@5 迷子

 土曜日の午後。

 行き先はなかった。さっきまで晴れていた空はぶ厚い雲に覆われ、灰色の蒸し暑さだけが周囲に漂う。

 正直に言うと僕の気分とやらは優れていなかった。いままでもこんな事はあった。しかし一晩ぐっすり寝たりだとかをすれば翌日には元通りだったはずだ。全て順調だろう、何を不安がっている。僕は寮棟の外壁によりかかり頭を揉んだ。

 広場の噴水がどぼどぼと不快な音を立て、周囲の笑い声や話し声は雑音となる。僕はそれから逃げるように歩きはじめる、下手くそなギターをひく少年たち、菓子パン片手に甲高い声で噂話をする少女たち。僕の歩みはだんだんと早くなった。僕の進路に目的も効率もなかった。だだっ広い学園を端から端まで縫うように、あるいは建物の周囲をぐるぐる回ったりと、泳ぎ続けないと死ぬ魚のように僕は歩いた。

 日が傾いている、歩き初めて何時間が経っただろうか。気づくと僕は中庭に立っていた。だいたい学園の中心に位置する場所。高くそびえ立つ白い建物たちが周囲に鎮座する。

 隅っこの硬いベンチにへたりこんだ。どこからかやってきた誰かが右隣に腰を下ろした。頼む、他所に行ってくれ、ベンチなら他にもたくさんあるだろう。

 僕が立ち上がろうとすると右手に違和感を感じた、何かに摑まれている。僕はその手を見やった。六本指の腕だ。

「無視するの?」

 僕を見上げるのは萩原ユヅハ、教会にいた女子だ。鼻にガーゼをつけている。僕を見かけてわざわざ挨拶でもしに来たのだろうか。

「ごめん…気づかなかった」

「ちょうどこのベンチ、入学式の日…」

 彼女は僕の手を摑んだまま話を始めた。僕は彼女の話を折り、質問をした。

「僕のことをずっと見ていたのか?」

 しばらく沈黙があった。僕はあえて彼女の方を向かなかった。

「…うん」

 彼女と教会で出会って違和感があった。ほとんど初対面のはずなのに、僕について詳しすぎた。ずっと僕が知らないところで僕を観察していたのだろう。

「でも何故?」

 彼女は一瞬答えに迷ったように見えた。

「…私を見てくれたから」

 彼女はこう付け足す。

「でも自分から話しかける勇気はなかった。だから君が教会に来てくれて嬉しかった」

「そうか、他人から興味を持たれるのは慣れないものだな」

 長話はしなかった。僕は帰巣本能に導かれるかのように寮へと帰った。

 C509室。

 棚の上にアクリル製のトロフィーがある。一年生の頃にもらったものだ。成績と素行が優秀だった生徒に贈られるもので、この安っぽいアクリルの塊は今でも僕の心の支えになっていた。何かあったとしてもこれを見れば多少は心が安らぐ。

 経馬は朝からいない、どこかに遊びに行っているのだ。明日の朝までは帰らないなどと言っていた。そして今日は休日だ、一日中を惰眠に捧げても誰も僕を叱らない。僕は部屋の電灯を消し、ベッドに寝そべった。

 ベッドが僕の身体を鈍い針でちくちくと刺す。僕はぎゅっと目をつむり、何も見たくないと呟いた。

「僕は迷子だ。どこに行くべきかもわからず、何をするべきかも知らない迷子だ」

 夢は見なかった。

 どうにか眠ることができたものの、その睡眠は快適ではなかった。寝汗をびっしょりとかき、頭がズキズキと痛む。どれほどの時間が経っただろう。真っ暗な部屋のなか、端末機などの電源ボタンだけが光源だった。

 僕は腕環に触れ、現在時刻を表示させる、夜十時過ぎ。学食を食い逃した。僕は電灯をつけ小型金庫ほどの大きさしかない冷蔵庫を開け、中にあったチョコレート・バーを机の上に放り投げた。

 休日の消灯時刻は十一時、僕は今のうちにと部屋のライトを点けてシャワー室に入った。中に入ると鏡がある。鏡が僕の視線を検知すると僕の顔が鏡に映り込んだ。くせ毛な髪、疲れた目、左目の下のほくろ…あまり好きにはなれない自分の顔だ。

