第二話 ノーマルレアのアマネ

 ふわっと身体が浮くような心地があったが、一瞬のことだった。

 恐る恐る目を開けると、やけに薄暗い。

 

 おれはいったいどうなったんだ?

 周は急いで身体のあちこちを触って調べたが、どこも痛くないし、血の出ているような気配もない。あの状況から無傷で済むなんて、そんなことありえるだろうか。


 よく見ると、周囲はぐるりと朱色の灯火皿で囲まれている。ぼんやりとした灯りの中、足元には不気味な紋様が大きく円を描いている。溢れ出る非日常感。


「まさか、おれ、死……」


 と口に出しかけたところで、「なんてこと!」と女子の絶叫が響いた。


 驚いて声の方を向くと、灯火の奥に、周はふたつの人影を見出した。

 両者ともケープについたフードを目深にかぶっていたが、背の低い方が振り払うようにそのフードを脱いだ。

 見事な赤髪を持つ女の子の顔があらわになったが、その瞳は怒りに燃えていた。


「なんてこと! こんな、明らかに無能そうな男が出るなんて!」


 大胆な悪口である。大胆過ぎて、周は唖然と女の子を眺めた。

 彼女は珍しいことに膝上でカットされた着物を着ているのだが、足元は草履ではなくだぼっとした皮のブーツを履いていて、そのシルエットに周はルーズソックスを連想した。


(いまどきの小学生は、おしゃれ心がすごいな。樹も髪、染めたいって言い出すのかな)


 つい身内の心配に考えをとばしたが、その間も女の子の怒りはおさまるところを知らない。


 彼女は頭には太めに折ったターバンを巻いていたが、それさえも振り払うのではないかという勢いでまくし立てた。


「勇者と言うからには、武士もののふとか忍者とか、戦える類いの者が出るとばかり……。それがなんですか、この男は。ひょろっちくて色白で、しかもメガネです、メガネ! どこぞのバカと一緒ですよ、おお嫌だ。こんな者がヒメさまの御側近くに侍るなど許せません。ヒメさま、引き直リセマラしましょう!」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 メガネをけなされ、ようやく周ははっとした。


「いきなりなんなんだ、ていうかここはどこなんだ? おれは事故にあったはずなんだが」


 疑問を連ねると、少女はじろりと冷たい目を返してきた。


「気安く話しかけないでください、無能男ノーマルレアが」


「ノ、ノーマル……!?」


「そうです。ひょろひょろメガネなど、無能男ノーマルレアに決まってます」


 ぷいっと、彼女はもう一人の方を向いた。


「ヒメさま、バカメガネを探しに行きましょう。お鈴を引き直せるようにさせて、ヒメさまにもっとふさわしい勇者を用意させるのです。これではあまりにも、前途多難です」


 ヒメさまと呼ばれた影も、言われてゆっくりと進み出てきた。


 ガチャ、と歩みにともなって金属音がする。

 見るとヒメさまとやらは後ろ腰に、大振りの剣を真一文字に携えていたので周はギクリとした。が、フードを脱ぐとかなりの美女だったために周はげんきんにも今度はドキリとした。


 周と同い年くらいだろうか。ターバン娘は周が色白であることをバカにしていたが、彼女こそ、生まれてから一度も陽の光を浴びてこなかったのではないかと疑うくらいに真っ白い肌をしていた。豊かな黒髪がまた、白さをさらに際立たせている。

 彼女も和装をアレンジした服をまとっていたが、剣をぶら下げるための革ベルトを帯に重ねて巻いていて、どことなく明治期の軍人のような和洋折衷の気高さを感じた。こういうキャラクターがゲームかなにかにいるのかな、と周は考えた。

