第十話 おまえの神
龍には出会わぬまま、無事街の門をくぐった。
あたらよ宿に駆け込むと、皆まで言う前に雪丞は状況を察し、納戸にあるありったけのサカキの葉を運んできてくれた。
タケミカヅチ一行も見守る中、五郎八をベッドに横たえて、周と須玉が手分けして葉をかざしていく。
神の身体は神通力の塊のようなものらしく、神通力を満たせば傷も自然と治るそうだが、五郎八は腕の爛れにさえ目に見えての回復はなかった。ただすべての葉を使い終わると、頑なだった指先だけはほどけた。
「おまえたちは触るなよ」
そう言って雪丞は鍛冶場で使っているらしい皮厚のグローブを手にはめると、五郎八の手から剣を抜き取った。グローブに特殊な効果でもあるのか、剣は閃光で抵抗することなくすんなりと鞘へと納められた。雪丞はその剣を、わざわざ五郎八の胸の上に置いた。
「いいか、この剣は絶対におヒメから離してやるなよ。おヒメが今かろうじて存在を保っていられるのは、こいつのおかげだからな」
「おかげって──むしろ、剣のせいで傷ついたんじゃ」
周が言うと、「一見そう映るだろうがな」と雪丞は外したグローブを、エプロンのポケットに突っ込みながら言った。
「腕の傷と、おヒメが消えかけていることとは別モンよ。鞘の封印でうまく隠していたようだが、まず間違いなくこいつは神剣の中でもトップクラス。ひょっとするとこの
最後は特にタケミカヅチの方を見ながら言うと、雪丞は五郎八の無事な左手を剣の上に置いてやった。タケミカヅチは肩をすくめた。
「剣神といえど、剣を収集する熱はないもんでな。無粋な真似はせんよ。しかし、これは悪しき前例だな。低レベルでも、神ならばある程度の神通力はひねり出せることがわかったわけだ」
「簡単に言ってくれるがな。おまえさんたち天津神に、ここまで自分をすり減らすような真似ができるのか?」
神にも遠慮せず睨みつける雪丞に、タケミカヅチは高らかに笑った。
「そう言われると、できぬ、しない、としか答えようがないな。──特に勇者のためともなると」
ナチュラルに見下されたが、周にはなんの反発も生まれなかった。護るという約束を知らない者からしたら、自分のような凡人を救ったのは五郎八の酔狂でしかないだろうと、身の程をわきまえていた。
そして約束を知っているからこそ須玉は、うっかり殺されかけたことを許してはくれないだろうともわかっていた。五郎八は死んでも約束を守る。だからこそ周は、死ぬ気で生きなければならなかったのだ。ちょうど須玉と目が合ったが、案の定逸らされてしまった。
「それにしても、葉をいったい今何枚使った? 二十枚ほどか? それでこの程度の回復とは、想像を絶するマイナス値だな。ステータスはどうなってる?」
タケミカヅチに言われ、須玉がすぐさまメンバー情報を確認したが、五郎八のGP数値はゼロになっていたようだ。
「ここまで自己犠牲に走る神がいるなど、オモイカネさまにさえ思いもよらなかったのでしょう。きっとマイナスなんて、表記する機能がそもそもないのですわ」
「そうだろうな。オモイカネが意表をつかれるなど、珍しいことだ。今度会ったらからかってやろう」タケミカヅチがくっくと笑う。
「ま、おまえたちからしたらマイナスを突きつけられたところで絶望するだけだったかもしれないからな。ここは機能の不備を喜べよ」
一理あったが、絶望という単語に周は胸を痛めた。同じ神が自然とそう口にするということは、それだけ状況が厳しいということ。もはや五郎八は元通りには回復しないのではないかと不安になった。
「おれたちはこれから、どうすればいいんでしょう」
ついタケミカヅチに導きを求めたが、武神は耳をほじくりながら「知らん」と言い放った。
「心が折れたなら、もう勇者の勾玉など捨ててしまえ。町で適当に職を見つけろ。そして寿命が来たら死ね。それが一番誰の迷惑にもならん」
