第8話 春は花びら(8) エピローグ

「あれで良かったの?」

 カイトが消え去った扉を見て、カナが呟く。

「あれとは?」

 スミは、猫のケトルを五徳に置く。

「あいつが戻ったことよ!」

 カナは、喉が千切れんばかりに声を荒げる。

「また、長男を虐待してらどうするの⁉︎あんな奴が改心するなんて思えない!また、繰り返すに決まってる!」

 左目に涙を溜め、頬を紅潮させる。

 スミは、目をじっと細めてカナを見る。

 桜の絵が静かに揺れ、花びらを散らせる。

「・・・彼が同じことを繰り返さないとは言えない」

 五徳に火を入れる。

「だったら・・!」

「しかし、彼は生きることを選んだ。あれだけ死を望んでいたのに、最後は生きることを受け入れた。彼が今後どう生きていくかなど分からない。知る術もない。しかし、今まで通りと言うことはないはずだ」

 カイトは、桜を見る。

「桜は、いずれ散る。

 その幹に美しい花を付けていた事など思い出させないほどに散る。

 そして次の年には新しい花を付ける。

 艶やかに、華やかに。

 変わらないように見えるが、きっとどこかは変わっている。

 花の数かもしれないし、色かもしれない。香りかもしれない。

 でも、きっとどこかは変わっている」

 猫のケトルから細い湯気が上がる。

「彼もきっとどこかは変わっている。心のどこかが。それを信じることしか出来ない」

「信じる・・・ことなんて出来ない」

 カナは、激しく首を横に振る。

「あんな奴信じることなんて出来ない!自分の子どもを虐待するような奴が変わる訳ない!私は信じない!信じない!信じない!」

「・・・人は信じられないか?」

 スミは、カナをじっと見る。

 その目には小さく悲しみが映っていた。

 カナの左目に動揺が走る。

 そして小さく首を横に振る。

「信じてるよ」

「そうか」

「私が信じているのは・・・」

 カナは、その先の言葉を紡ぐことができなかった。

 桜が散るようにカナの姿が消えた。

 最初からそこには誰もいなかったかのように。

 失敗したラテアートのコーヒーカップだけがそこにあった。

 桜が散る。

 大きく幹を揺らし、花びらが乱れ舞う。

 スミは、ドリッパーに新しいフィルターとコーヒー粉を入れる。そして猫のケトルからゆっくり渦を描きながらお湯を注ぐ。

 そしてサイフォンに溜まったコーヒーを蝶を形を模したカップに注ぐ。

 桜の木から花びらが全て落ちる。

 竜のように部屋中を飛び交い、白い空間が淡く艶やかに染まる。

 花びらがコーヒーの中に落ち、小船のように揺れる。

 スミは、じっとその様を見る。

「また、どこかで・・・か」

 スミは、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。

「次は、もっと美味しく飲めるように」

 花びらがスミの姿を覆い隠す。

 コーヒーの甘い香りと桜の匂いが混じりあい、ゆっくりと部屋を包み込んでいった。


          "夏は月”へと続く。

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