@2 幽霊

 寮からの脱出はあっけないほど簡単なものだった。当直に見つからないように一階に降り、施錠されていない空き部屋の窓から外に出る。

 そして経馬の指示に従い僕たちは災害用の備蓄倉庫の裏に隠れた。経馬は少し待ってろと言い、一人でどこかに駆けていった。数分後、彼はライトを消した電動バイクで帰ってきた。これが寮で言っていた奥の手か。

「そんなものどこから手に入れたんだ」

 経馬は自慢げに円柱形の鍵を指でくるくると回した。バイクの鍵だ。それもきっと教員用だ。まさかとは思うが盗んだのか。

「先公のじゃねぇから安心しな。実を言うとここの工事業者のだ。昼休みに作業員が資材置き場の工具箱に鍵を置いてくのを見て、ピーンと来たんだ。作業員の寝床はここから寮を挟んで反対側、資材置き場には警備もカメラもない、完璧だろ?」

 彼はバンと誇らしげに車体を叩いた。さきほどは暗くて見えなかったがよく見るとケイタス物流とロゴが入っていた。もともとは物流会社だが今や建築も手掛けている。バイクはこの広い学園内の移動を潤滑にするために作業員に貸し出しているものだろう。経馬もよく考える、これで森までの距離は一気に縮む。作業員もここの学生がこんなにワルだとは思わなかっただろう。

「ちゃんとこいつのあった場所を覚えているだろうな」

「ったりめーよ」

 僕たちは静かなモーター音のみをたてて広々としたコンクリートの荒野を走り抜けた。

 彼は校舎の敷地と外を隔てるフェンスの近くでバイクを停め、沿いの縁石に静かに倒した。そして助走をつけてフェンスによじ登り、僕にもそうするように言った。有刺鉄線も高圧電流もないただのフェンス。僕は手にめり込む金網の痛さを耐えた。そこからすこしばかり歩くと段々と地面の舗装が雑になり、最後は硬い土に変わった。その些細な変化は完全に外に出たんだと僕に自覚させた。

「よし、ここからが本番だぜコズ」

 目の前に広がるのは真っ暗な木々だった。どこか本能的な恐怖を呼び起こす景色だ。唾を飲み込み彼に続く。

 道のりは単調で退屈だった。木々の根が度々足を引っ掛け、虫の音が響く。

「夜というのに暑いな、帰ったらもう一回シャワーだ」

 僕は思わず愚痴をこぼした。湿度は高く、歩けば歩くほど不快感は増すばかり。彼はまるで通い慣れた家路かのように獣道を駆け抜けていった。夜の森というのは不気味だ。僕はちらと後ろを振り向いた。もはや学園は小さな光点になっていた。思わずゾッとした。こんな簡単に僕は学園から、夏休みまでは出れるはずもなかった学園から離れているのだ。

 僕は懐中電灯の光に揺れる足元のみを眺めてほぼ何も考えず自動的に歩いた。

「経馬、もうすぐ旧校舎だろうか」

「ああ、確かあと一キロだ。道が合ってたら…おっ、ほらあそこ!」

彼が指差したのは錆の浮かんだガードレールだった。もう長く使われていないのだろう。それを乗り越えると車道が見えた。ところどころひび割れたアスファルト。彼はここは昔使われていた旧校舎直通の道路だと説明し、多機能端末を取り出し何枚か写真を撮った。先輩たちに送って自慢でもするのだろうか。すぐに彼は気を取り直してバックパックの肩紐を締めた。

「ここから先は舗装されてるから幾分は楽だ、旧校舎も魅力的だが…今回は寄らない、教会に直行しよう」

「周到なんだな。僕に話すずっと前から計画してたんじゃないか?」

 僕は腕環で時間を確認した。もう深夜二時を回ろうとしていた。
「バレちまったか、実はかなり前から他にも誘ってたんだ。でもみんなに断られちまってな。ダメ元でお前を誘ったらまさかのOKだったのさ」

「…僕も断ったらどうするつもりだったんだ?一人でも行くつもりだったかい?」

 彼は友達が多い、僕と違って。

「いいや、そん時は別の機会にしたさ」

 さすがの彼でも夜の森を一人で散策する勇気はなかったということだろうか。

 彼の言った通り舗装路は歩きやすかった、僕たちは旧校舎の敷地前でちょっとだけ休憩をとることにした。タイルの隙間に生えた雑草を眺めながらスポーツドリンクを口に含んだ。

「もうヘバったか?」

 経馬が口を開いた。彼はこれっぽっちも疲れていないように見えた。彼の体力はそれこそ底なしに見える、僕と同じ身体の構造をしていないんじゃないかとさえ。

「いいや、少し休んだらマシになったよ」

 僕は立ち上がってシャツの第一ボタンを外した。明日の一限はきっと居眠りをしながらになるだろう。

「学校から抜け出すのは何度目なんだ?」

 僕は唐突に定期的な足音と呼吸音の連続に言葉を挟んだ。

「三度目。一年の頃に一回やってバレて、そん時に先輩たちに気に入られたんだ。骨のあるやつだってさ、それで二回目は二年の頃、先輩たちと旧校舎に寄った」

 どおりでこれまでの道のりが慣れきったものだったはずだ。教会に行くのは彼も始めてなのだろうか。

「毎年の恒例行事ってわけだ、最後の年に同行できて光栄に思うよ」

「そいつぁどうも、いやでもちょっと待てよ、実は数学の単位が怪しいんだ、ひょっとしたら最後の年じゃあねぇかもしれねぇな」

 本気なのか冗談なのか。

「ほれ、この看板を見てみろ」

 彼が指差したのは青いスチール製の看板だった。ところどころ錆びついてほとんど読めなくなっている。僕は腕環を近づけて接続を試みたがもう通電していないのだろう、繋がらなかった。