「そんな」
「そんな? なにがそんなだ? この
タケミカヅチは須玉に同意を求めたが、
「バカ言ってんじゃないですよ」
と須玉は周を見ぬまま口を開いた。
「目が覚めて、勝手に離脱されていたらヒメさまはきっとご自分をお責めになります。もっとうまく助けられていればよかったのに、と──。少なくともヒメさまが目覚めるまで、無能なりに勇者でいてもらわねば困ります。そのあとなら好きにすればいいですが」
「なるほどヒメさまのため、か。忠誠心の高い鬼だなあ、おまえは」
変態らしくほっこりと笑う。
「であれば勇者よ、おまえのやることは決まっている。ひたすらヨルを稼ぎ、ひたすらサカキを購って、ヒメのステータスのバーが色づくのを待つのだ。くれぐれもヨル稼ぎでうっかり死ぬなよ、ヒメの働きが無駄になるからな。もっとも死んだらそれはそれでヒメを慰めるネタができて、我としてはおいしいが」
「いや、気をつけます。死にません」
「ふ。人とは実にあっけなく死んでしまうものだからな。気をつけたところでどうなるか──まあ今回ばかりはおぬしのおこぼれで、我が左腕も繋げてもらったようなものだからな。時々は我も、葉を差し入れに見舞ってやろう。今日のところはもう十分働いたゆえ帰るが、なにかあれば知らせろよ。特にヒメの容体はな」
念押しをすると武神は双子を引き連れて、もう部屋から出て行こうとする。が、腕の話が出たので「あの」と周は呼び止めた。
「落ちたとき、左腕が庇ってくれたのは偶然ではないですよね? あの時点ではあなたが一番深手だったのに、お気遣いいただいてありがとうございました。すみません、お礼を言うのが遅くなって」
「ああ、あれか。どうせもう使い物にならん腕だったからな。ただ朽ちさせるよりはと思ったまで。礼を言われるほどのものでもない」
「でも、おかげで即死は免れました」
「フン。どうせお主が即死していようと、この女神は同じように力を使って助けていただろう。道程など些末なものだ。いっそ即死していた方が、助けを待つ間も楽だったかもしれんぞ」
「それでも、嬉しかったからいいんです。ありがとうございました。漆さんと蕨さんも、二度も運んでくださってありがとうございました」
周は深々頭を下げたが、「フン」と再びそっけなく鼻を鳴らして、タケミカヅチたちは部屋を出て行った。
「ま、なんだ。天津神は高貴すぎて、地上に滅多に寄りつかぬからな。人間に直接礼を言われて照れておるのだろう。──おい、おまえさん、どこへ行く」
雪丞は、須玉もまた出て行こうとしたのを呼び止めた。須玉は恨みのこもったような、疲れ切ったような、色の悪い顔で振り向いた。
「ヨルを稼ぎに行くんですよ。決まってるでしょう」
「こんなすぐにか? おまえさんも、ここまで気を張っていただろう。少しくらい休んだ方がいいと思うがのう」
「なにかしている方が、気がまぎれるんです」
「それならおれも一緒に行くよ」
周は一歩進み出た。が、途端に須玉は眉を吊り上げた。
「おまえは、いりません」
その小さな口から出たのは、はっきりとした拒絶であった。
「武神の言っていた通り、ここで死なれちゃたまりません。ヨル稼ぎはすべてあたしがやります。おまえは自重して、部屋でヒメさまのお側番をしてなさい。……それくらいなら、無能でもできますよね?」
周が返事もしないうちに、バタン、と勢いよくドアが閉められる。
「えっと……あれは、遠回しに休むよう伝えているんだと思うぞ?」
さすがに苦しすぎる雪丞の慰めに、「いいんです」と周は力なく言った。
「おれが足手まといなのは、事実ですから」
それでも今までは、足手まといなりに良い関係でやっていたと自分では思っている。しかし積み重ねてきたものすべて、刻の彼方に置いて来てしまったような、そんな心許なさがどうしても拭えない。
