第4話

「今更だが、腹も空かないし、喉も乾かないよな?」


「今更気付いたの? わたしはとっくの昔に気付いていたんだけど」


「はいはい。先に気付いて偉いですねー」


 晴渡は面倒そうに言って。


「トイレに行きたいとも思えないし。眠気さえもない」


「こんな場所でトイレに行きたいとか言われたら逆に困るわ」


 密室空間。

 そんな場所でトイレに行きたいと言われたら大変だな。

 小ならまだしも大をしたいと言われたときには、どうするべきか悩んでしまうだろう。


「犯人の目的はなんだろうな。ミステリーやサスペンスとかなら、今頃俺たち二人が殺し合ってもいいころなんだけどな」


「わたしに殺されたいの?」


「殺される気はないよ」


「殺す気だったのね……こんなか弱い少女を……」


「なわけねぇーだろ。例え話だ。こーいうのって、結構あるじゃん。絶海の孤島に閉じ込められて……みたいな?」


「あるわよね。でも、今の状況ってあまりにも狭すぎるでしょ」


 教室の一室。

 こんな場所で殺人事件が起きたところで、犯人はすぐさまに分かることだろう。


「えーとさ、こーいう状況を何て言うっけな?」


「クローズド・サークル」


「わざわざそんな空間を作り出したんだ。犯人は何かしらの意図があると思う」


「そう思うのは勝手だけど、何のために??」


 雨咲の問いに対して、晴渡は何も答えられなかった。


◇◆◇◆◇◆


 手がかりと思える手がかりは何もなし。

 となれば、もう残るは強行突破しかない。

 掃除用具入れを開け、晴渡はモップを手に取る。


「掃除でもするの?」


「俺がそんなことすると思うか?」


「そうね。心が醜いもの。教室を綺麗にする前に、心を綺麗するべきよね」


「教室内で最も汚れているのは、お前の心だと思うんだが?」


「……見破られていたのね。わたしの邪悪な心が」


「あぁーこれでも一応付き合っていたからな」


「付き合っていた頃はまだ猫かぶっていたと思うんだけど?」


「前から結構素が出てたぜ。付き合ってるときは尚更だが」


「お互い様よ。付き合ってから嫌な部分が目立つようになったし」


「待て待て……言い争いはやめようぜ。無駄に体力使うだけだ」


「疲れてるの? ただ喋るだけなのに」


「気苦労だな」


 晴渡は両手でモップを持ち、構えのポーズを取った。

 その姿は前方から襲いかかる獣を迎え撃つようだ。


「何する気?」


「まぁー見てろって」


 晴渡はモップを構えたまま突進した。

 目指すは教室のドア。果たして結果は——。

 開くはずも、壊れるはずもなく、ただ床に倒れるはめになった。

 ぐにゃりとモップは折れてしまい、使い物にはなれなさそうだ。

 教室とドアの狭間に見えない壁があるのか、手も足も出ないのだ。


「クッソタレが……逃げ出す方法はねぇーのか、やっぱり」


「さっきも言ったけどね。逃げ出すのは無理よ、諦めない」


「確かめたかったんだよ。本当に開かないかどうか」


「男って単純ね」


「百聞一見に如かずって言うだろ?」


「でも晴渡くんらしいわ。他人の話なんて全然聞いてないんだから」


「それって愚痴か?」


「自分の胸に聞いてみたら?」


「分からないから聞いてるんだが?」


「なら分からないままでいいわよ」


◇◆◇◆◇◆


「晴渡くんって、視力悪い?」


「どうしてそんな話を?」


「ただの雑談よ」


「密室内での会話は酸素を奪う行為だ。最もしてはならない」


「今更? 酸素が減るとは到底思えないんだけど。こんな都合が良い世界で」


 そもそもと呟きつつ、雨咲は続けて。


「どうせ死ぬわよ。現状を続けていたら。この場所に助けが来るはずがないから」


「遅かれ早かれ、俺たちはどっちも死ぬな。今のままだと確実に」


「で、視力が悪い?」


「視力が悪いけど……それがどうかしたんだ?」


「ということは、メガネとかコンタクトとか付けてるってこと?」