 しかしコスプレイヤーに絡まれる覚えはないし、絡まれた経緯さえわからない。途方にくれてヒメさまを見つめると、にこりと微笑みかけられた。


「申し訳ないな、勇者殿」


 彼女は可憐な声に似合わぬ勇ましい口調で言った。


「この須玉は今、少々気が立っているのだ。私がかわって詫びる。気を取り直してどうか、名を聞かせてはくれぬか」


 須玉と呼ばれた少女が横で何事か言いかけたが、ヒメさまに制された。周は答えることにした。


「周です。一ノ瀬、周」


「そうか。周殿、私は五郎八比売命いろはひめのみことと申す。この須玉はヒメと呼ぶが、気安く五郎八いろはとでも呼んでいただきたい」


「いろは、さん……? なんだか仰々しいお名前ですね。神様みたいだ」


「そうだ」


「は?」


「私は神だ」


「……」


 あれ、コスプレイヤーというより、単純にやばい人かな? と周は笑顔のまま硬直した。

 五郎八は構わず続けた。


「そなたをここに呼んだのは、他でもない私なのだ。ここ、というのは高天原なのだが、このお鈴が福引き機械ガチャマシーンになっていてな。そなたは勇者として、私に同行するべく選ばれたのだ。ここに来る前に、鈴の音を聞かなんだか?」


「言われてみれば確かに、聞いた気もしますけど──いやいや、待って待って。高天原? ガチャ? まったく世界観が掴めないんですけど。つまりおれがガチャで排出されたキャラって言いたいんですか? どういう悪ふざけですか、それ」


「貴様、ヒメさまになんと無礼なっ」


 須玉がくわっと牙をむくように言ったが、


「よすのだ、須玉。われらとて、エビスに初めて話を聞いたときには冗談かと思ったろう。同じだよ。まして彼は人の身でありながら、突然高天原に連れてこられたのだ。混乱するなと言う方が無茶というもの。──周殿。説明すべきことは山ほどあるのだが、まずはそなたのことだ。事故にあったはず、と申していたな」


「え、ええ。そうなんです。おれ、車に轢かれかけたところまでははっきり覚えているんですけど、次に気付いたときにはここで、なにがなにやら。生きているなら生きているで、早く家に帰りたいんですけど。家族の昼飯を作らなきゃいけないんです」


 遠回しに、早く悪ふざけから解放してくれと伝えたつもりだったが、五郎八は考え込むばかりでまったく気付いていなかった。ややあって、彼女は言った。


「須玉。我々の旅に彼がどうかはひとまず置いて、少なくとも我々は、彼の役には立てたのではないか?」


「どういうことです、ヒメさま」


「自分が今生きているのかどうか、すぐに判断がつかぬということは、それだけの規模の事故だったのだろう。もしかすると、本来死ぬべき宿命さだめだったのやもしれぬ。それが召喚によって、事故そのものが彼の宿命さだめから消えたのだ。すごいことではないか。意図せずして、我々は彼の黄泉路を塞いだのだよ。逆を言えば、この召喚をなかったことにできたとしても、それはすなわち彼を黄泉路に戻すことになるのではないか?」


「それは──違うとは言い切れませんが」


 五郎八は床に描かれた文様の上を、なぞるように歩いた。


「うん。この術式も、そもそもの造りが複雑ではないよ。戻る道のない一方通行の術だ。帰り道を付け加えるには、多大な神通力が必要だろう。帰れない、と術者が決めた前提を覆すのだからな。おそらく術者のオモイカネだけでは追いつかない。果たして、手伝ってくれる神々がこの高天原にいるだろうか?」


「……いえ、思い当たりません」


「しかも肝心のオモイカネの居所さえ、すぐにわかるかさえわからない。違うか?」


「違いま、せん」


引き直しリセマラとやらは、あまりにも現実味のないことだ。我々にある現実は、今、この状況だけだ。彼にはついてきてもらうより他にない」


 そして彼女は、周に言った。


「周殿にも、覚悟を決めてもらう他ない。今聞かせた通りだ。もしこの召喚がなければ、そなたは事故で死んでいたかもしれない。勝手に召喚しておいて恩着せがましいが、こうして勇者に選ばれたことは、ある意味幸運だったと思ってもらえないだろうか。もし現世うつしよに帰りたいと願っても、それは今この場でどうにかできることではない。そして我々にはここで長考させてやれるほどの時間もない。頼む、ひとまずでもいい。ともに来てくれないか」


