@4 退屈
蛍光灯の光が途切れ途切れに僕の視界を撫でる。
「そういえばあの匂いの正体、なぜわかったんだ?」
経馬があくびをしながら振り向いた。僕はトラベレータ(動く歩道)の手すりに肘を乗せて昨夜の煙草の匂いだよ、と付け加えた。
「ああな、アンティーク集めにハマってたってのは話したよな、そいで海外からも買ってたりしてたんだよ。中東とかだといまでも喫煙者がいるだろ? それで服なんかにも匂いがついてたりすんのさ」
「納得したよ、ほら日本じゃ違法だから嗅ぐ機会なんかなくてさ」
「そうだ、そういえば結局あの女と何を話してたんだ?」
彼は昨夜の追及じゃ満足できなかったらしい。彼のニヤケ顔を見るに彼女そのものに関心があるというより、僕が女性と関わる事を面白がっているようだ。僕はときに男色家と噂が立てられるまでに浮いた話がなかったのだ。
「萩原ユヅハっていう名前だってさ、不思議な人だよ。父親がなかなかの権力者で外出やらも揉み消してもらってるらしい」
「道理でなぁ、授業に出なくても単位が出るんだろうな。羨ましい話だぜ」
彼女はいったい何を思って授業を欠席しているのだろう。勉学に対する関心や敬意を欠いているようにも思えなかった。頭が良すぎる故に退屈なのだろうか。既知の事実を一からゆっくり学ぶのはたしかに退屈だろう。
僕は経馬の大きな背中を見た。スポーツ愛好家らしい筋骨隆々とした背中。
彼は僕とは違う世界の人間だ、きっと悩みなんかもなく、自分の将来に自信満々で、そしてその気になれば誰とでも良好な関係を築ける、そういった人種なのだ。僕とは寮室が同じだっただけの関係、そうでなかったらきっと彼の名前を知ることすらなかっただろう。彼の底なしの自信を羨ましいと思う機会は多い。
僕は経馬と分かれて自分の教室に向かった。今日はそれぞれ選択している教科が違うのだ。
自分の眠気を認識しながら席につく。ほんの数時間しか眠っていないのに加え、今日は少しばかり体調が悪く、全身が鉛に置き換わったかのように重い。
僕は慣れた手付きで腕輪を端末機にかざし、回らない頭でぼーっと授業の開始を待った。
眠気を教師に感づかれてはならない、教師どもは意地悪で、僕のように夜更しをした生徒を目ざとく見つけては頭を回さないと答えを出せないような問いを出してくるのだ。答えられないと減点される場合だってある。
幸運なことに今日は討論形式ではない。この討論形式というものは僕がこの学校の授業で最も退屈だと思うものの一つだ。周囲の人と班を組み、授業の内容、例えば古典文学についてだ。それを語り合ったりあるいはまとめたりするのだ。一時間目はそれではなく、ただ教師の話を聞くだけで時間が過ぎるということだ。
僕は机に顎を乗せて端末機の画面をぼーっと見つめる。僕は隣の優秀な女子生徒が驚くべき速さでタイピングをこなすのを見つめた。
僕は昨晩の会話を心の中で再現した。萩原ユヅハとの会話だ。
「そう、てっきり何も考えずルールに従ったのかと思った」
僕はそれを聞いた時、明らかに動揺していた。自分では思いつきもしなかった言葉だ。
父さんがよく言っていた気がする。ルールや社会に疑問を持てと。小学校四年生の頃にその父さんはどこかに行ってしまった。もう顔も確かには思い出せない。白いカーテンだ。ゆらゆらと揺れる白いカーテン越しに父親がベランダに立っている。そのシルエットだけが僕の父親に対する印象になっていた。
父と母は小さい頃から互いへの興味が薄いようだった。離婚は当然の流れだ。母親に親権が渡ったのは自然な流れだった。僕が意見を挟む余地などなかったし、父も僕に執着はしなかった。母も僕にそれほど興味はないようだったが、僕を拒絶することもしなかった。
全ては勝手に決まってく、この社会の良いところでもあり悪いところでもある。自分で事を決めるというのは限りない思考力の消費なのだ、誰だって自由を求めるが誰もそれの使い方を知らない、僕だって…。
「───コズ、」
名前を呼ぶ声だ。僕はあえてそれを無視した。今は話しかけないでくれ。どこか静かな場所に行きたい。
「───仁山コズ!」
老いた女性の声、甲高く不快な声。僕がその声を無視し続けると前方からアラーム音が聞こえた。端末機からだ。ああ、そうだ。今は退屈な時間だった。僕は焦点の合わない眼を端末機に向けた。教員権限によるアラートが表示されている。
『注意:授業態度』
僕は慌てて姿勢を正した。周囲の生徒が皆僕を見つめている。隣の優等生も無言の批判を僕に差し向けた。
「えっと…これは…」
「仁山コズ、授業態度により減点です。後ほどの通知で詳細を確認してください」
古典文学の老いた女教師は教壇のスクリーンに指を滑らせた。授業後には僕の腕環にも減点の通知が来るだろう。最悪だ。僕はスタイラスを出しノートを取るふりを始めた。真面目にやるんだコズ、怠惰になるな。そう自分に言い聞かせる。何のため?
