第6話 春は花びら(6) 最後のチャンス

カナは、顔を俯かせて口をパクパク動かしている。慟哭を告げているようだが声が出ない。かすかに「・・・ひどい」「・・・だと思ってたのに」という言葉が呪詛のように漏れる。

「決まったようですね」

「ああっこれでようやく死ねるよ」

 カイトは、安堵して呟き、"逝く扉”を見る。しかし、扉に変化はなかった。ノブ付いてない形だけの扉のままだった。

 胃が冷たくなる。

 カイトは、恐る恐る反対側の扉に振り返る。

 扉にはノブが付いてきた。

 扉の隙間からうっすらと光が溢れている。

「貴方は、生きることを選ばれました。どうぞ"生く扉”でお戻りください」

「なっ・・」

「なんでっ⁉︎」

 カイトよりも先に声を上げたのはカナだった。

「こんな奴生きる価値なんてない!自分勝手で性根も悪い、家族にも利己的な理由で暴力を奮って、しかも死んだ家族を利用して英雄になろうなんて・・・ただのクズじゃない!何で・・何でこんな奴が生きて・・」

 言葉が出なくなり、口がパクパク動く。

 カナは、悔しそうに、苦しそうにカウンターにうつ伏せ、泣く。

 スミは、じっと泣き崩れるカナを見た。

「その子の言う通りだ」

 カイトは、小さく言う。

「俺に生きる価値などない。なぜ生かそうとする?」

「私が選んだのではありません。貴方が選んだのです。それに・・・貴方はまだ話していないことがありますよね」

 カイトは、怪訝な表情を浮かべる。

「話してないこと?もう全て話したぞ」

 スミは、カイトの顔の描かれたラテをそっとカイトの前に差し出す。

 カイトの顔の横に小さな男の子が描かれている。カイトによく似てた目を閉じ、苦しそうな表情を浮かべる男の子。

「貴方の長男は生きてます」

 えっ?

 カナは、涙に濡れた顔を上げる。

「母親と次男は即死でしたが長男は急所が外れ、生きています。まだ集中治療室ですが医師や看護師、祖父母の献身的な介護で少しずつ回復してきています」

 スミは、小説を読むように淡々と告げる。

 カイトは、鼻で笑う。

「だから?そんなことは知ってる。でも見舞いにも行ってない。妻の親達からも顔を出すなと言われるし、あいつだって俺になんて会いたくないだろう」

 カイトは、カップに現れた長男の顔を見る。

 口元は、笑ってるのに目が少し震えている。

 スミは、じっとカイトを見る。

「長男は、貴方を待っていますよ」

 カイトは、火で炙られたように顔を上げる。

「何を馬鹿な・・?」

「聞こえませんか?」

 スミの背後の桜の木が揺れる。

 花びらがカイトのカップの上に落ちる。

 長男の絵の口が動く。

 お父さん・・・お父さん・・・。

 父親を切に呼ぶ長男の声。

 カイトの目に動揺が入る。

 花びらが吹き荒れ、カフェの中で旋風となる。

 カナは、長い髪を押さえ、スミは、目を閉じる。カイトは、手で顔を覆う。


 ねえ、お母さん

 長男の声が聞こえる。

 渦潮のような舞い狂う花びらの隙間からカフェと違う光景が見える。

 アイボリーの壁紙、紺色の3列シート、四角い窓、人々の楽しげで賑やかな声。そして仲良く並んで座る2人の子どもとショートヘアの細面の女性。

 妻と子ども達だ。

 次男は、窓を顔を付けてホームの喧騒を楽しそうに見ている。  

 長男は、祖父母に買ってもらったばかりのタブレットを開いて漫画を読んでいた。

 妻は、荷物を荷台に積んだ後、車内で食べる為に買ったお弁当を3つ、折り畳みのテーブルに置き、缶コーヒーをひと口飲んだ。

 直接その場にいた訳ではない。しかし、これが鳥頭が現れる直前の光景であるとわかった。

(何でこんなものを⁉︎)