「来てくれって、どこへですか」


遊戯ゲームの中へ」


「ゲーム? いったいなんのゲームなんですか」


「神々の暇つぶし──のはずが、神々の潰し合いに変わってしまった遊戯ゲームです」須玉が言った。


「……」


 え、説明それだけ? と困って五郎八の方を見たが、うんうん頷いているばかりで補足する気はないようだった。

 周は深いため息をついた。


「ちょっと、一回外に出てもいいですかね? ここがどこなのかくらい把握しておきたいんです。あと、できたら荷物も返してほしいんですけど。家に電話くらい入れないと──」


 スタスタと文様から出て、出口を探す。


「あ、こら!」


 須玉が声で止めてきたが、ちょうどそこで扉を見つけたので、構うことなく手をかけた。

 木の香りを感じながら重々しい扉を押し開くと、外の明るい陽が降り注ぐ。周はほっとしながら一歩を踏み出した──が、明るさは刹那のうちにかき消えてしまった。


 驚いたそのときにはもう、周は文様の中央に突っ立っていた。


「あれ? おれ今、確かに外に出ましたよね?」


「いや、気の毒だが出られてはいない。おそらく何度試みても、同じだろう。そなたは術に連れ戻される。召喚とはすなわち、契約なのだ。契約には拘束が働く。遊戯ゲーム内に進まぬ限り、どこにも進めぬように決められてしまっているのだ」


「な、なんですかそれ。契約ったって、サインした覚えもないのに一方的過ぎます。クーリングオフですよ、クーリングオフ!」


 ずかずかと再度扉にアタックをかけた。が、足が戸外を踏む寸前のところでまた光が奪われる。半ばやけくそに、今度はジャンプして身体全体で飛び出たが、すたっと着地した足元には、まざまざと術式の文様が描かれていた。


「まあ、あれですね。そもそも人の身が高天原の地を踏もうとすること自体、おこがましいってことですね」


「ありえない。まさか本当に高天原?」


無能男ノーマルレア相手に嘘ついてどうすんですか」


「いやだって──やっぱり本当は死んでますって言われた方が、まだ信じられるというか」


「もー。そんなにも現実味感じないなら、ちょちょっと斬ってあげましょうか? 目を覚ますには痛覚に訴えるのが一番手っ取り早いですからね」


 須玉がすちゃっと短剣を抜いたので、周は慌てて後ずさった。


「いやいやいや、考えが乱暴すぎる! 訴えるにしても、せめてそこはビンタだろ」


「だってほら、顔に傷があった方が強そうに見えるかもですし? 鼻筋を真横にピッと裂くのとかどうですかね。それか口角から斜めに斬り上げるとか。うん、口が大きく見えていいかも!」


「物理的なキャラメイクすなっ。笑顔で言ってんのがなお怖いわ」


「うるさいですねえ。黙らせついでに、舌先チョンパにしたっていいんですよ。その方が出血多そうだし、実感わきやすいかもですね。キャハ!」


「お、鬼ぃぃぃ」


 さすがに周が泣きたくなったそのとき、


「須玉、やめなさい」


 五郎八がため息混じりに言ったのだった。


「それでは脅しと変わらぬであろう」


「でもヒメさま」


「いいから、武器を収めなさい」


「……ちぇ。良い案だと思ったんですけどねえ」


 須玉は心底残念そうに短剣を鞘に戻した。ほっとする周だったが、


「そなたもそなただぞ」


 と、五郎八は周にも注意を加えた。


「そのように強情だからこそ、須玉も焦れて強硬手段に出てしまうのだ。神が生きていると太鼓判を押しているのだから、そこは素直に信じてはくれまいか。ほら、自分の心臓が動いていることくらい、簡単にわかるであろう」


 五郎八は周の手をとると、それを周自身の首筋に添えさせた。トン、トンと、確かに鼓動のリズムが皮膚の奥から伝わってくる。それどころか重ねられた掌の柔らかさにドギマギして、鼓動がみるみる跳ね上がっていくさまもまざまざと感じられた。


