第一話 現世のアマネ

 永く続く石段を、社殿目指してのぼっていく。


 それだけで、ああ小学生の頃の夢だ、とわかった。いつも、神社の社殿が彼との秘密の遊び場だった。

 夢の中では社殿にまで行かずとも、彼は石段の途中で待ってくれていた。


「カーくん」


 大きく手を振る周あまねを、彼は優しく呼び返した。


「あーちゃん」


 彼の無造作に伸びた髪が、肩のすぐ上で揺れている。そんなことすら懐かしい。

 周は嬉しくなって、残りの段を急いで駆け上がった。彼の眼前に着くとすぐ、そのよく灼けた手を握った。そうして一緒に社殿へ上がっていくつもりだったのに、なぜだかいくら手をひいても彼は動かなかった。

 顔を覗き込むと、彼はとても哀しそうな顔をしていた。


「どうしたの。お腹、痛いの?」


 訊くと彼は小さく首を振り、周をまっすぐに見つめてきた。

 徐々に顔が近づいて、彼の漆黒の瞳以外、周はなにも目に入らなくなった。


「大丈夫だよ、あーちゃん」


 とてもきれいな瞳で、彼は言った。


「おれが絶対に、きみを護る。どんな不吉からも、きみを遠ざけてみせる。きみはきみらしくあれば、いい。きっと幸せになれるから」


 だから怖がらないで、待っててね──声とともに、握っていた手がするりと離れていった。

 はっとしたときにはもう、彼の瞳さえも見えないほどの暗闇に呑まれていた。


「カーくん、待ってよ!」


 叫んでも、待っててね、という声が再びこだまのように聞こえるばかりだった。

 声に押し出されるように、周は夢から醒めたのだった。



     *



「カーくん……か」


 あまりの懐かしさに、つい独り言まで出てしまった。


 起き上がると、周はベッド脇のカーテンを開けた。

 メガネをかければ、ぼんやりとしか見えなかった郡上八幡城を有するお山が、くっきりと間近に見えるようになった。今日は雲ひとつない青天で、おかげで樹々の隙間にしれっと紛れている白い天守閣を、一目で見抜くことができた。


 天空の城として、一時期は岐阜への旅行客を増やすことに一役買ったお城だ。地元住民が上まで観に行くことは滅多になく、周も毎朝このときにしか、まじまじ天守閣を眺めることはなかった。

 お山の左手には吉田川が流れていて、渡った先にこそ遊び場の神社を内包する愛宕公園があるのだが、なにせ緑と山ばかりの田舎だ。どの部分が愛宕公園の緑なのか、周は生まれたときからここに住んでいるというのに、いまだによくわかっていなかった。


 部屋を出て、きしむ階段を降りていく。居間では祖母が朝のニュースを眺めていた。早起きに自信のある周でも、この祖母より早かったことは一度もない。


「ばあちゃん。お、は、よ、う」


 耳の悪い祖母のために、一音一音はっきりと話しかける。祖母はにっこりと笑い、またニュースに目を戻した。字幕の文字を追うのに忙しいのだ。


 周も周で、朝はとても忙しい。

 八年前に母が他界してのち、家事のほぼすべては周の担当なのである。朝食と弁当作り、洗濯も干すまで終えてから高校に通う毎日だ。大変だねと人には言われるが、おかん業はもはや周にとっては生きがいなので、無用の同情である。

 夏休みの今は登校時間に追われないのをチャンスとばかりに、少し手の込んだ朝食を作るのにハマっている。今朝はエッグベネディクト、サラダ、フルーツヨーグルトを作り上げた。飲み物は甘々のカフェオレだ。


「おお……!」


 香りにつられて起きた姉の旭あさひは、食卓を見るなり目を輝かせた。


「すごいっ、おしゃれさんがよく食べるやつだ! さすが周!」


 語彙力がいまいちな旭だが、その分ストレートに感動をぶつけてくれるので、喜ばし甲斐があった。

 いただきまーす、と歌うように言いながら早速一口頬張ると、旭は天井を見上げ、目を閉じた。本人いわく「天使が周りでラッパを吹き始めちゃうレベルでおいしい」ときのポーズだ。


「アボカドも一緒に乗せてもよかったかもな。ベーコンではなく、スモークサーモンって手もある」


「ねえさんは全部乗っけちゃってほしいです」


 すかさず挙手されたので、周はほろりと笑った。


「うん。じゃあ次はそうしよう」


 続けて起きてきた弟の樹いつきも、「わあっ、都会的だ!」とやはりいまいちな語彙力で感動を伝えてくれた。こういう面白いリアクションを引き出すたび、よしよしと達成感が込み上げる。


