桂姫
どうやって伊勢の臣下にことの次第を伝えたか、覚えていない。久米が終始気の毒そうにしていたことだけは覚えている。
伊勢の老臣たちも――伊勢津彦とともに逃げられない、年老いた臣下ばかりが残されていた――、騒速と桂姫との婚姻を伝えられると、驚きに言葉を失っていた。
「確かに桂さまには、許婚はおりませぬが……」
言いにくそうにする長老のひとりに、久米が静かに尋ねた。
「何か問題が?」
「いえ――かつては許婚がおったのです」
鉛のように重い騒速の胸が、また更に重くなった。
「しかし、伊勢津彦様とともに東へ逃れました」
別の老臣が言って、誰もが肯定に押し黙る。彼らの様子から、桂姫がそのことにわだかまりを抱えているのは明らかだった。
それでなくても、自分を護ってくれるはずの父も許婚も、とっとと逃走してしまった衝撃は察するに余りある。かたちは違うが、家族と死別してひとり遺されたことがある騒速には、共感に胸が痛くなる話だ。
老臣たちが去った後、嘆息する騒速の脇で、久米は考え込むようにして、まだらに生えた髭を搔いていた。
その彼に騒速は尋ねた。
「
「――はい」
久米が床に落としていた視線を上げる。旅の間は、軽口も言って一行の心持を支えてくれた彼だが、ここ数日はぱっとしない雰囲気の騒速を慮ってか、妙に静かだった。
「あのお二人が何か?」
磐余彦は台与の縁戚の男で、大和の政務全般を任されている。智鋪以外に、出雲や吉備の勢力も手を伸ばしていた大和に入って平定し、拠点を構えた。そして今は、台与が祭祀を担い、彼が政務を担うという役割が確立している。遠征や、国の大事においては台与が折にふれ先見にのっとった助言をしていたが。
「磐余彦様が珠洲姫を
珠洲姫は、出雲の国主の孫娘である。台与の命で磐余彦や久米らとともに大和に入り、巫女となった。それだけでなく、旅の途上で智鋪の武人たちと絆を深めた彼女は、積極的に出雲と智鋪をつなぐ役割を担った。
間もなく磐余彦は、珠洲を后に迎えた。一時、磐余彦の配下だった久米は、そのいきさつを詳しく知っているはずだ。
久米は言いにくそうに言った。
「磐余彦様たっての希望でした。珠洲姫も同じ想いでしたし」
「やはりか」
呻くように騒速は言った。智鋪と出雲をつないだ婚姻も、本人たちの意志あってこそのものだったわけだ。
ただ、嘆いても仕方ない。武人として長く台与に仕えてきた騒速に、主命に背く選択肢はなかった。どんな形であれ、桂姫を妻としなければならない。
当面、祝言は挙げないことになった。
国主の遁走という事態の直後、伊勢の人々に祝い事を強いたくないと騒速が言ったためだ。意気消沈した老臣たちは、その意志を淡々と受け入れてくれた。
間もなく桂を訪う夜となったとき、騒速はひとつの決意を固めていた。桂の閨を訪れても、今夜彼女に触れることはしない。
いつぞや初めて狭依を抱いたときのことが、脳裏に蘇る。騒速以上に緊張していた彼女だが、決して騒速を嫌っていたわけではない。むしろ好いてくれていたのだ――中つ国の、誰よりも。
ならば、忌み嫌う騒速の腕に抱かれる桂は、どれほどの恐れと屈辱に震えなければならないことだろう。騒速はとても、彼女の拒絶を捩じ伏せる気になれなかった。
小皿の油に浸した灯心を掲げ、騒速は母屋から桂の住む棟へと宵闇の中を歩いた。階をのぼり、高床の廊下を過ぎて、桂の閨の入口にある蓆を押し開けた。
とたんに何かが飛びかかってきて、騒速は脇へ転がるようにして攻撃を避けた。刃が空を切る音に、我知らず背筋が冷える。
戸口の壁に人の身体が当たる音を聞く間に、騒速は床に膝をついた姿勢から起き上がった。相手もすぐさま跳ね起き、こちらに向かってくる。
「待て」
言ったものの、もちろん相手は聞く耳を持たなかった。灯心の明かりを跳ね返す刃を目でとらえ、騒速は刀子を握る手首を強く打った。弾き飛ばされた武器は、蓆の下から外へ滑り出た。
少女のうめき声がして、桂だとわかる。何か考える間も無く、彼女は再びこちらに掴みかかってきた。首元に伸ばされた手を引き剥がし、両の手首を掴んだ騒速は、自身の乱れた呼気を聞きながら言った。
「聞け」
唸るように大声を上げようとした桂が、途端に口を閉じた。思わず強い口調になったために、怖がらせたかと一瞬躊躇う。しかし、騒ぎを起こされては人がやってきてしまう。
騒速は声をひそめて続けた。
「其方を抱くつもりはない」
桂が息を呑んだ。朧な火明かりに、歯を食いしばるようにした、敵意溢れる顔が浮かび上がる。
「私を朝まで、ここに置いておけばいい」
桂の目に、不信と期待が同時に浮かんだ。手を触れられることはないという言葉を信じたいが、騒速を信頼するべきか迷っている。
「夫婦は形だけのことだ。良いな」
言い聞かせるように、だが有無を言わさぬ語調になった。過度に抑えつけても、不自然に下手に出ても、この娘の信頼は得られない――そう思ったから。
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