「そ、そうですね」


 周は照れを隠すように、咳払いをして言った。


「五郎八さんの手がやたら冷たいのも、よくわかりました」


「私の手が? そんなにか?」


 五郎八は驚いた様子で手を引っ込めた。


「ハハ、すまぬ。私もなかなかに緊張しているものでな。神でありながら、高天原に入ったのは私も初めてなのだ。もちろん、遊戯ゲームも初めてだ。頼りなく思うかもしれないが、そなたのことは全身全霊をもって護ると約束する。帰還にも最善を尽くすので、どうか今は勇者になることを承服していただきたい」


 五郎八の言葉に、周はふっと笑みをこぼした。


「護る、って──」


「? なにかおかしなことを言っただろうか」


「いえ、違うんです。昔にも同じようなこと、言われたことがあったので。おれってそんなに護りたくなる系男子かなって思ったら、おかしくて」


 五郎八になおも首を傾げられながら、周は降参の境地だった。カーくんと同じことを言われちゃあしかたないな、と。


「──本当に死なずにすんだなら、今はそれだけで良しとします。護ってもらう勇者っていうのも、新しくていいかもしれませんしね。神さまの加護がどれほどのものか、楽しみです」


 吹っ切れた顔を向けると、女神は一瞬目を見開いてのち、「そうか」と慈しむように周の頬に手を添えた。


「そなたの覚悟に、感謝する。決して約束は違えぬ」


 その指先は心なしか、先ほどよりほのかに温かくなっていた。

 奥では須玉が面白くなさそうな顔をしていたが、目が合ってもぷいとそっぽを向くだけで、暴言を吐くことはなかった。おそらく彼女なりの感謝の表現なのだろうと、周は思った。


「では、さっそく参ろう。こちらだ」


 そう言っていざなわれたのは、大鏡の前だった。


「これが、なんなんですか?」


 と覗き込んで驚いた。


 鏡には周の顔も背景も、なにも映り込んでいなかったのだ。かと言って黒く塗りつぶされているわけではなく、光が反射しているわけでもない。ただ空間そのもののみを映し込んでいるような、そんな奇妙な鏡だった。


「これが遊戯ゲームへの入り口だ」


「うーん、なんかもう驚き疲れたというかツッコミきれないというか」


「ふん。どうせ無能男ノーマルレアにはわからぬ仕組みです。おまえはただヒメさまの言うことに、はいと頷き続けていればよいのです」


「おっと。感謝の時間短かったな」


「なんです?」


「いや、なんでも。それで、この入り口にはどうやって入るんですか?」


「特別な術などなにもいらない。そなたこそが鍵なのだ。神と勇者がともに飛び込むこと、それが唯一の条件だ」


「飛び込むって……」


 なんか不穏、と言いかけた周の腕にがしりとしがみつき、須玉がニヤッと笑った。


「見ものですねえ、無能男ノーマルレアがどんな反応をするのか」


 あ、これ絶対ヤバいやつだ。察して後ずさったが、もう片方の腕をすかさず五郎八が抱え込んできた。


「須玉、彼がどんな醜態をさらしたとしても、あまりからかってはいけないよ。人の身なのだからね。まあ、気持ちはわからなくもないが」


「えっ、わかるんですか」


 裏切られたような気持ちになる周に、五郎八は少し頬を赤らめ、


「なんでだろうな。あまり嗜虐心はない方なんだが、その、きっと驚くだろうなあとか、もしかしたら失神してしまうかもなあなんて考えると……」


「考えると?」


「ちょっと、楽しみな気がする」


 とてもかわいい笑顔で、そう言われた。

 青ざめながらも、周はそれならおれにもちょっとわかる気がする、と思った。新メニューを出す前はいつも、周も家族の反応が楽しみでしかたない。しかし料理と未知の世界とでは、あまりにも広げた風呂敷が違いすぎる。しかも失神ってなんだ、もう不吉が確定しているじゃないか。


「あの、やっぱりもう一回話し合いません?」


 周は言ったが、「行くぞ」「はい!」と、両腕の華たちはいっさいの躊躇なく、第一歩を踏み切ったのだった。

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