うちの女神が言うには

亀吉

第1話


 うちの女神が言うには、


「貴方は、私の唯一のヒトだもの」


 だそうだ。



 瞼の裏に朝の気配を感じる。

 反射的に眉間が寄った。そこから意識が緩やかに浮かび上がって、薄く開いた視界、見覚えのある自宅の寝室の天井と、

「おはよう、スイ!」

 光の妖精のような少女の笑顔が飛び込んできた。その朝焼け色の瞳には、まだ眠そうな自分の顔が映っている。瞳を縁取る睫毛も、あどけなく結われた髪も、俺に触れてくる爪の先まで、金色にきらきらと輝いて。朝日すら霞むほどの眩さに、思わず再び瞼を閉じそうになったが、どうにか体を起こす。

 そして、腹の上に跨っていた少女を傍に退かして、小さく丸い頭に片手を置いた。

「……おはよう」

 眠気がまだ喉に絡みついている。掠れた声で告げた挨拶に、けれど、少女はにっこりと笑う。

「トースト焼けてるわよ。今日は焦がさず出来たの!」

「そうか、……顔洗ってくる」

「うん、それがいいわ。貴方、今にもベッドに戻ってしまいそうだし」

 そう言って少女は、ぴょん、と軽やかにベッドから降りた。仔猫のような足音を立てて、華奢な背中が寝室から出ていく。それをぼんやりと見送ってから、気怠さを置いていくために寝床から抜け出した。

 明るいリビングに柔らかく香るトーストの匂い。そこを通り抜けて、洗面所で顔を洗う。冷たい水に急激に起こされる意識。タオルで顔を拭きながら、ふと目の前の鏡を見た。何の変哲もない、冴えない三十歳の男がそこにいる。

(ああ、──)

 髪を梳かして適当に結って、最低限の身なりは作って。それからリビングに戻れば、食卓には少し焼き色が濃いトーストと、マーマレードジャムの瓶。そして、キッチンからおずおずと出てきた少女が持つ皿には、随分と焦げ目がついたウインナーと、黄身が潰れて焦げた目玉焼きのようなものが載っていた。

「その、私、この子たちと……仲良くなるには、もう少し、時間がかかるみたい……」

 ごめんなさい、と力無く俯いた少女のつむじは右回り。柔らかそうな手から皿を受け取ると、ぱ、と少女は顔を上げた。丸くなった瞳が放つ輝きに耐えられず、情けなく目を逸らしてしまう。

「充分だ、これくらいなら食べられる。……ありがとう」

 絞り出す勢いをつけないと、感謝の言葉ひとつも満足に述べられない。そんな男にも、少女はあっという間に曇った顔を晴れさせて、軽く跳ねるように飛び付いてきた。小さくて温かい体温が、ぎゅう、と俺の腰辺りに引っ付いてくる。

「良かった! ちゃんと食べて、今日もお仕事がんばってね、スイ!」

 そんな裏表無しの笑顔と言葉が、光の矢になって胸を貫いてきた。穿たれた痛みで喉の奥がぐうと鳴る。どうにか一矢報いたくて、少女の頭をそっと撫でた。誰がどう見ても不器用な手付きだというのに、少女はミルク色の頬をふんわりと綻ばせる。

 それが眩しくて、苦しくて。呼吸をするのが精一杯の俺は、また溜め息をつく。


 俺は、この少女のことを知らない。

 知っていることと言えば、少女は俺のことを知っている、ということと──少女は女神だということだ。


 記憶している出会いは、一週間前。

 朝、いつも通りに目を覚ました俺に、

「おはよう、スイ!」

 太陽も月も霞むほどの笑顔で、少女はそう言った。見るからに未成年の少女──顔立ちは幼いけれど、十七、八歳くらいだろうか──が同じベッドにいるという事実に、動揺しなかったといえば嘘になる。けれど、何故か。少女の名前すら知らないのに、少女が「そこにいる」という事は、自分でも不思議なほどにすんなりと馴染んでいた。そんな俺の心境を見抜いていたのか、少女は綺麗に笑った。

「ふふ、きょとんとしてる」

 俺の上にのし掛かって楽しそうにしている少女は、朝の光をその身に纏っている。宝石の化身かと見紛うほどに。そして、俺が言葉を見つけられずにいると、少女は薄い手のひらで、俺の頬をぺたりと触った。透き通るような熱が伝わる。

「私は、貴方の女神よ」

 朝日の中、見知らぬ少女に、己の女神だと囁かれる。これは夢の続きか、頭がおかしくなったか。しかし、その時の俺は少女の言葉を──ほんの一瞬も疑わなかった。それは「海には魚がいる」だとか「呼吸は息を吸って吐く」だとか、そういう類のことを言われたかのような。だから、俺は瞬きをして、意識の焦点を合わせて、

「そうか」

 とだけ返したら、少女はきょとりとしてから、朝露が零れるように笑ったのだった。


 職員用の駐車場に車を停めて降りる。この街では一番大きい総合病院──その敷地内を囲んで植えられている桜は、もう見頃は終えているけれど、風はまだまだ春の匂いを孕んでいた。革のキーケースを鞄の内ポケットに放り込む。