 熱い湯を頭から被る。

 秘密や隠し事というのもいずれは明るみに出るものだ、歴史がそう証明している。僕の最大の秘密はこの自己嫌悪だ。何かをする度に僕は自分を批判する、変えられない癖だ。気分は落ち込みや失望にまみれるが悪いことばかりでもない、これは自分を批判に晒せる数少ない機会だからだ。自由な社会はもはや誰も自分を批判してはくれない。それが怠惰や不適切な感情の結果だとしても、個性や自由として尊重される。成長や向上には圧力が必要だ、誰もそれをしてくれないとなれば自分でそれをするしかない。これは必要なことなんだコズ。

 長時間のシャワーによる水資源の無駄をたしなめるアナウンスで僕は気を取り戻した。僕は汗まみれの服を半分ほど溜まった洗濯カゴに投げ入れた。洗濯の時間だ。本当なら経馬が今日の担当だったはずだ。清潔な服に着替えて僕はランドリー室に向かった。

 切れかけた電灯が点滅するなか、洗濯機の回転する重低音が響く。誰もいない長椅子にカゴを下ろし、中身を小型の洗濯機に入れる。三十分間待てば清潔な乾燥した制服が出てくる。

 僕はチョコレート・バーを囓りながら壁にかかった時計を見る。

「くそ、消灯時間を十分オーバーしてしまうな」

「そんなにルールを破るのが怖い?」

 やけに幼い声が背後から響く、振り向いた僕が目にしたのは十二、三歳ほどの少年だった。

 白、それが第一印象だった。病的に真っ白な髪と肌、純白の服装。そして紅い眼。

「えっと、君は?」

 疑問、ここは高校だ。教員やスタッフ以外に高校生じゃない人間がいるはずはない。

「こんにちは、お兄ちゃん」

 混乱。僕はこの少年が見学に来た保護者と迷子になったとか、そういった可能性も考えた。しかし今はもう夜十一時、こんな時間に見学なんてありえない。

「何でここにいるんだ?」

「お兄ちゃんがここにいるから」

 わけのわからない事を言うのは子供の性だ、僕は質問を変えた。

「お母さんはどこだい?」

「いないよ」

「…お父さんは?」

「いないよ」

 僕は少年とのこれ以上の交流を諦めた。迷子は職員に突き出すのが最善だろう。とりあえず一階にある寮の事務室に連れて行こうと僕は立ち上がった。

「質問に答えてよ、先生に怒られるのが怖い?」

「君には関係ないだろ」

「関係あるよ」

 僕は無視を決め込んだ、一刻も早くこいつをどこかにやりたい、とにかく事務室に…

「おい、もう消灯時刻だぞ」

 声がすると同時に廊下の電灯が消え、赤い夜間電灯に切り替わった。オレンジ色の事務服を着こみ、大ぶりな懐中電灯を携えて現れたのは副寮長だった。寮の規律を管理し、僕たちの生活指導も行う。つまりこの若い女性は我々生徒にとってはできるだけ会いたくない相手だ。

「ああ、副寮長、こんばんは」

「こんな時間に洗濯か? 済んだらすぐに部屋に戻れ」

 副寮長はそう言うとランドリー室から離れようとした。僕は思わず副寮長を引き止めた、この迷子を連れて行ってもらわないと困る。

「何だ?」

「見えませんでしたか?この子、どうやら迷子のようで…」

 副寮長は眼鏡の奥でいぶかしげに目を細めた。

「説明しろ」

「この子、いつの間にかここに迷い込んでしまったみたいなんです、保護者もどこにいるかわからないみたいで」

 僕は手で少年を示した。

「少なくとも君の手の先には何も見えないが」

「副寮長、ですから…」

「つまらない冗談はやめろ」

 副寮長は大げさにため息を吐いた。

「お前たち生徒はいつだって私をからかう、私が若い女だから? 生活指導が口うるさいからか?」

「副寮長、そんなつもりは決して…ただ僕は」

「ただ僕は何だ? 私を侮辱してどうするつもりだ」

「この子を、」

「ほう、よっぽど減点されたいようだな?」

 副寮長は苛ついているようだった。

「いえ…何でもありません」

 彼女は不機嫌に頷きながら大きい足音を立てて部屋を去り、ランドリー室に残ったのは僕と白い少年だけだった。

 空間には監視カメラが首を回すモーター音と洗濯機の音だけが残った。

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