───僕たちは数字に縛られている。
信用度数、それは単純なシステムだ。その人間がどれだけ優れているか、どれだけ信用できるかを数値で表す。それは契約した個人証明企業が判断してくれるのだ。その点数は就職、進学、日常生活を決定し、文字通り僕らの生活を管理している。
日本では10歳を超えると個人証明への加入を義務付けられる。僕は、というか日本人のほとんどはフィネコン社のプランに加入している。40億の顧客を擁する世界最大の企業、それがフィネコン社(FINECON Inc.)だ。英語圏では”ファインコン”と呼ばれているらしいが、なぜか日本などでは”フィネコン”の呼び方で定着してしまった。顧客数では次に並ぶ環華(フアンファ)人民銀行とフォーディール社(Voordeel Co.)に二倍以上の差をつけ君臨している。
結果としてこの社会形態は僕たちに歴史上まれに見る究極の平和を与えた。資本と権力を分散した国際企業という存在は中央集権型の国家を凌駕し、政治思想に経済が勝るという事実を世界の94億人に見せつけた。
人々は政府に監視される事を好まない、しかし自分たちが金を払ってる相手が安全を保障してくれるとなれば話は別だ。その場合それは商品となり、全体主義などと糾弾される事はない。
教室の角にある監視カメラ、その躯体には誇らしげにフィネコン社のロゴが刻まれている。契約者たちを見つめ彼らの行動を記録し、彼らが信用に値するか判断するシステムの一部だ。指紋、静脈、虹彩、DNA、声紋、埋め込みタグ。様々な観点で僕たちは区別され追跡され判断される。我々は自分で自分の情報を差し出し、見返りに万能の証明書を発行してもらうのだ。
僕は同じような気分で他の教科を受けた。その数時間は何よりも長く感じた。
昼休み。
僕はぼーっとしながら中庭の出店に向かった。今日は食欲が湧かない、僕は小さいサンドウィッチを買うことにした。玉子や数種類の野菜、薄く成型された肉。絶妙な辛さのソースが僕にとっては魅力的だった。
「決済方法を選択してください」
担当の生徒がサンドウィッチを包みながら言う。例えば学校から支給された腕環を使った決済、これは保護者の下に請求が行く、そして僕はそれではない決済を選択した、つまり自腹だ。
「すまない、オレンジジュースも一本」
担当は手際よく冷蔵庫から一本取り出し、袋に入れた。掌をスキャナーに押し当てるとスキャナーが緑色に灯った。
「決済を確認、ありがとうございます」
金額は整数ではなかった。紙幣や硬貨に縛られない通貨制度は小数点二桁か三桁まで値段が指定されていることが多い。
木陰のベンチに座り、巨大なガラス張りの体育館の前で僕は包装を剥がした。後ろで数人の生徒が大笑いしながらキャッチボールをしている。一人の時間は落ち着くには最適だ。集団生活じゃこういった静けさは貴重すぎる。僕は唐突に思う。
「僕はいま幸せだろうか」
幸福。そう、皆が幸福のために努力をする。乾いた口の中でぐちゃぐちゃになったサンドウィッチをジュースで流し込む。将来の幸福だとか、そういったもの。僕はそのために成績を維持し信用度数を毎朝確認する。茶色いソースのこびりついた指を舐める。間違ってなんかいない、先生も、母さんだって、あの日の父さんもそう言ってた。包装紙を握りつぶしてゴミ箱に押し込む。努力は必要なんかじゃない、必然なんだ。
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