「ねえ、お母さん」

 タブレットを閉じた長男が母親に呼びかける。

「どうしたの?」

 妻は、缶コーヒーをドリンクホルダーに置く。

「お父さんと本当に離婚するの?」

 妻は、目を見開く。

「・・・なんで?」

 妻は、長男がそんな質問をしてきたことに驚いた。

 夫・・もうすぐ元夫から1番酷いことをされたのは長男だ。私が知らないだけでも口に出来ないような酷いことをされていたはずだ。実際、長男の服の下には惨たらしい暴力の跡が消えずに残っている。それだけでも妻は生涯、元夫となる男を許す気はなかった。

「離婚して欲しくないの?」

長男は、首を横に振る。

「離婚して欲しい」

「じゃあなんで?」

 長男は、少し黙って考えてから言葉に出す。

「お父さんのしたことは許せない。でも、会えなくなるのは嫌だ」

 妻は、意味が分からず眉根を寄せる。

「どう言う意味?」

「だってお父さんだから」

 意味が分からず、「えっ?」と聞き返す。

「お父さんが変わったのってあの事件があったからでしょう?それまではずっと優しかったもん。きっと時間が立ったら元に戻るはずだよね」

 子どもの淡い、甘い期待。

 確かにこの子達に取ってはとても優しい父親だった。

 しかし、妻は知っていた。

 夫がこの子達に持っていたのは愛情ではない。

 見栄だ。

 エリートたる自分の栄光と幸福の象徴として愛している振りをしていただけだ。

 なんとくだらない虚栄心。

 それに彼は、自分にも嘘を吐き続けていた。

 彼と付き合い始めた時、こんな誠実で優しい人はいないと思っていた。実際、子ども達への虐待が発覚するまでずっとそう思っていた。あの事件だって人の良い元夫が貶められたものと思っていた。

 きっと直ぐに立ち直って元通りになると本気で信じていた。しかし、離婚を決意し、少しでも有利になるように親に協力してもらって彼を調べると、知りたくもなかった事実がゴミのように溢れてきた。

 自分を馬鹿にした友人を殴る、自分を抜いて野球部のレギュラーになった後輩を過失に見せかけて階段から突き落として怪我をさせる、大学時代に自分より良い企業に就職した友人をSNSや友人に嘘の話しをばら撒いて精神的に追い込んで退学に追い込む等、妻が知りもしなかった情報が上がってきた。

 もちろん確証はない。

 頭の良い男のだから証拠を残すようなことはしなかった。しかし、当時の高校や大学の同級生たちはあいつがやったに違いないと断言したそうだ。

 結婚式の時に会社の同僚ばかりで学生時代の友人がいないので、そのことを聞いた時、元夫は「勉強ばかりしてたから友達を作る暇がなかったんだ」と恥ずかしいそうに言った。でも、今は理由が分かる。作る暇がなかったのではなく、出来なかったのだ。誰も寄って来なかったのだ。

 ゴミのような男。

 妻は、心の中で愚痴る。

 しかし、子ども達に取ってはそれでも父親なのだ。

 あんな奴でも父親なのだ。

「お父さんに会いたい?」

 長男は、しばらく間を置き、躊躇うようにしながらも小さく頷く。

 すると、ずっと外を見ていた次男が目を輝かせて振り返る。

「会いたい!お父さんも旅行にくるの?」

 妻に庇われた幼い次男は父親の行ったことをしっかりと理解していなかった。ただ優しい父親のイメージしかない。

 長男もそうなのだろう。心の底には優しい父親がいるのだ。戻ってくると信じているのだ。

 それがありもしない幻であっても。

「弁護士さんと話してみるね。一緒には住めないけど、たまに会うことが出来るようになるか聞いてみる」

 長男は、驚いて目を大きく開ける。

 母親がそんなことを言ってくれるなんて思わなかったのだろう。

 1番、父親を憎んでいるのは母親なのだから。

 次男は、嬉しそうに目を輝かせる。

 妻は、コーヒーの蓋を開けてひと口飲む。

「最後のチャンスよ」

 誰に聞こえるでもない小さな声で呟き、笑う。

 その時の3人の姿は、とても幸せそうな家族に見えた。

 連結扉が開いたのはその直後であった。

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