 そして、職員玄関へと向かう俺の背中に、とん、と軽い衝撃が当たった。

永緑ながみどり、おはよー」

 つり気味の目と、柔らかそうな赤茶の髪。猫みたいなその男は、犬みたいに人懐っこく笑って、俺の隣に並んだ。

「ああ、……おはよう、赤澤あかざわ

「相変わらず低血圧だなあ、お前」

「お前が朝から元気すぎるんだ」

 もう少し声量を下げろ、と苦情を言うと、赤澤はわざとらしく「聞こえねーなー」とそっぽを向く。小児科医だからといって、子どもらしくなる必要は無いと思うのだが。そう思いながら溢れそうな欠伸を噛み殺していれば、

「な、今日って当直? 飲み行かねえ?」

「あー……いや、すまん。当直じゃないが、なるべく早く帰らないといけない」

「マジか。最近直帰だな、お前。……もしかして彼女?」

「違う」

 間髪入れずに否定したら、赤澤はからから笑って肩を叩いてきた。──面倒臭い。


 午前中からオペが一件。午後には二件。

 よくある症例であっても、人の身体の中は何一つ同じではない。だから毎回緊張はするし、最悪の事態だって常に想像しておく。

 そして、その緊張や不安が全て杞憂で終わって、ようやくオペが終わる。限界まで高めた集中力が緩むと腹が減るのは、自分の体が正常に動いている証拠だ。

 食堂に行けば、ピーク時から少し外れた時間帯のおかげか、人は少なかった。

「あら永緑先生、今日は遅いのね。お疲れ様!」

「……どうも。これ、お願いします」

 挨拶もそこそこに食券を渡す。午後に控えているオペの事を考えているうちに「お待たせ!」と元気な声がして、トレイの上にカツカレーが置かれた。いつも通りの大盛り。

 席に着いて、出来立てのそれを口に運びながら、思い出した。懐の医療用スマホ、じゃなくて、私物のスマホを取り出して電源をつける。そこに電波が入ったと同時、新規メッセージが受信された。

『お疲れさま。ちゃんとお昼たべてね!』

 送信者を見なくても分かった。ガラスの鈴の音のような声が耳に蘇る。記憶は無いが、俺が買い与えたというスマホを、どうやらあの少女はきちんと使いこなせるらしい。ただ、どう返すのが正解なのかは分からない。

 カツカレーを食べ進めるのを一旦やめて、考えること五分ほど。考えるほどにドツボにハマる気がしてきて、もはや諦め気味に返信をした。

『今しっかり食べてる。帰りはあまり遅くならないようにする。』

 業務連絡の形から抜け出せない。けれど、既読表記はすぐに付いて、丸っこい猫が嬉しそうにしているスタンプが戻ってきたから、どうやら大きく外しはしなかったようだ。そっと胸を撫で下ろす。

 どうして仕事以外で緊張を覚えなければならないのか。俺はスマホを内ポケットに戻して、少し冷めたカツカレーを頬張った。


 概ね、予定通りの帰宅時間。

 車のエンジンを止めると、深く息を吐き出しながら運転席の背もたれに寄り掛かった。

「流石に疲れたな……」

 外科医としてどれほど勤めようとも、手術を担当する日は疲労感が違う。体力も気力も集中力も使い果たした。このまま寝ようと思えば寝れるのだが、ここまで来たら自宅のベッドで寝たい。

 どうにか体を起こして車から降りると、車に鍵を掛けて、地下駐車場を歩き始めた。薄暗くて誰もいない空間に、自分の足音だけが響く。纏わりつく、薄寒い空気。

 自動ドアを潜れば、やっと明るい場所に出た。エレベーターのボタンを押して、上から降りてくるのを待つ。

(夕飯、どうするか……)

 空腹をぼんやりと覚えながら考える。朝食は少女が用意してくれているが、俺がいない時に火を使って欲しくないので、夕飯を用意するのは俺の役目だ。

 確か卵の賞味期限が近かったような、と冷蔵庫の中身を思い出していれば、到着したエレベーターがドアを開けたので、何も考えずにその中へと足を踏み入れた。

「──あ、?」

 狭い箱の中が、暗い。いや、──黒い。自分の手足はハッキリと見えているから、停電、ではない。

 振り返ると、入ってきたはずのドアも黒一色に塗り潰されて、空間に溶けて消えていた。手を伸ばしてみても壁は無い。

 宙を掻いた手を下ろし、俺は深く溜め息を吐き出さずにはいられなかった。頭が痛くなった気がして額を押さえる。

「……何なんだ、これは」

 人間は理解が追いつかなさすぎると、いっそ冷静になれるらしい。しかし、冷静になったところで何も分からない。

 立ち尽くす俺の足元から、ぐちゃり、と粘着質な音がした。

 咄嗟に見下ろしても何も見えなくて、嫌な予感だけが背筋を走る。頭の奥で「気付くな」と警告が鳴り響く。後退りすれば、右の足首が軽く引っ張られる感覚がした。それを振り切るように勢い良く足を引く。

 すると、足に絡みついていた何かがちぎれた。勢い余った俺はそのまま後方へとよろめいたが、ドン、と背中が壁にぶつかって転ばずに済む。

(──おい、待てよ?)

