナの前にカップが差し出される。

 カナは、カップをじっと見る。

 そして顔を上げると非難がましい目でスミを睨む。

「また失敗してる」

 カナの前に差し出されラテの表面はケアレスミスしたテストの答えのようにグチャグチャに塗りつぶされていた。

「何描こうとしたらこうなるの?」

「・・・すまない」

 スミは、小さな声で謝った。

 それ以上は、何も言わない。

 カナは、小さく息を付いて肩を竦めると、両手でカップを持ち、コーヒーを一口飲む。

 苦い。

 ひたすらに苦い。

 思わず顔を顰めてソーサーの上に戻す。

「砂糖はないんだよね?」

「ない」

「お菓子もないんだよね?」

「ない」

 カナは、諦めて何も言わなくなった。

 口を付けるのも憚られるコーヒーの表面をカップを揺らして波立たせる。

「学校は?」

 唐突にスミが口を開く。

「えっ?」

 カナは、驚いて顔を上げる。

「学校は行かなくていいのか?」

 突然の年長者だと思っているらしい言葉を発したスミに思わずカナはニヤける。

「その質問をこのカフェでする?」

 この世でもあの世でもないような白色だけの場所でその質問にどれだけの意味があるというのか?

 そんなことより、こんな場所で私が制服を着て、コーヒーを飲んでいることに疑問は出ないのだろうか?

 私のことを意識したりしないのだろうか?

 しかし、そんなカナの思いを他所にスミは日に焼けたような赤みがかった目で真摯にカナを見ていた。

 カナは、肩を竦め、答えることにした。

「行ってないよ」

 スミは、眉を顰める。

「あっ行ってないって登校拒否とか虐められてとかそう言う意味じゃないよ。本当にもう行かなくていいの」

 スミは、さらに意味が分からないという表情をする。

 このカフェに来てから、スミがこんなに表情を崩すのも珍しい。

 カナは、思わず笑ってしまう。

「何がおかしい?」

 スミの目に僅かに苛立ちが篭る。

 カナは、笑いながら両手を合わせて謝る。

「ごめんね。でも、学校に行かなくていいのは本当なの。心配しないで」

「・・・そうか」

 スミは、短く答えると目線をドリッパーに戻す。

「・・・でもね。確かに行けなくなりそうな時期はあったんだ・・・」

 スミは、ドリッパーから視線を外し、再びカナを見る。

 カナは、苦くて飲めないコーヒーをじっと見る。

 まるでその表面に記憶の映像が蘇るかのように。

 スミの背後の月の絵が少しだけ欠ける。

「さっきも言ったけど登校拒否でも虐められた訳でもない。その逆で私は人と関わろうとしなかったの。

 誰とも話さないし、誰のことも見ようとはしなかった。

 だからね。学校行くのにも意味を感じなくて。次第に休みがちになっていったの。

 たまに出席しても誰とも話さないで屋上にばかり行っていた。そのせいで留年しちゃったんだけどね」

 そういって恥ずかしそうに舌を出す。

「そんな時にね。私のことを無理矢理引っ張る奴が現れたのよ。屋上に来て、一緒に授業出ようとか、お腹空いてないとか。そして私の手を引っ張って、文字通り綱引きのように引っ張って授業に連れ出すのよ。

 正直うざかったわ」

 スミは、小さく鼻息を鳴らす。

「それは確かにうざいな」

 カナは、左目を一瞬大きく見開き、そして悲しそうに頬を歪めた。

 その表情の変化の意味が分からず、スミは眉を顰める。

「本当にうざかったの。ウザくてウザくて何度暴言吐いたか分からないわ!

 来るな馬鹿野郎!

 空気読め!

 大きなお世話オバケ!

 今思うと子どもの喧嘩ね」

 カナは、目を細めて小さく笑う。

「野郎と言うことは男か」

「そうよ。今気がついたの?」

 カナは、呆れる。

「好きだったのか?」

 この質問に特に深い意味はなかった。

 ただ、話の流れとしてそういう話なのか?と思って聞いただけだった。

 頬でも赤らめて「違うわよ」とでもテンプレートのように返してくるものと思っていた。

 しかし、カナの表情に浮かんだのは照れでも羞恥でもなく・・・絶望だった。

 カナは、今にも泣き出しそうな左目でスミを見る。

 唇は、小さく震え、重ねた両手を爪が食い込むほどに強く握りしめる。

 カナの唇がパクパクと動く。

 何かをスミに向かって話しているようだけど、言葉が出てこない。

 カナは、悔しそうに喉を押さえる。

「・・・大丈夫か?」

 スミは、カナの肩に手を置こうとする。

 しかし、カナはその手を払い除け、きっとスミを睨む。

 そして唇を激しくパクパクと動かすも声は出なかった。

 スミは、何も言わずにカナを見つめた。

 月がまた少し欠け、月光が弱まる。

 白い扉が開いたのはその時だった。


                 つづく

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