 そうやっておかんがすっかり板についている周であったが、はじめの頃は──つまり母が死んですぐは、おかん業が嫌で嫌でしかたがなかった。

 母が恋しくてしかたないというのに、その母親役を自分がやらなければならないというジレンマは、当時八歳の周には重すぎる現実だったのだ。


 だが父は母が亡くなるより前から、趣味の山登りに出掛けたきり行方不明。十歳上の旭は、名古屋の短大に通い始めて寮に入ったばかり。祖母はリウマチのせいで指の動きが不自由で、細かい作業には不向きだった。まだ二歳だった樹の相手をしてくれているだけで良しとして、どうしたって自分がやるしかないのだと、涙ながらに始めたおかん業であった。

 それが楽しくなり始めたのは、カーくんのおかげだった。


「今日さ、カーくんの夢を見たよ」


 懐かしさを共有しようと、旭に言った。旭はレタスをしゃくしゃく言わせながら、すぐに思い出してくれた。


「ああ、あんたの秘密基地のお友達?」


「基地って言っても、神社だけどな」


「懐かしいねえ。あんた、学校の子たちとはちっとも遊ばずに、その子と会ってばっかりだったよね」


「なんでか気が合ったんだよ。いまはどうしてるんだろうなあ。そもそもどこの子だったんだろ」


「そういう大事なところを確認しないよね、子供同士って」


 確認していれば今頃も、連絡ぐらいは取り合う仲だったろうか。

 周はあの頃の自分を恨みたくなったが、カーくんと遊ぶのはあまりにもあたり前のことで、会わなくなるなど当時は微塵も想像していなかったのだ。

 しかし手始めに、死ぬなんて思っていなかった母が死んでしまった。それまでの日常はすべて崩れ、神社にも通えなくなったのは仕方のないことだった。


 母の死後にカーくんと会ったのは一度だけ。まだ四十九日もあけない夜のことだった。


 その夜は母を恋しがる樹の夜泣きがいよいよひどく、祖母とふたりで必死にあやし、二時間かけてようやく寝かしつけに成功した。だがほっとしたのも束の間で、祖母のくしゃみで樹はあっけなく目を覚まし、再び激しく泣き始めてしまった。

 くしゃみは悪いことではない。樹が泣くのだって、しかたがない。わかっていたのに頭の中は失望でいっぱいになり、気付いたら周は逃げるように家から飛び出していたのだった。


 静まり返った夜道を、周自身もわーわー泣き叫びながら走った。足は自然と神社に向いた。

 絶対にいるはずない。そう思っていたのに、泣きじゃくる周が石段を踏み外したとき、がしりとカーくんが腕を掴んで助けてくれた。驚く周に、


「あーちゃん」


 彼は以前と変わらない、そっとした微笑みを向けてくれた。

 周はそれだけでたまらなくなって、


「カーくん、カーくん」


 と抱きついて、長いこと泣き続けた。

 いつしか石段に腰を下ろし、二人で夜の底に沈む山影を黙って見つめていた。

 多分カーくんは知っているんだろう、と周は鼻をすすりながら考えていた。周の環境の変化を、なにもかも。だから急に通わなくなったことを怒らないし、こんな時間に駆けつけてもくれる。周はその友情に感謝し、ずっとこの優しい肩に寄りかかっていたいと思った。


 しかしふいに「帰ろう、送るよ」と彼は立ち上がった。

 居心地の良い時間を終わらせるのがとてもつらくて、周はいやだとごねた。すると彼は周の正面に回り、優しく顔を覗き込んできた。


「大丈夫だよ、あーちゃん。怖がることなんてない。きっと幸せになれるから」


「無理だよ。こんなにも哀しいのに」


「でも、きみは大丈夫」


「なんで」


「──きみはいつだって、楽しむことがうまいから」


 彼は目を細めて笑った。


「一緒にいたからわかる。そもそも気味悪がって誰も近付かなかったおれを、きみだけは放っておいてくれなかった。わかるよ。幸せだって、きみのことを放っておきはしないだろう」


 普段は口数の少ない彼が、こんなにも思いを吐露してくれることは初めてだった。

 周が返す言葉に迷っていると、「それに」となおも彼は続けた。


「おれが絶対に、きみを護る。これからはどんな不吉からも、きみを遠ざけてみせる。だから大丈夫。きみはただ、きみらしくあればいい」


 ああそうか、夢の中のカーくんの台詞は、このときのことが元だったんだなと、思い返してみて自覚した。


 子供というのは単純なもので、親友に大丈夫だと強く言われたら、本当に大丈夫な気がしてしまう。結局その後は参道を降りたところで別れて、すんなり家に帰った。樹は変わらず泣き続けていたが、周の顔を見ると安心したようににっこり笑って、さっそくひとつ報われた気がした。