 先ほどまで、この空間に壁が無いことは確認したはずだ。

(じゃあ今、俺の後ろにあるのは、……何だ?)

 血の気が一気に引いた。咄嗟に離れた瞬間、暗闇の中で何かが空気を裂いた──いや、噛み付いた。生臭くて温かい、獣の吐息のようなものが俺の肌を撫でる。ぽたり、ぽたり、滴る音の正体も見えず、分かったことは、今の一瞬で俺は死にかけたということだった。

 暗黒の空間に溶けている生物が、俺を喰らおうとしている──その事実に気付いてしまったが最後、死の予感が這い上がってきた。

 自然と呼吸が、浅く、速くなる。逃げようにも出口はない。遠くなる意識を繋ぎ止めるのが精一杯で、闇の奥、見えないものの気配が俺に飛びかかってくるのを感じることしか出来なかった。


「見つけた、スイ」


 澄んだ鈴の音が聞こえた。

 目の前の暗闇が縦に切り裂かれて、光が差し込んでくる。

 まるで、夜が明けて、朝を迎えるように。

「なかなか帰って来ないんだもの。だからね、迎えに来ちゃった」

 光を纏った少女が一歩踏み出すたびに、暗闇の中で金色の花が咲き、獣じみた悲鳴が木霊する。けれど、少女はおぞましい咆哮など聞こえないというような顔で、俺の片手をやわらかく掬い取った。

「さあ、帰りましょう」

 そうして少女が微笑めば、周囲がたちまち晴れていく。

 そして気付けば、俺と少女は手を繋いでエレベーターの前にいた。どうやら悪夢は幕を引いたらしい。しかし、まだ冷たい背筋と煩い心臓が、数秒前までの出来事は現実だったと突きつけてくる。

 硬直が解けない体で立ち尽くしていると、くん、と軽く手を引かれた。其方に顔を向けた俺に、少女は青い瞳をとろりと細める。

「今日はご飯、上手に炊けたのよ! 家に帰ったら褒めて!」          「……そうか」

 頷いた俺の手を引いて、少女は軽く跳ねるような足取りで歩き出す。揺れる金の髪。影を踏む小さな足音。仔猫が甘えるみたいな鼻唄。そこで俺はようやく、身体中から強張りが解けていることに気付いたのだった。


 ニュースか映画のDVDくらいしか映さなかった我が家のテレビだが、今やすっかり少女のおかげで、随分と出番が増えている。

 食後のコーヒーを啜る俺の隣で、少女は楽しそうにクイズ番組を観ていた。時おり聞こえてくる答えは、今のところ全て不正解だが、どうやら少女は答えるという行為が楽しいらしい。無垢で無邪気。底が見えないほどに。俺が分かることと言えば、少女は俺の女神らしいということと──、

「そういえば、君の名前はなんだ?」

 思わず口に出してしまった。振り向いた少女はこてりと小首を傾げる。

「今更聞くのね」

 ──ごもっともだ。何せこの一週間、俺は少女の名前を呼ばずに過ごせていたのだから。我ながら流石に薄情ではないかと苦く思っていれば、少女は怒りも呆れもせず、ふふっと吐息を漏らすように笑った。

「ナナシよ。名前が無いから、ナナシ」

「……君はそれでいいのか?」

 女神だと言うのなら相応の、そうでなくとも、こうも華やかな見目なら、いくらでも似合う名前がありそうなのに。

 けれど、少女は小さく首を横に振って、まるで宝物を自慢する子供のように言う。

「私はもう、この名前が気に入っているから」

 そう言われてしまえば、俺はもう何も言えない。そうか、と手元の小説に視線を戻そうとしたら、少女の貝細工のような指が肩をつついてきた。

「ねえねえ、呼んでみて?」

「……何で」

「いーいーから! ね、スイ、私の名前を呼んで?」

 ソファに乗り上げた少女が無遠慮に距離を詰めてきて、思わず体が逃げてしまう。しかし、狭いソファの上では、あっという間に端まで追い詰められた。

 逃げ場を失った俺は少女を見る。揺らめく深海の光を湛える瞳が、明らかな期待を持って、俺を見つめている。その視線が直視できなくて、情けなくも目を逸らした。

「……、……ナナシ」

 俺の唇から零れ落ちた、少女の名前。

「ふふ、はぁい」

 彼女は――ナナシはそれを、とびきり甘美な飴玉でも頬張ったかのように受け取った。ぶっきらぼうに放った一言を、そんな表情で拾われては、腹の中が落ち着かない。

「……そんなに嬉しそうにするものでもないだろうに」

「あら、そんなことないわ。だって、」

 不意に伸ばされた少女の手が、俺の手に添えられる。真珠の爪が輝く指が、つまらない男の指に絡む。絡め捕られて動けない。


「貴方は、私の唯一のヒトだもの」

 

 その言葉の真意は、今の俺には分からないが。

 ──うちの女神が言うのなら、きっと、その通りなんだろう。

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