第5話 春は花びら(5) 足りない話し

「私ね。エリートだったんですよ」

 カウンターに戻ったカイトからは生気が感じられなかった。先程までの余裕ぶった横柄さも、虚栄心も消え去り、体格通りの小さな男がそこにいた。

「野球が好きで頑張っていたんですが、こんな小さな身体でしょう。中学も高校も補欠止まりでした。周りからは馬鹿にされ、散々、陰口を叩かれました。『チビ』『能無し』なんてね。筋肉だけはありましたから、見つけたらボコリましたけどね」

 カイトは、乾いた声で笑う。

「だから、その分、勉学に励みましたよ。親に我儘言って塾に通い、青春など捨て去って勉強しました。そのお陰で誰もが羨む難関大学に合格しました。

 あの時は嬉しかったな。人生で3番目くらいに嬉しかった。

 そして大学でもずっと勉強して勉強して大手企業に就職しました。その頃には私を馬鹿にする奴らはいなくなりましたよ。まあ、いたとしても痛い目に合わせてやりますが。

 仕事でも手を抜くことは一切ありませんでした。そのお陰で3年目には頭角を表し、初めての彼女も出来ました。

 初めての彼女に私は、のぼせ上がりましたよ。その頃は間違いなく愛していました。そして順調に交際を続け、結婚し、2人の子どもに恵まれました。

 人生で2番目に嬉しい出来事です。

 そしてこれから2年後に係長昇進の話しが来ました。

 人生で1番嬉しい出来事でした。もう私を馬鹿にする者はいません。私の人生は、順風満帆でした」

 カイトの表情が輝き、そして消えた。

「しかし、1番が叶ってしまうと、後はもう落ちるだけなのですね。そこから私の人生は、転落していきました」

 カイトは、拳を握りしめる。

「係長になって1年もしない内に私は査問委員会に呼ばれました。

 内容は私の行った横領とインサイダー取引でした。

 会社は、内密に私のことを調べ上げていたのです。

 弁解の余地すらありませんでしたよ。

 会社も穏便に済ませたいからと自主退職を迫られました。拒否するなら懲戒解雇の上、刑事訴訟を起こすと。

 私は今すぐにでも委員会の奴らを叩き潰したかった。しかし、学生でもはない私にはそんなこと出来ませんでした。

 私は自主退職しました。

 妻にも子どもにも辞めた理由は、言えませんでした。

 言える訳はありません。

 しかし、妻は何かを察したのか、理由を聞こうともせずに普通に接しました。子どもたちの態度も変わりません。

 それが堪らなく惨めだった。

 そして私の中で何が切れ、気が付いたら家族に暴力を振るうようになっていました」

 カナの表情が恐怖に凍る。 

 細い身体ガタガタ震えだし、再び嗚咽しそうになる。

 震える手の上に温かいものが被さる。

 スミの手だった。

 カナは、驚いて顔を上げる。

 スミ自身も自分の行動に驚いているようで、カナの手に重ねる自分の手を見た。

「最初は、我儘言った長男を軽く小突くぐらいでした。

 次に引っ叩く、殴る、蹴る、段々と歯止めが効かなくなっていきました。

 理由なんて何でも良かった。

 次男にも同じことをしようとしましたが、気がついた妻が止めに入りました。

 その妻を意識が無くなるくらいに殴りました。

 長男が近所に助けを求めて、警察が来なかったら、鳥頭が殺す前に私が殺していたかもしれない。

 妻が入院しても私は合わせてもらえなかった。

 あちらの両親が絶対に合わせようとはしなかった。

 私の両親にも激怒されました。

 お前など私達の子ではないと勘当されましたよ。

 兄弟たちからもゴミを見るような目で見られました。

 あれだけ、お前は我が家の自慢だとか持ち上げていた癖に!!」

 カイトは、カウンターを叩く。

 カナは、涙目になって怯える。

 スミは、カナの手を優しく握る。

「それから妻と子どもとも会えていません。

 弁護士から離婚届けだけが送られてきました。

 私は、押しませんでした

 きっと戻ってくる。そう信じてました。

 これは悪い夢だと思い込もうとしてました。

 そしてあの事件が起きました」

 カイトの脳裏に蘇る光景。

 薄暗い部屋の中、付けっ放しのテレビに突然流れた緊急速報、テロップに流れた被害者の名前。

 現実のこととは思えなかった。

 別の世界の出来事と思えた。

 そして、この瞬間から別の世界となった。

「連日、我が家の前に報道陣が押しかけてきましたよ。

 離婚してなかったからでしょうね。

 悲劇の夫としてワイドショーにどこかから流れた私と妻と子ども達の写真が流れました。

 個人情報の漏洩ですがそんなものどうでも良かった。

 むしろ気持ち良かったです。再び自分が注目を集めていることが嬉しかった」

「最低・・・!」

 カナの口から漏れた言葉にカイトは、顔を上げる。

 カナの左目から涙が溢れていた。

「自分の家族をなんだと思ってるの?」

 唇が戦慄く。

「貴方が死ねば良かったじゃない」

 辛辣なカナの言葉にカイトは、暗い笑みを浮かべる。

「そうさ。俺が死ねば良かったのさ。そんなことは分かってるさ。でも、あの時はただただ気持ち良かった。家族にあんなに感謝したことはなかったよ」

 カイトは、思い出す。

 報道陣から浴びる言葉とライトのシャワーを。何も知らない人たちから浴びせられる労わりの声を。家族の写真を持って裁判所に向かう自分の姿を讃える世間の目がとても気持ち良かった。

 正直、鳥頭が死刑になろうが、どうでも良かった。

 むしろ感謝していた。

 こんなに俺にスポットライトを当ててくれたことを。

「しかし、再び俺は地獄に落とされた!」

 カイトは、肉を食いちぎらんばかりな唇を噛み締める。 

 血が筋となって流れ落ちる。

「裁判の時、検事に聞かれて鳥頭が発した言葉、あの言葉・・・」

 鳥頭は、左手の平を右手でポンッと叩いて答える。

『幸せそうにしていてムカついたから』

 シアワセソウニシテイタ?

 カイトの心が崩れた瞬間だった。

「幸せそうだった⁉︎俺と別れて幸せそうだっただと⁉︎俺がこんなに不幸なのに?あいつらは幸せに旅行に行こうとしていたと言うのか⁉︎」

 許せない、許せない、許せない!

 そしてそんな知りたくもない真実を教えた鳥頭を許さない!

 どうせあいつは未成年だから死刑にも無期懲役にもならない!

 なら、俺が殺してやる!

 そうすればそんな真実はなかったことになる。

 むしろ、家族の仇を打った英雄として祀り立てられるはずだ。

 俺は、学生時代から愛用していた万年筆をヤスリで研ぎ、ポケットにしまって裁判所に向かった。

 そして、決行した。

 血を流し、痙攣する鳥頭。

 それを見て笑う俺。

 警備員に取り押さえられている俺を助けた女性は言った。

『ありがとう』

この瞬間、俺は英雄となったのだ。


 ガチャンッと鍵の開く音が聞こえた。

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