 その後の日々も彼の言葉を励みに過ごしているうちに、本当に家事の楽しさに目覚め、現在の周のスタイルにいたるのだ。


「なんでそのカーくんって、気味悪がられてたの?」


 要所だけをかいつまんで話すと、すべて初耳であろう樹が口を挟んだ。


「んー。嫌な言い方だけど、訳ありのオーラが漂ってたからかな。髪が伸びっぱなしで服も粗末だったし、やたら日に灼けてたし。まともな家の子じゃないんだろうって、みんな言ってた。声をかけてくるわけでもないのに、遊んでいるところをじっと眺めていることも多くてさ。カーくんが現れただけで、そそくさと遊び場を変えるやつらも結構いた。まあおれは、その存在感に興味がわいて自分から話しかけたんだけど」


「じゃあカーくんはおにいが公園に行かなくなって、ひとりぼっちに逆戻りしたんだ。かわいそう」


「そう……なんだろうな」


 改めて言葉にされると、罪悪感がずしりと襲ってくる。


「子供の頃の友達なんて、一生友達でいる方が難しいわよ」


 そう言って旭はぐっとカフェオレを飲み干し、席を立った。


「ごちそうさまー」


「ああ、食器はおれが運ぶからそのままでいいよ。早く準備しな」


「ありがとう、たすかるー」


 トントンと軽快に階段をのぼり、すぐにも扉の閉まる音が聞こえた。これで外行きに化けるまで、丸々三十分は出て来ない。それなのに「ねえねえ、おにい」と内緒話のトーンで樹が言った。


「今日一緒に行ってみようよ、神社。もしかしたらカーくんいるかもしれないよ」


「ええ? さすがにそんな偶然はないだろ」


「だって夜に行っても会えたんでしょ、行ってみないとわかんないよ。それにカーくんも同じ夢を見て、今頃おにいに会いたくなってるかも!」


 かも、と言いつつ絶対にそうだと思い込んでいるような笑顔だった。


「しかたないな。ただし、午前中は宿題。行くのは昼飯食べてからな」


「えー。善は急げなのにい」


「急がば回れ、とも言うぞ」


「ケチおにい!」


 文句を言いつつも、ちゃんと食後は食卓に宿題のドリルを広げる。われながら良いしつけをしてきたものだと、周は鼻高々な気分になった。

 旭も無事出勤し、祖母はソファに座したままうたた寝をはじめている。

 おれも午前のうちに買い物を済ませるか、と周は身支度も手短に街へ出た。


 岐阜と言えば多治見が夏は気温の高さで話題になるが、郡上八幡もしれっと最高気温をマークするほど暑い都市である。街中には日陰を作ってくれるような高い建物はなく、今日は雲さえない。これはしれっとの日になるかもな、と思いながら周は自転車をこいだ。


 今日の昼食は、樹のリクエストで冷やし中華と決めていた。具は定番の錦糸卵、きゅうり、蒸し鶏に加え、素揚げしたナスを乗せるのが周流だった。蒸し鶏は作り置きがあるので、手早く作れそうだった。

 アイスの安売りにも目が止まった。帰るまでに溶けるのが嫌でいつもは敬遠しているのだが、「宿題のご褒美にもなるし、たまにはいいか」と買い物カゴに加えた。

 家族分の個数を入れたが、自分の分は明日のフレンチトーストに乗せるのに回してもいいかもしれないと、レジを通しながら考えていた。食い意地よりも、作り意地。周にとってやはりおかん業は天職なのだった。

 無料ドライアイスをこれでもかというくらい一緒に詰め、駆け足で駐輪場に出た。


「急げ、急げ!」


 リズミカルに言いながら、鍵をがちゃがちゃ差し込んでいた。そのせいで、近付いてくるエンジン音を不審に思う暇はなかった。


 鍵から顔を上げたとき、目の前には毒々しいほどに赤い乗用車が迫ってきていた。


 びくっとした途端、やけに時間の流れを遅く感じ始めたが、身体は凍り付いたように動かなかった。フロントガラスの向こうに、運転手のおばさんの顔が見えた。呆気にとられたような表情をしている。おいおい、とツッコミを入れたくなったが、やはり腕も動かない。


 ああこんなことなら樹の言う通り、午前は神社に行っていればよかった。おれがいなくなったらあの家はどうなる。誰も料理なんてできないぞ? しかし今はそれよりもなによりも、


「ちくしょう、アイスが溶けるっ」


 叫びながら目を閉じた瞬間、鈴の音が大きく響き渡ったのだった。

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