障り
翌朝、腕の内側に小さな切り傷ができているのに気づいた。桂がつけたものだ。
幸い浅く、縫う必要もない。ただ、ひりひりと痛むだけだ。
蓆をめくって部屋を出ると、足元に昨日跳ねのけた刀子が転がっていた。拾い上げ、蓆の向こうに置いてから外廊の階を降りた。顔を洗いたいと思い、斜面の近くにある井戸へ足を向ける。
冷たい水を顔に浴びると、一睡もしていない頭がいくらか清明になった気がする。深く息をついた時、背後から足音がして振り返った。
「久米」
「お早いですな」
まだらに髭が生えた顎をさすりながら、久米が言った。もし好奇の目を向けられれば冷静でいられる自信がなかったが、幸い彼は気の毒そうな面持ちだった。慮ってくれていることに、わずかに安堵を覚える。
ただ、まったく眠らなかったと言えばあらぬ勘繰りを受けそうなので、努めて元気なふうを装った。
「久米も早いな」
「端女たちが、湯殿の支度に忙しくしておりましたので。騒がしさで目が覚めました」
おそらく桂が、すぐに身体中を洗えるように前もって言いつけておいたのだろう。致し方ないが、徹底的に嫌われていることをあらためて実感する。
「先程、桂姫とすれ違いましたが――」
不意に久米が言って、騒速は我知らず彼を食い入るように見つめた。
「――侍女が心配そうにしておりましたが、桂姫は落ち着いた様子でした」
久米が、少女の心を解するほど繊細かどうかは、普段考えたことがない。多分、そうではないだろう。騒速と同じく、むさくるしい武人の考え方のほうが馴染み深いはずだ。だけどこの日だけは、彼の言うことを信じようと思った。
それから数月ほども、騒速は桂の閨を訪わなかった。
伊勢の人々の傷が癒えるまで、彼らに残された桂の生活に踏み入ることは避けたい――というのは勿論あったが、自分が狭依に操を立てたいというのが正直なところだった。桂の内面を慮りたかったというのもある。
あの夜、飛びかかってきた桂の目は、敵意だけでなく恐れにも震えていた。十六の少女が、恐怖をこらえて刃を握りしめていたのだと思うと、何よりも憐れが先に立つ。
自分たちが来なければ、今頃許婚と結ばれていただろうに。
もやもやした思いを振り払いたくて、たびたび遠乗りに出かけた。その日も、川沿いを走って戻り、馬を厩へ連れて行くところだった。
宮の庭で、久米と、桂の侍女が話していた。そばを通り過ぎようとすると、侍女はそそくさと会釈して立ち去ってしまった。久米が物言いたげな視線を向けてきた。
「何かあったか」
侍女の様子から、緊急の用件ではないだろうと思ったものの、一応尋ねた。久米が言いにくそうに口を開く。
「桂姫のことで」
「ああ」
「今しがた聞いたのですが……」
久米にしては珍しく、歯切れが悪かった。目線で続きを促すと、しばらく経ってから低く言った。
「どうやら、つわっているようだと」
頭を殴られたような衝撃が騒速を襲った。まさか――ありえない。
騒速の驚きを、久米は別の意味に受け取ったらしかった。慰めるように言う。
「一夜で身籠るとは、と侍女も驚いておりました」
違う。その一夜すらも、騒速は桂を抱いていない。指一本触れていないのだ。
騒速の混乱をよそに、久米は何を言うべきか逡巡していた。狭依と騒速にとって、決定的な事態が持ち上がってしまったのを、心底から同情するようにして。
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