第三話 はじまりの街

 まるで薄膜の張ったホットミルクの中に飛び込んだような、生暖かくてこそばゆい感覚だった。


 周はきつく目をつぶったが、暖かさはたちまち消えてしまった。かわりにビョオオオと風の塊に押し返されそうになる。踏ん張ろうとしても、踏ん張れない。恐る恐る目を開けると、遥か下方に町が見えた。

 中央の広場から蜘蛛の巣状に道が広がった、円形の町だ。

 町全体のカラーは、オレンジっぽい。れんが造りにでも統一されているのかもしれない。そう思ったところで、はたとした。なんで町を見下ろしているんだ?


 そこでようやく、自分が空の中にいることに気が付いた。周は風に押し返されながらもゆっくりと、着実に町へと落下していっているのだった。雲が次々と、道をあけるように後方へと流れてゆく。


「うそだろおおおおおおお」


 絶望に叫ぶと、キャハハハと笑い声が返ってきた。


「ひねりのない第一声ですねえ。さすがは無能男ノーマルレアなのです。さ、さ、次はどうするのです?」


 少し先を同じく落下しながら、須玉がニヤニヤと周を見上げていた。


「おまっ……このやろう! 笑ってる場合じゃないだろ! どうすんだよ、これ。ていうか腕を組むんなら今こそだろ、いつのまにか離れやがって」


「わあっ、くっついてないと心細いんです? 情けない男ですねー。でもいいですよ、どんどん無能ノーマルさを発揮してください。どうせ役には立たないんですから、せめて楽しませてもらわないと。ねえ、ヒメさま?」


「須玉、あまり意地悪を言ってはいけないよ」


 ひゅんと風を切る音とともに、五郎八が周の横に滑り出た。


「五郎八さん! これって、大丈夫なんですよね? 無事に降りられるんですよね?」


「うむ、大丈夫だぞ。失神してもはぐれないように、こうして近くにいよう」


 あれ、なんか失神待ちしてない? とは思いつつも、


「ありがとうございます」と周は言った。

「でも無事に降りられるなら、失神しないでもなんとか」


「へーえ。まだうしろさえ確認してないのに、よくそんな余裕発言できますねえ」


「う、うしろ? なにかあるのか?」


 まんまと不安をあおられて、よせばいいのについ素直に首を向けてしまった。


 そこには、大地がひろがっていた。

 空から、町に向け落ちている。けれど背中には別の大地がある。大地と大地に挟まれて、周は頼りなく空の真ん中にいるのだった。地球が裏返しにでもなったようで、絶景と言えば絶景だった。が、あまりに奇妙な光景に、脳ががくんと錯覚に揺れるのを感じた。

 果たして自分は落ちているのか、昇っているのか、実は動いていないのか。なにに引き寄せられているのか正しく感じようとすればするほど、自分の感覚がなにも信用できなくなった。


「あまり深く考えない方がいいぞ、酔ってしまう。昇りながら落ちている、と割り切るのが一番だ」五郎八が言った。

「背中に見える大地が高天原、下に見える町が遊戯ゲームのはじまりの町だ。これは開幕オープニングでしか見られない特別な景色らしいぞ。失神しないならせっかくだ、よく目に焼き付けておくがいい。ほら、こんな風に高天原を見下ろせるなんて神でも滅多にないんだぞ」


 五郎八は器用に身体をねじって背中を町に向けると、向かい風を背もたれのように利用して、悠々と高天原を眺めはじめた。

 周も試しに、身体をねじってみた。が、思うように向きを変えるのは見た目以上にテクニックが必要らしい。すっかりバランスを崩してしまって、ぐるん、ぐるんと、周は大回転をして止まらなくなった。


「ちょ、たすけ、」


 ともがく間にも、二つの大地が交互に周の視界を遮り、もう訳がわからない。なにか掴もうとしても、雲はあっさりと掌中からすり抜けていってしまう。あ、いかん。これ吐くか失神するかのやつだ。そう覚悟したときだった。


 ぱふん。と、柔らかいものに身体が落ち込んだ。

 回転が止まり、それどころか落下も止まっている。身を起こすと、周の眼前を光の粒が泳いでいった。たんぽぽの綿毛が丸ごと発光しているかのような、柔らかな光だった。

 見ると身体の下ではその光がひしめき合って、光の雲を形成しているのだった。同じ雲に、五郎八と須玉も乗っている。ゆるゆると、雲は一行を乗せたまま下降してくれていた。


(筋斗雲がモデルかな。なんにせよ、助かった)


 周は胸を撫で下ろした。


 表面を撫でてみるとほのかに暖かいような気がするだけで、実に頼りない触り心地だった。これにどうして身を委ねていられるのか不思議だったが、なるほどゲームっぽい演出だな、と妙に納得もした。


「ついてるぞ」


 五郎八が、髪に絡まった光をつまんで取ってくれた。


「せっかく良い醜態だったのに、残念ですう」


 須玉は指をくるくる回して皮肉りながら、ププーッと笑う。


「くっ……ちびっ娘め……」


周はにらんだが、全くすごみはないのであった。


 気付くともう高い建物の屋根は過ぎていて、下を覗くと石畳の広場である。思い返すまでもなく、町の中央に位置していた広場だろう。れんが造りの町だろうかとの周の予想は外れていて、オレンジ色は屋根の焼き瓦のものであり、建物自体は石積みであった。

 いずれにせよヨーロッパ的で、さきほどまで木造の社殿にいたのが嘘のようだった。が、見上げるとまだ雲の切れ間には高天原が見えるのだった。


 光は無事に広場へと到達し、一行が足を大地につけると、安心したようにすうっと姿を消してしまった。代わって、わっと歓声が周囲で上がった。


「新しい冒険者だ!」


 一際大きな声に同調するように、割れんばかりの拍手が巻き起こる。

 周たちが驚いている間にも続々と、住民たちが広場に集まってきていた。指笛の甲高い音が四方で響き、建物の窓には身を乗り出してまで手を振る者たちがいる。彼らの服装は町並みにそぐわず和服ベースで、皆合わせ襟ではあるものの、下はロングスカートだったり裾を絞ったズボンだったり、自由である。要は五郎八と須玉のような、コスプレまがいの和洋折衷なのだ。

 Tシャツジーパン姿の周はとても居心地が悪かった。そのうえこの歓迎ぶりである。


(なんでのっけからこんなに友好的なんだよ。普通こういうのはエンディングじゃないか?)


