伊勢路 青嵐

丹寧

伊勢

 吹きすさぶ風が、黒い海を荒らしていく。

 うねる波の上を、大木をくり貫いた船が木の葉のように東へと漂っていった。伊勢の国長、伊勢津彦とその手勢が乗った船である。


 強い風に目を細めながら、騒速そはやは逃げ去って行く彼らの背を見送った。腰に佩いた十束剣の柄を、無意識のうちに握りしめていた。


 穴戸の国長になってから、早や十年が経っていた。その騒速に突如、伊勢平定を命じたのは、誰あろう台与とよだった。名残を惜しみつつも妻の狭依さよりに見送られ、国許くにもとを発ったのは春のこと。それから既に、二月が過ぎた。


 脇に目をやれば、呆然と主の去った方角を眺める、伊勢津彦の臣下たちがいる。よもや国の主が、自分たちを置いて逃げると思っていなかったのだろう、失望とも落胆とも言える色が、その目に浮かんでいた。


 ――あなたでなければ、ならないの。


 脳裏に響く台与の声が、どこまでも虚しく聞こえた。それであれば、と妻子を置いて出て来たのに、伊勢津彦自らが逃げ出すとは。自分である必要など、どこにあったのだろう。


 ――宿禰や鳥船にはできない。だから行ってほしい。


 武人として、主命を拒むことなど選択肢にない。だが、もし自分でなければ、今でも穴戸で狭依や子どもたちとともに過ごせたかもしれない。ここへ無事に辿り着けるかすら、旅そのものが危険な世にはわからなかった。


「騒速殿」

「――久米」


 低い声がかかって、騒速は背後を振り返った。手勢として筑紫洲から連れて来た、武人の久米くめが眉を顰めて立っている。険しい目許には、熊襲の虜となったときに入れられた刺青がある。


「図らずも、早々に務めを果たしてしまった」

「ええ。そのようです」


 神のすえで、身分の高い騒速が旅の首領だが、歳は久米の方が上だった。ただ、彼は騒速の実直なところが好きだと言って、歳の上下にかかわらず誠実に仕えてくれていた。一人も欠けることなく伊勢に辿り着けたのは、彼の尽力のおかげだと言っていい。


 その彼が、呆れたように溜息をついた。そっけなく後頭で束ねた髪が、海風に靡く。日に焼けた肌を、伸びかけの髭が覆っている。


「呆気ないものですな。ひとつの国が智鋪に降るというのに」


 騒速は頷いた。出雲と同じことが起こったはずなのに、こうも気持ちが違うものかと、戸惑いが先に立っていた。

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