ケイ-2

 そうして来たる七月二四日の夜に、ケイたちを乗せた飛箒艇は新イタミ空港を発った。セイレムの魔女が乗組員として操舵する空飛ぶ船、飛箒艇は、巨大な箒を束ねたような〈ハリエニシダ機関ブルーム・エンジン〉二基を搭載し、音もなく離陸し夜空を飛翔する。B類やW類といった飛行型の特定神話生物を寄せ付けない結界機構を持ち、魔女戦士ウィッチウォリアーを乗せた駆逐艇に護られる巨船は、かつての旅客機、輸送機に代わって現代の空輸を担う主役となりつつあった。

 一晩かけて太平洋を越えた飛箒艇が、北米大陸上空に入った朝。ウルスラはダイニングで朝食後の紅茶を飲みながら、困っているような怒っているような悲しんでいるような、何だか曰く言い難い顔でタブレットに触れていた。

「何か悩みごと?」向かいの席でコーヒーにミルクを入れつつ、ケイは訊いてみた。「何だか小難しい顔してるけど」

「んー」ウルスラはポンとタブレットを叩くと、諦めたようにテーブルに置いて言った。「いやね、この辺りはエーテルリンクの接続が極端に悪くなるんで、ちょっと落ち着かないんだ」

 エーテルリンク……それはブリタニアの妖精たちが構築した、全世界何処でも情報の疎通が可能となる広大なネットワークシステムのことだ。〈夜明けの風ドーンウィンド〉の運用にも関わるため、新トウキョウ湾での戦いの後に、ケイもウルスラからその概要を聞いていた。エーテル界、と呼ばれるこの世界と重なるもう一つの世界を経由して、超高速でのデータ通信を可能とする。ブリタニアの機密技術の一つだ。

「エーテル界には物理的に遮るものが存在しないから、いつでもどこでも瞬時にデータをやりとりできる……んじゃなかったっけ?」

「まあ大枠はそうなんだけど、例外があってねー」ケイの問いに、ウルスラはタブレットを取り上げると、立体映像の階層レイヤー図をテーブルの上に出力して説明を始めた。「エーテル界は、精霊が行き来する空間でもある。それを利用して光子精霊フォトンにデータを運ばせてるんだけど、そこには別の精霊たちもいる。精霊同士、普通なら互いを害さない限り不干渉を貫くんで何も問題はないんだ。でもね……」

 横のブラインドを上げて、ウルスラは窓の向こうを見遣る。白い雲の下の大地を見透かすように。

「この大陸、この土地に住まう人々と彼らを見守ってきた地霊、精霊たちは、長い長い間、迫害されてきた。欧州の人間たちとその教えによって。だから、なんだろうね。ボクらがエーテルリンクを介してデータの送受信をやろうとすると、この土地の怒れる地霊ゲニウス・ロキが邪魔をするのさ」

 北米大陸の先住民、インディアンと呼ばれた人々は、かつて欧州の国々の侵略に遭いその数を減らしていった。その事実はケイも史学教師の姉から聞いたことがあったし、学校の世界史でも習う。近年はインディアンたちも変化し、発言力を増し、連邦政府と交渉して保留地の自治を取り戻しつつあるということだったけれど。民族が和解の道を探るまでになっても、精霊やらの〈神秘の種族ミスティックレイス〉は早々に変われるわけでもない、ということなんだろうか。

「そろそろアリゾナ辺りかな。この辺りは特に……」

 この土地では、エーテルリンクが恐ろしく不安定になる。そんなウルスラの言葉を聞きながら、ケイも窓の向こうに目を落とした。雲の切れ間に、赤い大地が見え隠れしている。

「ボクもずっと気になってたんだけどさ」ウルスラはテーブルに乗り出すと、じぃーっとケイを見つめて言った。「キミにずっと引っ付いてるそれは何なんだい?」

「あー……」ケイは胸元に目を落とす。椅子の後ろから、ケイの肩から首へと回された少女の腕が、プルプルと小刻みに震えている。「この船、落ちやしないからさ。席について朝ごはん食べたら? メイハ」