 歓迎の重さがイコール期待の重さのような気がして、周にはプレッシャーであった。

 と、目の前の人波が割れ、身なりのいい老人が歩み出てきた。後ろには衛兵らしき二人をともなっている。老人は一礼をしてのち、自分こそが町長である、と名乗った。


「遥か空の彼方より、ようこそおいでくださいました。新しい冒険者さまたちの参入を町民一同、歓迎いたします。立ち話もなんですから、わたくしの館にご足労いただけると幸いなのですが」


 おお、チュートリアルっぽい流れだ。周はすぐにも頷きかけたが、


「どう思います、ヒメさま」


「うむ。五分五分だな」


 女性陣はひそひそと話し合っている。


「どうしたんですか」


「いやなに。これが罠かどうかの話し合いをな」


「は? 罠?──いやいや、こんなのっけから罠って。どんだけ不穏なんですか、このゲーム」


「制作者が制作者ですからねえ」


 須玉は言いながら、懐から一冊の和綴じ本を取り出した。


「……うん、やはり《広場に到着、いざ冒険の書のはじまりはじまりー!》としか書かれていませんねえ」


「うーむ、罠の入り込む余地はいくらでもあるな」


「ちょっと待ってくださいよ。その本はいったい?」


攻略本がいどぶっくですよ」

 須玉があっけらかんと言った。


「え、そんなのあんの」


 ちょっと見せてと受け取ると、藍色の紙の表紙にはへたくそな筆で本当に《攻略本がいどぶっく》と書かれてあった。ただ、《公式♡》と付け足すように書かれているのがなんともうさんくさい。


「これ、いったいどうしたんですか」


「この遊戯ゲームに誘われたときにもらったのさ」


「信用に足る本なんですか」


「書いてある内容に嘘はないだろう。だが、書いていない部分はすべて怪しい」


「ええ……。それって、もはやこの本自体が罠じゃないですか」


「おお、確かにそうだな」


「ええ……。もういっそ捨てちゃいましょうよ、こんなの」


「いや、ところどころ有益な情報もあるようだからな。捨てるには惜しい」


 そう思うように、わざと有益な情報とやらも入れたのではないか。疑い始めるときりがない、厄介な攻略本だった。


「この誘いはどうします。断ってしまいましょうか」


 須玉の問いに五郎八はさっと思案し、


「周殿はどう思う」と訊いてきた。

「周殿ならば、現世うつしよ遊戯ゲームの経験もあるだろう。ここはどう動くのが定石だ?」


 周はぎくりとした。

 期待してもらったところ悪いが、実は彼はゲーム経験は乏しい。おかん業で忙しかったうえ、ゲームを買うほど家計に余裕がなかったためだ。友人の家で触らせてもらうのが主で、親切にも古いハード機ごと貸してくれた友人もいたが、結局クリアには至らずに返却している。

 それでも定石だけで考えるならばと、こう答えた。


「ついていく方が良いと思います」


「ほう、なぜだ」


「ゲームにはストーリーという、制作者があらかじめ決めた必須の物語が存在していてですね。危険な香りがしようとも、飛び込まないことにはストーリーが進まない場面っていうのが多々あるんですよ」


 さっきの大鏡みたいに、と付け足すとふたりとも得心したような顔になった。


「それにこの空気感の中で断ったら、それは冒険者失格な感じがありますからね」


 周は群衆に目をやりながら言った。今もって拍手や歓声は続いており、しかしすぐ目の前を陣取っている人々だけは、なにを揉めているのだろうと少し訝しんでいる。


「そうか。冒険者にはそれらしい振る舞いを選ぶ義務があるのだな?」


「一般的なRPGなら、正義の味方って立ち位置ですからね。慎重すぎるのは頼りなく思われます」


「あーるぴーじー?」須玉が首を傾げる。


「あー、おれも正しくはなんて説明すればいいかわからないけど、架空の世界を、架空の自分で冒険していくゲームってイメージしてもらえばいいかな。架空の自分だからこそ、本来なら絶対に選択しない行動でも、しなきゃいけなかったりするんだ」


「確かに本来であれば、無能男ノーマルレアなどと行動をともにすることはありえません。なるほど、なるほど……!」


「そこで納得されるのも微妙だけど、まあそういうことだ」


「よし。では周殿の言う通り、ここは町長の誘いに乗ってみよう。一応罠である危険性も念頭に入れておくようにな。気を引き締めていこう」


「了解です、ヒメさま」


 須玉は威勢良く敬礼してのち、町長の前へ進み出て、


「ヒメさまにおかれましては、おまえの提案を受け入れる所存です。無礼のないようかしこみて、案内の勤めに励むように」

 と居丈高に命じた。


(無礼はどっちだ……)


 周は思ったが、町長はいたく感激した様子で「ええ、ええ、お任せください。どうぞこちらへ」と手ずから道を示したのだった。


(そっか、神の一行ってことなんだもんな。そりゃ歓迎もするか)


 周は納得し、歓声を背に受けたまま広場を後にしたのだった。

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