第九話 ランチタイム・エスケープ

 つるはしと光石のランタンをバッグに入れ、一行はついに鉱山へと踏み入った。

 坑道内は天井間際に小さな燭台がまばらに備え付けられているだけで、薄暗い。光源も兼ねてさっそく光石のランタンを灯してみると、呼応するように四方で鉱石が輝きを放ち、トンネルを彩った。

 その美しさに一行はほうと嘆息を漏らしたが、後ろで「あら、いやだ!」と風情ない声が響く。


「わたくしのツノまで光っていますわ。鉱石なんぞとわたくしのツノを一緒にするなんて、失礼しちゃいますわね」


「まったくだな」


 横でタケミカヅチも頷いている。


「ツノこそ極上の至宝、宝石ですら比べものにならんと言うに。──しかし発光するおまえのツノ自体は、とても美しいぞ。このまま手折ってしまいたいくらいだ」


「ま。いやですわ、若様ったら」


 いったいなにが哀しくて、こんな会話を聞かなければならないのだろう。周はげんなりしていたが、五郎八は神らしい純粋さで後ろに声をかけた。


「嫌な思いをしてまで、ついて来なくていいのだぞ。誘ったわけでもないのだからな。今のうちに引き返しておくといい」


 言う者によっては皮肉だが、五郎八のは親切百パーセントである。それがわかっているからこそ、ツノ女──蕨は恥じ入るように、


「いいええ、帰りたいわけではありませんの。どうかお気になさらず」


 と笑ってごまかしていた。

 不服そうなのは須玉である。


「本当、誘ってもないのになんでついてくるんですかねえ。レベル10越えなら、とっとと次の街へ行っちゃえばいいのに」


「そこ、聞こえてますわよ! ランタンを貸してさしあげたのはわたくしたちなのだから、乱暴に扱われていないか確認するのは当然でしょう?」


「へーえ、そんなに信用できない相手に貸すなんて、酔狂ですねえ。だったら街に戻り次第自分たちのを買うことにしますので、明日からついてこなくっていいですよ。そっちの変態武神にも伝えておいてください」


「んま! 一角ごときがなんと無礼な」


 薄闇の中、バチっとふたりの視線から火花が散る。が、これももはや恒例行事だ。

 先日のクエストトラップ事件以来、毎日毎日タケミカヅチ一行はしれっと冒険に同行してくるのである。

 気にしないでくれとタケミカヅチは言うが、会話にはガンガン入ってくるし、ちょいちょい女性陣を口説くし、言葉とは裏腹に存在感が甚だしい。おかげで須玉は始終イライラしていて、特に蕨には蹴り飛ばされた恨みからか、元々の相性の悪さからか、事あるごとにこうして突っかかりにいくのだ。

 見るに見かねた五郎八が「名であれば教えるから」とついに自ら名乗ったものの、タケミカヅチは「五郎八比売? うーん、知らんな!」と言っただけで、つきまといは終わらなかった。名乗り損もいいところである。


 昨日などはついに宿にまでついてきて、当然のように夕食を食べてから帰っていった。天津神を毛嫌いしているらしい雪丞は、追い出しこそしなかったものの、食事中ひたすらアサシン顔をしていたので横にいるだけで肝が冷えた。そのうえツノ男──漆は痩せの大食いで、今日の弁当用に多めに炊いておいた米も、作り置きしていたおかずも知らぬうちに食い尽くされてしまった。


「こ、これじゃあ食費が……!」


 嘆く周にさすがに悪いと思ったか、タケミカヅチの方からランタンの貸与を提案してきて、結果今日の鉱山入りへと繋がったのだった。


 チーム・タケミカヅチでは今まで採掘は漆ひとりが担っていたらしく、タケミカヅチと蕨は入山したのも初めてのようだった。そして今もお喋りに興じるふたりの横で、漆だけが黙々とつるはしを振るっている。

 漆さんにばかり仕事を押し付けて……と、これまでにも度々思う場面があったのだが、漆本人はいつも気にせずに淡々と役目をこなしている。そんな姿を見ていると腹を散々に踏まれたとはいえ、彼のことは憎くは思えない周であった。