「べ、別に、落ちるかどうかなんて、気にしてない」声まで震わせて玖成メイハは言った。色白の肌がいっそう白くなっている。「ただ……そう、ただ、自分以外の力で運ばれるのが、苦手なだけだ」

 ケイの背後に引っ付いたメイハは、震える指でテーブルのワッフルを取って口に運んだ。

「姉さん、昔から高所恐怖症気味ですからね」ケイの左隣の席で、玖成アヤハがティーカップを置いた。前に置いたノート型パソコンの画面には、何やら星図と思しきコードが延々と打ち出されている。「方術甲冑で跳び回るのは平気なのに。変なんですよ」

 御幡家の被後見人にして同居人、玖成メイハとアヤハの姉妹も、ケイとウルスラに同行していた。

「怖いなら、家に残っててもよかったのに」ケイは上向いて、メイハの顔を見上げた。綺麗な細面が、緊張に強張っている。それでも、もくもくとしっかりワッフルを食べているのがちょっと面白い。「八月のお盆までには帰れるんだし。心配いらないよ」

「そんなわけあるか」ケイに回ったメイハの腕に、力が籠った。「あれだぞ。合衆国なんて行ったら、麻薬?とか悪い遊びを覚えたり、銃の乱射に遭ったり、湖の畔のキャンプ場でふしだらなことをするようになる。ワタシは詳しいんだ!」

「するわけないだろそんなこと! メイハは父さんの映画の観過ぎなんだよ!」

「でも兄さん」至極冷静な妹分の声が、激した二人の言葉を遮った。「何と言いましたか、あの先月転校してきた女子。露骨なハニートラップに引っかかりかけましたよね?」

「う……」

 思い当たる節に言葉に詰まるケイに、アヤハは視線も合わせず更なる追撃をかける。

「こんな時期に兄さんのクラスに転校生なんて、露骨過ぎてお笑いにもなりませんよ。波瀬さんにもあんなに注意されてたのに。バカなんですか? うまく偽装してましたけどあの女、あの訛りからすると、恐らく……」

 ケイは不覚の記憶を否応ながらに思い起こす。新トウキョウ湾の騒動も落ち着き始めた先月の中頃、ケイの所属する高等部一年二組に一人の女子が転入してきた。名前は松本リョウカ。父が貿易関係の仕事をしている関係で、短期間、"い区"一般高等学校で学ぶことになった。と、言っていた。背は高くメイハと同じくらいで、髪の長い、何と言うか身体にメリハリのある美人だった。

 御幡ケイがブリタニアの星辰装甲を駆り、〈湖の貴婦人〉と共に戦っていることは、世間一般には知られていない。何くれとなく頼ってくる同クラスの美人に頼まれて、休日に生活用品の買い物に付き合うくらいはしてしまうのは、一般的な男子高校生としては普通の行動ではなかろうか。ケイは胸の内で、やくたいもなく自己弁護する。断じてたわわにゆれるそれに目を奪われたわけではない断じて。

 買い物帰りに彼女と歩いていると、ケイは二人の男に前後から挟まれた。ネリマ市外れの水没区画との境界で、人気ひとけは少ない。何だか嫌な感じだな、とケイが思った瞬間。どこからともなくメイハがすっ飛んで来て男たちが吹き飛んで、水没区画に飛沫を上げていた。続いて護国庁特安部の波瀬さんと那須さんが駆けつけてきて……そこから先はあまり思い出したくなかった。だってしょうがないだろう? まさか自分に外国のスパイが色仕掛けで迫って来るなんて思わないよ。姉さんやらメイハやらウルスラやらに怒られ、呆れられ、説教されるし。ただ意外にも父さんだけは、少しだけ同情してくれた。姉さんは更に怒った。アヤハの「兄さんも、ただの発情したケダモノなんですね」の台詞が一番堪えた。

「そんなわけだ。ケイを一人で異国の地になんぞ送れない」メイハがじっとウルスラを見て言った。「どこぞの悪い女に騙されるに決まってるんだ。母さんにも頼まれてる」

 ここで言う"母さん"はメイハに遺伝子を提供した彼女の実母でなく、ケイの母のことだ。ほんの数年のことだったけれど、メイハとアヤハはケイの母を母と呼んで過ごした。

 母のことを出されると、ケイは何も言えなくなる。

「乳兄妹としての心がけは立派だと思うけどさ」ケイと玖成姉妹のやり取りを、つまらなそうに眺めていたウルスラが口を挟んだ。「ケイにくっついて震えながらだと、様にならないよねー。乳兄妹として」