──おまえの神が、おまえのために傷ついて欠けていく様を見たくないなら、旅をやめるより他になかろう。
タケミカヅチの言葉が、不安な胸中にじわじわと染み入るのであった。
*
「待ってください」
宿を出たところで、須玉は雑踏に紛れかけるタケミカヅチの背中を呼び止めた。
振り返った武神は、相手が須玉と知るや嬉しげに相好を崩したが、「確かめておきたいことがあるんです」と須玉は距離を詰めぬままに問いかけた。
「龍から逃げるとき、
「殺されかけずに済んだ、か?」
タケミカヅチは言葉の先を察すると、冷ややかに笑った。
「どうせ風刃は我に届いていたのだ。同乗していたところで、ともに切断の憂き目にあっただけであろう。命の危機は変わらん」
「でも」
食い下がろうとする須玉を掌で制し、武神は言った。
「なぜ同乗させなかったか、だったな? そんなもの決まっている。人ごときが我と相乗りなど、分不相応もはなはだしい。だから掴んだ。それ以外になにかあるか? そもそも連れて行ってやっただけでも、感謝されねば割に合わんのだがな。あんなお荷物は置いて行くのが当然だというに、ヒメの手前我慢してやったのだ。ほれ、今からでも遅くはないぞ。我が胸に飛び込んで、慈悲への感謝を涙ながらに述べるがいい。ほれ、ほれ」
「いいです、もう。武神の考えはよぉくわかりました」
須玉は腕をオープンにして待つタケミカヅチの横をするっと抜け、門を目指して進み始めた。
「おい。鬼ともあろうものが、まさか勇者ごときに感情移入しているのではあるまいな?」
今度は須玉の背に、タケミカヅチが問いかける番であった。まさか、と須玉は答えた。
「ただヒメさまの持ち物を、よそ者がぞんざいに扱うことに敏感なだけです。それ以外になにかありますか?」
「いや。実に十分な答えだ」
「ならよかったです」
須玉は足を早め、その姿をタケミカヅチの視界から消した。
「……フン。自分から呼び止めてきたくせに、なにかやましいことでもあるみたいな去り方だな」
「意中の神にも神使にしてもらえぬ、一角鬼ですもの。無能同士感じるものがあるのでは?」
クスクス笑う蕨に、つまらなそうにタケミカヅチは言った。
「そもそも勇者のことなど我はどうでも良いのだ。てっきりヒメについて釘を刺されるかと思ったのだがな。拍子抜けもいいところだ」
「若様、やはりあの女神は……」
「おっと、こんな場所で皆まで言うなよ。おまえの考えている通りだからな。──まったく、異物は異物でも、予想以上の大物が釣れたものよの」
「若、どうする、つもり? 天に、報告?」
「いや、報告はもっともつまらぬ手立てだ。それだけはせぬよ。まあ、おまえたちは黙って我に従えばよい。どう攻めてやるものか、しっかり策を練らねばな」
考えながら武神は、天高く浮かぶ、神々の国に向けて不敵に拳を握りしめた。
「禍ツ媛さえ手に入れば、天の勢力図まで手中に収めたようなもの。心が踊るなあ……」
「若、いま」
「おっしゃいましたわよ、ご自分で」
神鹿たちに指摘され、タケミカヅチはわははと己を笑い飛ばした。
「まいったな。新しい玩具を前に、どうも浮かれておるようだ。横取りされぬよう気を引き締めねばならぬのになあ。そうだ、久方ぶりに甘づら氷でも贖って、頭を冷やすとするか?」
この提案に、ぱあっと双子は顔を輝かせた。
「それは良いお考えですわ、若様!」
「甘づら、好き」
「うんうん。龍から逃げ切った褒美に、おまえたちの分もたっぷり買ってやろうな」
須玉とは対照的に、うきうきと軽快な足取りでマーケットへと向かう武神一行であった。
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