 そして漆をお手本に、周も採掘をはじめた。

 たいして力を込めずとも、つるはしを数回振り下ろせば石はぽろりと壁から剥がれた。勾玉の出すテロップは石くれ、鉄鋼、銅、薄墨結晶とやらが大半で、野生の玉鋼にはなかなか出会わない。漆の成果も聞いてみたが同様である。


「入り口付近だからですかね?」


 周が問うと、


「頂上も、同じ。玉鋼、出たこと、ない」


 と答えが返ってきた。漆でさえドロップ実績がないとなると、序盤の鉱山では狙うだけ無駄なのかもしれなかった。


 坑道は複雑にうねりつつも、ほのかに上り坂となっている。周たちは交代で採掘しながらずんずん奥へと進んだ。五郎八の番には神が雑務をするなんて、とタケミカヅチに呆れられたりもしたが、五郎八は「やってみると楽しいぞ?」と本当に楽しそうに言っていた。それでもタケミカヅチがつるはしを握ることはないまま、やがて一行はトンネルを抜けて山の中腹へと出たのであった。


 道はそのまま山肌をなぞるように細く続いており、おとなしく辿って行くと、半周分過ぎたあたりで休息するにはもってこいの円地がお目見えした。円地のすぐ先にはまたトンネルがふたつあり、漆いわく片方は頂上へ、もう片方は入り口とは反対の裾野へと続いているらしい。

 鉱山を囲う森の向こうには、見知らぬ集落の姿が見えた。二番目の街だろうか。周はつい身を乗り出したが、つま先に浮いたような心地を覚え、見ると足元は山肌のえぐれた懸崖となっていたのでぎょっとした。真下には川が流れてはいたが、人の身で落ちたらひとたまりもないだろう。


「ほほう、これは絶景だな」


 恐れ知らずなタケミカヅチが、深々と崖下を覗き込む。


「今の我では落ちたら死ぬな。ハッハッハ。押すなよ?」


 そんな安易にフリのようなことを言って──ていうか、神でも死ぬんかい。ますます股がひゅんとして、周はそそくさと崖際から離れた。

 しかし絶景は絶景なので、一行はこの円地で昼休憩を取ってのち、頂上を目指して進むことに決めた。

 周はシートを広げ、バゲットサンドの包みをひとつずつバッグから取り出していった。念のためタケミカヅチたちの分のサンドも用意してきていたが、案の定漆がすぐさま周の横に陣取り、膝を抱えてじっとサンドの行方を目で追っている。


(なんだか鹿せんべいを買うのを、真横で鹿に見守られているような気分だな)


 漆と蕨、タケミカヅチの神使ふたりの本性は神鹿の双子であると、つきまとい初期に

聞いていた。

 鹿の姿こそが真性であるはずが、真性の姿というのは神通力の消耗が激しいらしく、今のレベルでは戻るにしても十五分かそこらが限度らしい。

ふたりのツノから察するに、神鹿というのはたいそう美しい姿をしていそうなので、いずれ機会があれば神鹿姿も見てみたいものではある。なんなら漆はサンドと交換条件にすればすぐにも披露してくれそうだったが、おかん勇者たる者、胃袋を人質にとってはならぬのだ。どうぞ、と周が漆にサンドを直接手渡すと、漆は無表情のままに頬をほんのりと紅潮させた。


「用意できましたよー」


 周は他のメンバーにも声をかけた。すぐにもシートに集合する中、須玉だけがふらっと崖際へと歩み出ていくのが見えた。


「おい、なにしてんだ。あんまりそっち行くと危ないぞ」


 呼び止めると、振り向いた須玉は怯えきった表情をしていた。


「雲が……」


 震える指で空をさすので目を向けると、青空の中、場違いに黒い雲の塊が周囲の白雲を押しのけながらどろどろと、こちらに迫ってきているのがわかった。近付くにつれ、風も強まる。嵐の前のように生暖かい、厭な風であった。


「おい、おまえら」


 タケミカヅチが立ち上がった。


「逃げるぞ!」


 大声で言うなり、先頭をきって元来た道を走り出す。

 突然のことにうろたえる周の腕を五郎八が引いてくれ、ひとかたまりにタケミカヅチの後を追った。必死に走りながらまた空の様子を伺うと、ようやく周の目にも、雲の合間にいるモノの正体が映った。


