3話 - Ⅱ

 朝食を終えた黒斗は、エルゲドの居室の扉の前に立っていた。

 輪を描く真鍮の取っ手を二度叩き、荘厳な扉に入室の許可を告げる。


「エルゲドの爺さん、入っても――」


 言葉を続けようとしたその瞬間、両開きの扉が静かに、けれど確実に開いた。

 一人で扉が開くなど、現実世界であれば間違いなく怪奇現象の類だ。


 しかし、ここは異世界。これまで培ってきた常識など通用するはずもなく、未知に触れるたび、黒斗は自らの『日常』を書き換えるしかなかった。


「……先が思いやられるな」


 腹を括るように小さく息をついて、黒斗は室内に足を踏み入れた。

 ひんやりとした空気が肌を掠める。室内はひどく静かで、 人の気配がまるでない。その静寂に戸惑いを覚えつつも、黒斗はそっと歩を進めた。


 まず圧倒されたのは、空間の規模だ。もはや『居室』と呼ぶには無理がある。王室図書館の縮図、そんな印象が自然と胸に広がった。


 天井まで届く巨大的な書棚が壁一面を覆い、積み重なった知の重みが静かに威圧する。人の手では到底届かない高さだが、あの老人なら杖の一振りで難なく本を引き寄せるのだろう。


 黒斗は近くの棚から一冊を抜き取り、ぱらりとページを繰った。数行ほど文字を追ったところで、ふと目が止まる。



「言葉を覚えるとは、その地に片足を植えることだ」———古ユスティティアの諺



 短い一文が、余白の多いページに静かに刻まれていた。

 見慣れぬはずの文字は、気づけば自然な読解となって意味を結んでいた。それが昨夜、記憶石を通じてこの世界の文字体系を取り込んだ恩恵であることは、黒斗自身にも分かっていた。


 もはや言葉の壁は存在せず、日常を送るだけなら何の支障もない。

 だからこそ、いま目にした一文だけは、黒斗の心に微かな棘となって残った。


 この世界の誰かが残した格言なのだろう。しかしそれは、まるで彼自身に向けられた忠告のようにも思えてならず、ここがもう逃れられない現実であることを、淡く、しかし確実に突きつけてくるのだった。


「これ、人の私物に勝手に触れるでない」

「……っ!」


 気配ひとつなく背後から声が落ちた。

 反射的に振り返ると、そこには無造作に佇む老人――エルゲドがいた。


「ほっほっほ。冗談じゃよ。興味があるのなら、いつでも見てよい」

「脅かすなよ……。アンタが魔術を教えるとか言うから、わざわざ来たんだぞ」

「うむ。こちらへ来るがよい」


 促されるまま足を向ける。部屋の奥、突き当たりの壁に、場違いなほど厳めしい扉が一枚。近づくにつれて深まる不気味な気配は、まるで『立入禁止』と無言で告げているかのようだ。


「ここが、ワシ専用の工房じゃ」


 エルゲドに続いて中へ入った瞬間、空気が一変した。

 図書館のような静謐さに包まれていた手前の部屋とは異なり、石壁に囲まれた工房は、燭台の淡い灯が揺れ、ほの暗い影を濃くしている。壁際の棚には、役割の分からぬ器具や薬瓶が並び、その中には生物の身体の一部と思しきものが、液体に沈められていた。


 工房の中はどこを見ても整然としているのに、薄気味悪さだけは収まる所を知らず、骨の髄まで沁み込んでくる。直感的に、ここが子供に見せられる場所ではないことは明らかだった。


「ではクロト殿。その床に描かれた円の中央で、少し待ってもらってもよいかの」


 足元には、幾何学が絡み合うような魔法陣が描かれていた。黒斗はエルゲドの指示に従い、その中心へと歩を運び、静かに次の展開を待った。


 一方のエルゲドは、机の上の整然と並んだ書類や道具を横目に、手際よく引き出しや小箱を開け、必要な物を探しているようだった。瓶を取り出しては元に戻し、巻物を取り上げては慎重に確認する。まったく乱雑さはなく、それでも探し物に集中している姿は、手練の魔導士の風格を漂わせていた。


 その精密な動きに感心しつつも、沈黙が長引くにつれ、工房に満ちる微かな薬品の匂いが、黒斗の神経をじわりと刺激してくる。やはり、何も言わずに立っているだけというのは落ち着かない。観念したように息をつき、彼はあることを質問してみた。


「爺さん、ちょっと聞きたいんだが」

「ん? なんじゃ、申してみよ」


「あんたらは自らを【魔導士】と名乗り、【魔術】を使っている。――でも、クォンティリアムは、魔力を扱う者は【魔操者】で、彼らが使用する技は【魔技】だと言ってた。一体何がどう違うんだ?」


 エルゲドは相変わらず引き出しの奥を探りながら、気の抜けたような声を返した。


「おお、そういえば、まだ詳しくは話しておらなんだなあ……」

「ジジイ……人の話を……」


 呆れ気味に漏らした黒斗の声は、本人の意図以上に小さかったはずだ。だが――


「聞いておる。安心せい」


 不意打ちに等しい返事に、黒斗は思わず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。

 この魔導士は、本気で油断ならない。ただの老人でないことは最初に会ったときから薄々気付いていたが、些細な陰口すら逃がさぬ聴力には、舌を巻かざる得ない。

 相手が只者ではないと、改めて思い知った黒斗は、気を取り直し、続くエルゲドの言葉に耳を傾けた。


「戦前から戦中にかけては『魔力を操れる人間を魔操者』、そして『魔力を用いた技を魔技』と定義付けられておった。だが、戦争終結後、我々の定義をより細かく分類する必要が生じてのう。現代の魔技は二種類に分けられておるのじゃ――」