「おいコズ、そいつぁただの鉄板だぜ、地理情報接続なんざ対応してねぇよ」

 都市にある看板は基本的に端末に接続すれば付近の情報がすぐに閲覧できるのだが、この看板はそもそも規格が世に出回る前に建てられたものだろう。僕はばつが悪くなり試してみただけだと言い訳をした。

「聖綜栄学園附属教会まであと500m…かな?」

 僕は電灯を当てて看板の文字をかろうじて読みとった。経馬は多機能端末で地図を確認し、正解と呟いた。

「そういえば幽霊の話、どんな話だったんだ? 先輩から聞いたんだろう?」

「女の幽霊って事ぐらいしか、強いて言うなら短髪だったらしいな、肩にかからないぐらいの。制服を着てたとか」

 意外としっかりとした外見がある。こういったのは大抵見間違いで白い羽織を着た長髪の女っていうのが大多数な印象を持っていた。何にせよ、ただの嘘っていうのが僕の見解だ。

「非科学的に考えるなら…死んだ生徒って設定になるだろうな」

「先輩たち、そいつを見るや否や逃げ出しちまったらしい」

「経馬、僕も幽霊を見たら君を置いて逃げてやる」

「へへっどうだか。お前、俺より足が遅いじゃねぇか」

 500mはすぐだった。

 小ぶりながらも教会としての最低限の威厳は存在している、そういった感じだろうか。灰色のコンクリートの角柱が有機的に絡み合っており、暗さや汚れも相まってそれは大型動物の白骨死体のような印象を抱かせた。

「教会というからにはバロック様式のものを想像していたが…これはまた変な形をしているな」

 僕はサン・ピエトロ大聖堂のようないかにもな古めかしく厳ついものを想像していたのだ。

 僕と経馬は電灯の照度を最大にして教会の正面に立っていた。頂上の金属製の十字架が光を反射して煌めいた。はっきり言って不気味だ。

 宗教というものは、世界的には50年代から穏やかに終焉を迎えた。宗教組織は慈善団体や人道支援団体へと変わっていった。誰もが予想できた事態だ。神や精霊というのは無知が生み出す一種の妄想なのだ。自然科学が発展していなかった時代の人間には精神安定剤や社会の潤滑油になったかもしれないが、今の発展した世においてそれは笑えない冗談だ。

 僕たちは半開きの扉を開き教会の中に忍び込んだ。中には妙な匂いが立ち込めていた。

「うっ何だこの匂い、何かのガスか?」

 僕は腕で鼻を覆い経馬の方を向いた。経馬は呆然と立ったままその匂いを嗅いでいた。彼が賛成ならすぐにでもこの場を離れようかと思ったのだが、どうしたというのか。

「待てコズ、この匂い…どこかで」

「有毒な可能性もあるんじゃ…」

 僕が言いかけたその瞬間、教会の奥の方から金属製の何かが落ちたような音がした。僕たちは顔を見合わせてしゃがんだ。

「行くぞ」

 彼は僕の意見を仰ぐでもなく迷わず音のした方角に足を進めた。奥に進むに連れてこの独特の匂いも強くなっていく。演壇を通り過ぎ、彼は向かって左側の扉に進んだ。僕の脳内はただ単に風やらに煽られて何かが落ちただけであってほしいという願いで埋め尽くされていた。いくつか左右に繋がる道もあったが経馬は一直線に進んだ。彼には正体の方向を間違えない何らかの自信があるようだった。

 願いは届かない。まただ、今度は金属と金属がこすれるような音。

「そこに誰かいんのか⁉」

 経馬は走りながら最後の扉を肩で思い切り開け放った。ヒンジが破裂し、扉が鈍い音をたてて壁に強烈に打ち付けられた。驚いた事に真っ先に目に入ったのは暖色の光だった。机の上に火の灯った蝋燭が数本置いてあるのだ。そしてこの部屋は物置きなのだろうか、周囲には等身大のマリア像や木製の十字架などが乱雑に並べられていた。匂いはさきほどと比べ物にならないくらいに充満していた。

「経馬、これは…」

 経馬は無言で部屋の中を見渡し、しゃがんで床からあるものをつまみ上げた。紙を小さく丸めたような物体だった。先端が焦げている。

「…煙草だ」

 僕がそれについて尋ねる前に経馬は部屋を出ていった。何だか悔しそうだった。

「逃げられちまったみたいだな」

 僕は外れかかった扉によりかかり、緊張しながらの走りで早まった心臓の鼓動を収めようとした。当たり前だが少なくとも幽霊ではなさそうだ。幽霊は煙草を吸わない、多分。

「幽霊だったら出会う方が勘弁さ、でも今回は…うわぁっ!」

 身体のそばに何かうごめくものを感じた。僕は思わずライトを”それ”に当てた。そこにあったのは血まみれの顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る