 縄のようにうねる細長い胴。薄暗い中にも光沢がきらめく鋭利な鱗。鰐のように裂けた口。その恐ろしさに不似合いなほど美しいツノ。──龍である。


「ま、まさか八卦龍?」


 走りながら叫ぶと「そうだ」と五郎八がぎゅうと手の握りを強めた。


「神出鬼没とは聞いていたが、よもやこのような序盤で出会すとはな。悔しいが、今戦っては全滅だ。逃げることだけ考えろ」


「逃げるったって──」


 と言ったところで周の声を、間近に躍り出た龍の鳴き声が遮った。奈落から響いてきた悲鳴のような、絶望的に不気味な一声であった。ビリビリと足元の石くれは浮き立ち、生暖かい吐息が背筋にまで届いて一気に冷や汗が噴き出る。


「──逃げるったって、逃げ切れるんですか」


 改めて弱音を吐く勇者に、五郎八は「大丈夫だ、信じろ」と答えたが、龍の尾は無慈悲に躍動する。

轟音とともに、尾は目前に見えていた坑道への入り口を、完璧に叩き潰してしまった。


「こりゃ死んだな」

 タケミカヅチがあっさりと言い放った。


 龍も勝利を確信したのか、尾を引き戻すついでに天へと高らかに飛翔する。一行はただちに踵を返して駆け戻り始めたが、龍は岩場と化した坑道上へ落ちてくるなり、腹ばいにうねりながら周たちめがけて突き進んできた。

 剥き出しの牙が山肌を削り取り、尾の躍動が削った岩を四方へ飛ばす。周は恐怖のあまり何度も足がもつれたが、その度に五郎八が強く手を引いて前へと進ませてくれた。それでも、龍の牙に絡め取られるのは時間の問題であった。


「ツノマニア! 龍も立派なツノを持ってますよ。ちょっと抱きついてきたらどうですか」


 須玉が叫んだが、


「ハハハ、ちょいと愛でるにはじゃじゃ馬すぎるな!」


 とタケミカヅチは最後尾を走りながら、悠長に笑った。


「しかしこのままでは埒があかんのは事実だ。ここはひとつ──」


 タケミカヅチは振り向くなり、パンッと高らかに手を叩いた。

 山が崩れる大音声の中、神の技巧によってその音ははっきりと龍の耳まで響いたようだ。龍はひるみ、音を嫌ってか首を大きく上に逸らした。


「必殺ねこだましですわね。さすがですわ、若様!」


 蕨の賞賛の声に、タケミカヅチは「まあな」と鼻高々に走りを再開する。

 武神の必殺技にしては地味な感じがしつつも、おかげで一行は無事に円地まで戻ることができた。


「下ですか」


「下だな」


 須玉と五郎八が短く互いの意思を確認し合ったが、肝心の下へのトンネルはどちらか。頼みの漆を顧みると、漆はバゲットサンドを口いっぱいに頬張って、咀嚼している最中だった。


「こんな非常時に食べてたんですか!」


 周は我慢できずにツッコミを入れたが、言われた漆はきょとんと首を傾げ、なおも咀嚼を続けていた。

 武神が、やれやれと漆の手から残りのバゲットを抜き取った。


「これは鞄にでも入れておけ。いいかおまえら。ここいらでひとつ、仕事の時間だ。筆頭神使の力を見せてみよ」


 タケミカヅチが指を鳴らす。途端に双子は目つきを変え、ツノが光を放ち始めた。

 光は双子それぞれを繭のようにくるむと、ツノだけを残して、ふたりの輪郭が融け出した。息を呑む周の眼前で、ツノは新たに四つ足の輪郭を従えた。

 繭がほどけると、白銀の鹿の立ち姿があらわになった。

 神鹿と呼ばれるにふさわしい、ぞっとするほど美しい鹿である。背中の斑点だけ少し青みがかり、蹄は灰色。まるで雪で造った彫像のようで、危うげな清らかさが目に眩しかった。まさかこんなにも早く神鹿姿を見られるとはと周は感じ入っていたが、残念なことにまじまじと鑑賞する暇はない。


