主命

 ――力でねじ伏せるのではないの。伊勢の民草が、納得いくかたちで平定するためには、騒速でないと。


 そう言った台与の言葉を、疑う理由があるわけではない。都では今でも、台与の言葉に従う人々が大八洲を束ねている。

 だが、国の主の遁走を目にし、魂が抜けたような民草を従えるのなら、騒速でなくとも誰でもいいような気がした。


 伊勢津彦を見送った騒速らは、彼が住まいとしていた宮に戻った。伊勢津彦によつぎはおらず、妻は既に亡かったので、娘の桂姫が主となっているはずだった。


 黒々とした目と髪が、印象的な少女だった。遠く西からやってきた騒速たちに、躊躇いのない敵意を向け、父が隣にいなければ今にも騒速に掴みかかりそうな勢いだった。


「あの目を見ていると、自分が咎人に思えてくる」


 騒速が呟くと、久米が軽く目を瞠って驚いたようにした。


「弱気ですな――騒速殿にしては。台与様の勅命なのですから、物怖じされることなどないかと思いましたが」


 騒速がいかに台与を信頼しているか、台与がいかに騒速を重んじているか、久米はよく知っていた。その台与から指名を受けた騒速が逡巡しているのは、彼にとってひどく意外なことのようだ。


「出雲の時は、強大な敵がいた。けれど此度は、敵のほうから逃げていった。このうえ伊勢の民草を納得させる方法とは何だろう」


 息をついて騒速が言うと、久米は小さく肩を竦めてから言った。


「確かに伊勢津彦は、剣を振るう相手ではありませんでしたな」


 最初は威勢の良いことを言っていた伊勢津彦だったが、騒速が出雲を平定したことを聞くと途端に顔色を変えた。

 臣下の一人から聞き出したところによると、洲羽すわに遁走した出雲の水潟彦みなかたひこと親交があったのだと言う。あの剛腕を打ち負かしたのが目の前の男だと知って、泡を食ったように大人しくなった。


 急に武器の準備をし出したので何かと思えば、手勢を連れて東方へ逃げるところだった。何事かと追いかけた騒速たちに怯え、水門で半ば溺れながら船にしがみつき、出港して行ったのだった。


「手強い相手は、これから現れるやもしれません」


 どこか考え込むような表情で久米が言った。


「私たちの寝首を掻く刺客が?」

「ええ」


 久米の言うことは一理ある――普通であれば。ただ、虚しさばかりを浮かべている伊勢の臣下や民草に、暗殺をしかける元気などありそうには見えないのだ。もちろん今も、寝ている間も心底から油断はしていないのだが。


 歩いて宮の庭に足を踏み入れたとき、高床の手すりに止まった隼が目に入った。何が起こるまでもなく、人の魂が宿っているとわかる。その強い双眸は、ただの鳥のものとは思えなかったから。


「騒速に久米」


 よく通る声が響いて、直感が確信に変わる。ふたりともが居住まいを正したとき、続く声が言った。


「伊勢津彦が去って、伊勢平定の入口は整ったわね」


 は、と答えながらも、騒速は問いたい気持ちを抑えるのに苦労した。この遠征は、不可解なことしかない。


「次は伊勢の人心に、智鋪の存在を根付かせなければ。そのためには、騒速――」


 は、とわずかに目線を上げた時、信じられないせりふが耳に飛び込んだ。


「桂と夫婦めおとになってほしいの」


 あまりのことに、騒速は口を半開きにして返事も忘れていた。久米に肘で小突かれて、ようやく声にならない声を出す。


「それは――」

「祝言をするしないとか、細かなことは其方に任せるわ。久米も、臣下たちへの知らせや段取りを助けてあげて」


 は、と答えた久米の声に迷いはないものの、どこか気遣わしげだった。騒速がどれほど狭依を大切に思っているか、狭依が騒速をどれほど想っているか、それも彼はよく知っていたから。


 騒速はずっと、狭依以外に妻をもうけたことはなかった。気持ちが彼女以外に向くことなど、およそあり得なかったから。ただ、主命で妻を持てと命じられてしまったなら、狭依への想いを裏切らない方法はなかった。


「肝要なことは、智鋪と伊勢をつなぐことよ」


 確かに聞こえる台与の声を、これまでになく遠く感じた。


「だから、其方が桂のつまであることこそが大事なの。他のことは、それほど問題じゃない」


 台与にとっては、そうかもしれない。だが騒速にとっては、到底そうではない。これまで狭依と自分は、互いに唯一無二の相手だった。それが、よりにもよって主命で覆されてしまうなんて。


 内心で歯噛みしながら、騒速はおざなりに返事をした。まさか家族のかたちが任務のために変わってしまうとは、夢にも思わなかった。

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