「どうして──」凪沙は絞り出すような声を出す。「医者いないの? 治療しないの? このひとモルモットなの?」

「中毒まで行ったら治療不能だ。不思議の国は招待したゲストを帰さない。現実へ連れ戻すための薬剤は、受容体レセプターをブロックされて効かなくなる。童話のアリスのように、昼寝から目を覚ますわけにはいかない」

 女性は長い間痙攣と絶叫を続けたが、やがて口から泡を噴き、力尽きて弛緩した。

 長い睫毛の目尻から、こぼれた涙が耳へ伝った。

「末期の発作は30分ごとに起きる。この女性は……せめて治療法の糸口を掴もうと、脳波データを取られている」

「消してよ!」凪沙は金切り声をあげた。

 スクリーンを閉じた。言われなくても、そのつもりだった。この先は更に酷い。

「殺してやったらいいじゃんよぉ。安楽死じゃなくても、銃でズドンでいい。あれよかマシ。アンタやってきなよ。市民を救うのが仕事だろ。悪夢から救ってやれよ!」

「Aliceはただの薬じゃない。小さな怪物だ。脳に巣くって〈不思議の国〉のもてなしを続ける。そのために宿主の躰をまもって生かし続ける。嫌な例えで悪いが、毒を飲ませてもAliceが解毒する。首を切断しても、一説では脳を細切れにしても、Aliceが意識だけ生かし続けてを維持する。一日以上もだ。医者はそんな修羅場に関わりたがらない」

 凪沙はいらいらシャンパンを注ぐ。味わいもせず呷る。タバコを点ける手が震えている。

 据えたお灸がキツ過ぎたか。所詮子供だ。

「ちょっとは応えたか。Aliceは極端だが、VRDの本質は同じだ。もうやめとけ。ECHIGOYAさんなら最高の断薬チームを用意してくれるさ」

 少女はくらい目でこちらを見る。ボトルに手を伸ばし、握りそこねて倒した。テーブルに炭酸の泡が拡がる。

「遅いんだよ」ボソリと言う。

「なに?」おしぼりで高い液体を吸いながら、シュウは聞き返す。「何が遅い?」

「もう、やっちまったよ……Alice」

 おしぼりを持つ手が止まった。

 凪沙はパーカーのポケットから紙包みを出して、濡れたテーブルの上に投げた。「Aliceだよ……さっき買った」

 シュウは茫然と紙包みを開く。

 点眼剤に似た小瓶だった。うす紫の表面にはロット印字があるだけ。

 体内の強化ナノマシンが、掌に載った小瓶に共振する。ナノマシンはナノマシンに呼応するのだ。

 掌を通してシュウは感じる。小瓶の中身はナノマシン・ドラッグだ。強い波動がAliceに間違いないと主張している。

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