【魔術】……『この世の理の範疇で行える魔技』

【魔法】……『世の理を魔力で塗り替えてしまう魔技』


「――と、なっておる。分かりやすい例を挙げるとすれば、魔術で火を起こす場合は、酸素がなければ発火できん。が、魔法はそんなのお構いなし。ということじゃ」


(なるほど。魔術だけでも十分現実離れしてるってのに、魔法はさらにその上をいく……いや、正確には別の理を新たに創り出すのが魔法ってことか)


 黒斗は胸中でそう呟きながら、エルゲドの言葉を頭の中で整理した。


「しかし、最近は『魔技』なんて言葉は流行らんのう。年寄り扱いされるわい」


 黒斗は内心、『もう年寄りじゃないか』と思ったが、口には出さず黙していた。


 探し物に没頭しているエルゲドの顔は、物影に隠れていて表情は読めない。そろそろ見つけてくれないかと苛立ちを覚えつつも、彼は会話を続けた。


「その流れだと、魔操者も似たようなものか」


「然り。魔操者という枠の中に、魔導士と魔術士がおる。魔術士はその名の通り、魔術しか扱えん。が、魔導士は――まあ、もう分かるじゃろう」


「魔術も魔法も扱えるのが、魔導士ってわけか」


「そういうことじゃ。ちなみに、師匠の『師』がつく魔導師と魔術師もおってな。魔技に関する知識や技術を学問として公に提供できる者には、その称号が与えられる。一応、ワシも魔導師じゃ」


 黒斗はその説明を聞き、何度か頷いた。教員免許のようなものだと理解できる。

 もっとも、こんな地獄耳の教師を前にしては、迂闊にひそひそ話すら交わせないだろうが。


「おお、あったぞ!」


 赤黒い小石を掲げ、エルゲドは満足げに黒斗の正面へ現れた。その飄々とした得意げな態度に、黒斗は思わずジト目を向け、軽く呆れた。


「今からすることは二つある。まずは、お主の【魔脈】を活性化させ、本人の意思で魔力を操れるようにする。そして次に、この記憶石を用いて簡易魔術を習得させる――以上じゃ」


 文脈から察するに、魔脈とはこの世界における気脈や血脈に類するものだろう。門外漢たる黒斗には、まだ分からないことだらけだが、『魔力の通り道』であることは容易に想像できた。


 だが、彼を困惑の深淵に落としていたのは、そんなことではなく――


「以上じゃ――って、ちょっと待ってくれ。魔技ってのはそんな簡単に、一朝一夕で扱えるものなのか」

「まあ、普通そんなことをすれば、死ぬか、四肢のいずれかが麻痺するか――じゃろうな」


 一瞬、言葉を失った。

 冗談めかした口調とは裏腹に、その内容はあまりにも物騒だ。

 黒斗は喉の奥で息を詰まらせながら、老人の手元へ視線を落とす。


「……おい、本当に大丈夫なんだろうな。アンタを信じて」

「何のためにワシらが、汗水たらしてお主を召喚したと思っておるのじゃ」

「確かに。それもそうか」

「案ずるでない。ワシを信じろ」


 だが、話の深刻さとは裏腹に、エルゲドは鼻歌交じりに瓶の液体を揺らしている。

 黒斗の背筋に、言い知れぬ寒気が走った。

 エルゲドは蓋を外すと、魔法陣の四隅に慎重に一滴ずつ落とし、続いて黒斗の足元に記憶石を置いた。その動作は迷いがなく、まるで長年の習慣のように自然だった。


 その所作に、無意識のうちに目が奪われたのも束の間、黒斗は『ある違和感』に気付いた――足が、床に吸い付くようにして動かないのだ。


 見れば、先ほどの雫が一条の線となって、黒斗の足元で結びついている。明らかにあの老獪の仕業であり、彼は目を白黒させながら必死の抵抗を試みた――が、どれだけ踏ん張ろうとも微動だにせず、動けば動くほど自由を奪われる錯覚に襲われた。


「な、なんだこれ!」

「ん? ああそれか。仕方がないじゃろ。作業に支障が出ないようにするための仕様じゃ。ちっとは我慢せい」


 直後、全身に麻酔を打たれたかのように感覚が鈍り、神経がじわりと沈んでいく気分に見舞われた。景色がまどろみ、次第に意識も遠のいていく。


「まあまあ。そう不安そうな顔をするでない。少し〝ズキっ〟と痛む程度じゃろうて」

 エルゲドの言葉は慰めではなく、むしろ不安を煽るものでしかなかった。

 だが、黒斗に反論する体力など、もはやなかった。いやむしろ、直立できているのが不思議なくらい、彼は朧としていた。


「では、始めるぞ」


 エルゲドが怪しげな言葉を唱えると、床に描かれた円が淡く輝き始め、光は瞬く間に強さを増していった。熱を帯び、振動を伴う魔力の奔流に、黒斗の意識は抗えぬまま――


(な!?……っく!……こ、の〝ペテン師〟があぁっ!……)

「がっ!うぐぁあああああ!!!」


 ――真っ暗闇に落っこちた。

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