「森がいい。中に入って撒いてみろ」


 タケミカヅチは短く命ずると、漆の背にどっかりと跨った。


「女ふたりは蕨に乗れ。おまえは、我が持ってやろう」


「持つ?」


 タケミカヅチの視線を受けて問い返すも、答えの得られぬまま、周の身体はぐいと引っ張り上げられた。

 刹那ののちには、周はこいのぼりのように風に泳ぎながら、一直線に崖すれすれを落下している最中であった。


「な────!?」


 叫ぶも、「大きな声を出すでない」とタケミカヅチにたしなめられた。無骨なこの神の左手が、周のTシャツの襟を無造作に掴んでいた。


「や、破ける! 脱げる!」


 周は大慌てで、自分でも武神の手首にすがりついた。その瞬間漆の蹄は川岸の岩を捉え、落下の勢いを殺さぬまま森へと一足で跳び入った。

 女性陣を乗せた蕨も後に続いた。だが龍もまた然り、川に落ちてきたかと思うや長い胴を一気に伸ばして、森の中を突き進んでくる。


 不気味な鳴き声に追い立てられても、神鹿たちはひるむことなく鮮やかに樹々の隙間を駆け抜けて行った。

 特に漆のすり抜け方は見事なもので、ぶら下がり状態の周にも、葉の一枚さえかすめない。感激する周だったが、龍はそんな技巧は無用とでも言うように、顔にあたる樹をすべてなぎ倒しながら距離を詰めてきている。神鹿たちが跳び越えた巨岩さえ、龍はこれみよがしに額で粉々に砕いてしまった。

 石くれのひとつが、周のこめかみにまで飛んでくる。


「痛っ! ていうか、しつこ! 下手にねこだましなんてしたから、逆鱗に触れちゃったんじゃないですか」


「下手にとはなんだ、下手にとは。しかしまずいのは事実だな。森にさえ入れば諦めてくれるかと思ったんだが、消耗戦となれば低レベルの我々には逃げきれん」


「なにか他に手立てはないんですか」


「うーむ、もうだいぶ走ってしまったしなあ。神通力の残りは僅かだ。──ま、神鹿の足は跳んでこそ本領が発揮されるからな。残りのすべてをかけて、一発本気で跳んでみるのはありかもしれん。森を抜けたところで跳ぶか、漆よ」


 了承とばかりに、漆は力強く大地を蹴った。

 蕨も作戦を察したのか、足を一段速めて漆と横並びになった。二頭は綾をなすように交差を繰り返しながら森を駆け、ツノの内部にはぼうっと青い光を灯らせた。蹄からも光の粒が散り、星の砂のように大地へと撒かれていく。

 ついに目の前がひらけて、一行は草原地帯へと躍り出た。神鹿たちは一歩だけ草を踏みしめると、いよいよツノを青く染め切って、爆発的に大地を蹴り上げた。


 重力から解放されたような浮揚感があり、気付けば雲をも掴めそうな高度である。距離も相当に跳んだらしく、振り向けば森はすでに彼方のもの。あまりの速さに、ツノの光が残光となって軌跡をなぞっていた。


「神鹿、すごい! もし低レベルじゃなかったら、いったいどれだけ跳べちゃうんですか」


 周は興奮してタケミカヅチを見た。が、途端に視界が不吉な赤色で染まりあがった。


 生々しいこの色は……血?


 不吉の正体を理解すると同時に、驚いた顔で振り向くタケミカヅチと目が合った。

 タケミカヅチは、左腕をきれいにスッパリと断ち切られていた。周を掴んでくれていた、左腕。命綱だった、左腕。別れを惜しむ暇もなく、その切り口がみるみるうちに遠ざかっていく。


 周は武神の断ち切られた左腕とともに、真っ逆さまに地へと落ちていった。


 どれほどの高さだったのか、厳密なことはわからない。ただ地面に激突する寸前、武神の腕がふわりとほどけて風となり、周の下でクッションとなってくれたことはわかった。それでも賄いきれないほどの衝撃が周を襲い、ぐじゃり、と濁ったような響きが脳髄を揺らした。

 身体はいずこも動かせず、目の前も霞んでいる。

 それでも覚悟をして目を瞬かせると、霞がとれて自分の血塗れのズボンがまざまざと見えた。ねじれたり、折れ曲がったりと、風で飛ばされた洗濯物のようにぐしゃぐしゃであった。