「授業中にかけるぐらいだよ。普段は裸眼だ。俺、右目だけ視力が悪くてさ。だから、授業中、黒板の右側に書かれると困るんだよね」


「ふぅーん。実はわたしもメガネ愛用者だったんだ」


「だったってことは……昔の話ってことか」


「そう、大体中学校に上がってからだったかなー?」


「何が言いたいんだよ?」


「初めてメガネをかけたときの話になるんだけどね。わたし、ビックリしたんだ。こんなに世界は綺麗なんだ、こんなに世界って美しく映るものなんだって」


「視力を矯正したら……世界が丸っ切り変わるもんな。黒板の文字が一番後ろの座席でも見れたときは、無駄に興奮したっけな」


「晴渡くんも似た経験があるのね。ちょっと嫌な気分かも」


「俺に喧嘩売ってるのか?」


「特別感が消えるじゃない?」


 それでね、と付け加えるように発言してから。


「ただ、途中から怖くなったんだよね。見えすぎて逆に怖いというか」


「怖い?」


「嫌な部分が目に見えるようになったって言えばいいのかな?」


「例えば?」


「毛穴」


「女子力全開だな」


「石を動かしたあとの、虫の集合体」


「虫が悪いんじゃない。石を動かしたお前の責任だ!」


「周りの反応とか」


 ツッコミを返せなかった。

 雨咲雨がまだ口を開いてたから。


「中学校の頃にね、一分間スピーチってものがあったの。出席番号順に、毎日一人ずつ自分が感心するニュースや出来事に関して話すってのが。帰りのホームルーム時間中にするんだけど……わたし結構好きだったの。だからさ、そこそこ時間をかけて考えていたんだよね。子供ながらに調べてさ。だからこそ、長くなるんだ。言いたいことが沢山出てくるから」


 晴渡は相槌を打つ程度で、何も言葉は返さなかった。

 ここで返してしまうと、雨咲雨の話を遮ると思ったからだ。


「で、何度目かのスピーチが回ってきたの。三十人クラスだったから、大体一ヶ月半ぐらいで回ってたかな。で、そのときに気が付いたんだ。あ、誰もわたしの話に集中して聞いてないなって。メガネをかけて初めて。全員早く帰りたい感を醸し出して、ただ流れ作業を熟すようにわたしの話を聞いているの。必死に頷いていたのは、さっさと終わらせて欲しかっただけみたい。わたしね、今まで自分が世界の中心だと思ってた。子供だよね。自分は特別な存在で、勝手に周りから注目されてるってさ」


 雨咲雨の話を聞き終えたあとは、しっかりと返事しよう。

 と思っていたのだが、人生経験が乏しい晴渡は気が利いた言葉が出てこなかった。こんなときに軽くカッコいい台詞が出てくるのならば、どれほど良かったことだろうか。


 ともあれ、雨咲雨に怒った出来事は理解できた。


 挫折だ。

 生まれて初めての挫折。

 子供から大人になるにつれて、物事を理解していく。

 その過程のなかで、雨咲雨は悟ったのだろう。自分は普通の人間だと。

 子供の頃は、誰もがスーパーヒーローになりたいという野望や、白馬の王子様が迎えに来てくれるという幻想を想像する。しかし、そんな夢は到底叶わないと理解して生きていく。

 地元で最強と謳われて鼻高々のスポーツ少年が地元を離れた途端に、取るに足りない存在だと自覚するように。


「でも、晴渡くんはあの日わたしを選んでくれた。嬉しかったんだ」


「…………今更そんな話するなよ。もう別れてるんだからさ」


「……そうだね、ごめんこんな話しちゃって」


 雨咲が僅かに顔を背けた瞬間、チャイムが鳴り響いた。

 それからノイズ混じりの機械じみた声が流れてきた。


『完全下校時刻になりました。まだ教室に残っている生徒は電気を消して、戸締りを確認してから帰りましょう。生徒の皆さんはただちに下校してください。さようならさようならさようならさようなら』


 もう一度繰り返します、という言葉に引き続き、『別れの曲』が流れ始めた。悲壮感漂う曲調に、晴渡は何とも言えない表情になってしまう。

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