(この中に、おれの足が入ってるん……だよな? 感覚ねえや、ハハハ)

 周は力なく笑うしかなかった。


 大地が大きく揺れる。龍が、周の間近に着地していた。

 龍は全身の鱗を逆立てて、眼には怪しい光を灯し、なんとも恐ろしい形相である。

 結局今まで本気を出していなかったのは、龍の方だったということだろう。龍は興奮を鎮めるように鼻で大きく息を吐くと、ツノの間にジジジジと黒い電光を通わせた。電光は絡むように膨れ上がり、大きな球状となった。球からあぶれたエネルギーは風刃となって、周囲を威嚇する武器となっている。タケミカヅチの腕を断ったのはこの風刃だったのだろうと悟ったが、それが今度は球ごと自分に向けられるのは明白だ。ノーマルレアごときにも手抜かりなくとどめをさしてくれるとは、龍様ともなると見事な仕事っぷりである。


「周殿ーっ!」

 遠くから五郎八の叫びが聞こえる。


 着地先からすぐに駆け戻るだけの力は、神鹿たちにはもう残っていないだろう。そもそもこの怪我では、拾い上げてもらったところで助かりようもない。確定した自分の死を前に、しかし不思議と恐怖は少なかった。こんな序盤で終わるなんて、やっぱりおれには無理ゲーだったんだなと、妙な納得感があるばかりだ。

 せめて皆は逃げてくれ──おれが殺されているうちに。

 周は祈りとともに目を閉じる。風の音が数を増したのがわかったが、決定的な一陣を感じる前にぽっかりと、意識に朦朧とした穴があく。このまま痛みももなにもかも、わからないまま終わるのならまだ幸いだ。そう思っていたのだが──


──しかし、終わりはこなかった。

 気付くと周は、ランチ用シートの上に座っていた。

 驚いて自分の身体を見下ろしたが傷ひとつなく、足も、きっちり正座までして無事だった。膝先にはバゲットやおかずのボックスがきれいに広げられている。

 周囲にも目を配ると、漆と蕨が人の見目のまま、シートに座っていた。漆は手の中のバゲットを見て嬉しげにかぶりつき、蕨はきょとんとした顔で、隣のタケミカヅチを仰ぎ見た。タケミカヅチは難しい顔をして、自身の左腕を撫でている。──繋がったままの、その左腕を。

 後方に見える登山道も、龍に蹂躙されたはずが崩落の形跡はない。

 なにもかもが元通りのような光景に、周は龍に襲われたこと自体白昼夢だったのではと疑ったが、


「お気を、どうかお気を確かに!」


 少し離れたところには、幼い女児を腕に抱いて必死に呼びかける須玉の姿があった。やはりなにかが異常だと、周は慌てて駆け寄った。


 須玉は目に涙まで浮かべ、腕の中の幼子おさなごを揺さぶっていた。

 幼子は閉じた両目から血を流し、四肢は投げ出したままぴくりとも動かさない。彼女は右手には抜き身の剣を握っていたが、剣は溶岩の中から拾い上げでもしたのか、右腕全体が灼け爛れていて無残である。意識がないのに剣を握り続けていられるのも、灼けた指が萎縮してしまっているせいのようだ。当然服の裾も焼け切れているのだが、焼けていない他の箇所を見るや周の肌は粟立った。サイズこそ違うものの、型も柄も見覚えのありすぎる着物なのである。髪型にしたってそうだ。──まさか。


「五郎八、さん?」


 よぎった疑念を口にすると、ギッと須玉に睨まれた。


「おまえのせいです。おまえが死にかけたりなんかするから、ヒメさまは使ってはならない力をお使いになられた。もうご自分の姿を再現できぬほど消耗なされて──両目も、おそらく力の代償に支払ってしまわれた」


 代償という重い言葉に、周はうろたえた。


「やっぱり龍は夢なんかじゃなかったのか」


「夢ですって? ヒメさまがこんなにも御身を投げ出したというのに、助けられた側がその程度の認識なんですか?──ああヒメさま、なんと報われないことでしょう。無能男ノーマルレアは所詮どこまでいっても無能男ノーマルレア、死のうが喰われようが放っておけばよろしかったのに!」


「く、喰われようがだなんて、そんな」


 つい、へらっと笑ってしまってからしまったと思ったが、遅かった。

 須玉は怒りに赤らんだ顔で、手近の石くれを投げつけてきた。咄嗟に腕で防いだものの、次々と飛んでくる。


「そもそもっ、ガチャっていったいなんなんですかっ。なんでっ、捨てられるとわかってる勇者をわざわざ巻き込むんですかっ。見捨てられないヒメさまばかり、損をなされてっ……」


 八つ当たりのような言葉が終わると同時に、石くれの飛来も止まった。腕の隙間からそうっと伺うと、須玉はぜいぜい息を上げつつも、相変わらず鋭い眼光で周を睨み上げていた。


「いいですか。もしこのままヒメさまがお消えあそばすようなことになったら、こんなもんじゃないですよ。いっそ殺してほしいと願うまで、この短刀で細かく細かく斬り刻んでやる! アイテムを使って回復させて、何度でも何度でも繰り返してやる! 絶対絶対、許しませんからねっ」


 あまりの剣幕に、周はなにも言えなかった。


 須玉は平時から言葉こそきついが、性格自体は実は誠実で、でたらめや嘘は決して言わない。その須玉が、こともあろうにヒメさまが消えたらと言った。五郎八は周を助けたがために本当に存在の危機であり、周はすでに須玉の脳内ではしつこく斬り刻まれている最中なのだ。

 もともと、抜けるのかとタケミカヅチにさえ危惧されていた剣であった。それを腕を犠牲にしながら無理矢理に引き抜いて、次には目を代償に、周を助けるだけの力をひねり出した。目覚める気配のないところから察するに、代償は見えない部分にも食い込んでいるのかもしれない。必ず護る、確かにそういう約束ではあったものの、まさかここまで躊躇なく自己犠牲に走るとは。


(──いや、違う。五郎八さんがどうこうじゃない。結局、おれの方に護ってもらう覚悟ができていなかっただけなんだ)


 いったい五郎八はどれだけの力を振るったのか。なにをすれば存在の危機から脱するのか。自分にできることならばなんでも手伝いたかったが、神に無知な身ではすべきことさえ見つけられない。あまりにも自分が情けなくて、周は血が滲むほどに唇を噛んだ。

 そこへ、タケミカヅチが歩み寄ってきた。


「娘よ。気持ちはわかるが、アイテムを使う相手はどう考えてもこちらだろう」


 そう言って、なにかを放って寄越した。──サカキの葉だった。

 葉は五郎八の胸の上で弾け、光のシャワーを幼体に浴びせた。目こそ覚まさなかったものの、唇がかすかに動く。須玉は「ああ、ヒメさま」と泣き顔を深めた。


「気を抜くにはまだ早いだろう。このような葉一枚では気休めにもならん。龍が再びやってくる前に下山して、もっと回復させてやらねば本当に消えるぞ。漆、蕨、最短距離で街へ行け」


 双子は頷く時間さえ惜しいと言わんばかりに、すぐさま神鹿の姿へと変じた。須玉は五郎八を抱えながら蕨へ乗り込み、周はまたもタケミカヅチに襟を掴まれた。


 繰り返されるような時間の中、神鹿たちははじめからツノを青く灯し、一足で鉱山を跳び抜けた。使ったはずの神通力が、戻っている。その事実が周にひとつの事象を確信させた。


 刻が、戻されているのだ。まるでセーブデータをロードし直したかのように。


 ゲームなら少しのボタン操作で叶うことだが、現実でそれを為すのは簡単であろうはずもない。使ってはならない力──本当にそうだったのだろう。

 五郎八の傷の深さを思い知らされ、周はやり直せるならもっと五郎八が無事な過去からやり直したいと、つい願いに願いを重ねるようなことを思ってしまった。それを為すために、自分のなにかを犠牲にできるわけでもないくせに。


──なにが勇者だ、ちっくしょぉ……


 無力感に打ちのめされた周は、どんなに激しい跳躍がなされようとも、黙したまま大人しく運ばれていくばかり。


禍ツ媛まがつひめ、か……」


 タケミカヅチが不意に漏らしたつぶやきも、耳には入ってもそれを意味として捉えることはできなかった。

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