「う、うるさい! しかしなんだその、チキョーダイとかいうのは?」

 妙に強調された聞き慣れない言葉に、メイハが訊き返す。

「血縁ではないのに、同じ母に育てられた者同士を、そう呼ぶことがあるんです」珍しく、赤い瞳でウルスラを見据えてアヤハが答えた。「ニホンでも欧州でも、王侯貴族や武家にあった関係性です。貴族子弟の乳兄弟の多くは、長じて護衛や忠臣となりました」

「キミら、まさしくそれじゃない」

 玖成姉妹を交互に見てから、ウルスラは紅茶を一口飲んで、カップを置く。

 気のせいか。テーブル上の空気が急に冷えて固まったようにケイには感じられた。空調のせいか、ちょっと寒いような気もする。

「キミらの同行に異存はないんだ」固まった空気を先に破ったのはウルスラだった。「あの戦いで、キミらが果たした役割も小さなものではないからね。招待状も出てる。まあ、あっちに着いたら、ボクも今のようにケイといつも一緒ってわけにはいかなくなるからね。そこんとこよろしく頼むよ」

 長年ともに過ごしたお蔭か。メイハとアヤハが、顔に出さずにイラっとしたのがケイにはわかった。何となく口に出すのが憚られる雰囲気なので、そっとそのまま席を立つ。ちょっとコーヒーを飲み過ぎたのか。トイレに行きたかった。

「何処へ行く?」

 ケイが席を立っても、メイハは離してくれなかった。首に回った腕は相変わらずカタカタと震えている。

「トイレ。だから離してよ」

「いやだ」

 メイハの返事はにべもなく。まあ流石にトイレの中までは来ないだろう。来ないよね? 溜息をつきつつ、ケイはダイニングルームのドアへと向かう。メイハも流石に歩き難かったようで、首から腕を離してくれた。代わりに袖を掴まれる。トイレに向かう短い道中、ケイにはすれ違う他の乗客の視線が痛かった。

 平気で紳士トイレの中にまで来ようとするメイハを、ケイは「女の子がそれは、さすがに母さんも止めると思うよ」と言って聞かせて何とか入口前に押し留めた。ほっとしながら用を足し終え手を洗っていると、鏡越しに、海浜警備隊医官の真科田ヨウスケ先生が並んだのが見えた。

「おはよう御幡君。空の旅はどうだい?」ケイの横で手を洗いながら、真科田医官が訊ねてくる。「もし眠れないとかあれば、気軽に言ってほしいな」

 新トウキョウ湾での戦い後、ケイは週一回のペースで海浜警備隊医官の真科田ヨウスケの元へ通ってカウンセリングを受けていた。何せ不可触領域の最深部、近づく人間全てを狂わせる狂気の発生源の最奥まで到達し、C類起源体ことクトゥルーの〈落とし仔〉を殲滅して帰還した史上初の人間の一人だ。精神に異常をきたしていないか、心的外傷を負っていないか、長期的な影響の確認も踏まえて、カウンセリングを受けるよう海浜警備隊から要請されていた。ケイとしても特に異論はなかったので、一人で、時には父や姉を伴って海浜警備隊のネリマ保安部に通っている。

 カウンセリングと言ってもセラピーや心的問題の解決を目指すものでなく、ほとんどがちょっとしたテストやただの雑談なため、真科田医官とは何となく気やすい関係になっていた。

「おはようございます、真科田先生。昨夜は割と眠れました」ハンカチで手を拭きながら、ケイは鏡に映った真科田医官に答えた。「飛箒艇に乗るなんて一生縁がないと思ってたんで、前の晩は興奮してあまり眠れませんでしたけど」

「いや、恥ずかしながら私もなんだよね」苦笑しながら真科田先生が言った。「今のご時勢、公費でもなければ空の旅なんてとてもとても……」

 特定神話生物がいつなんどき襲い来るかわからない海と空を、安全に航行するためのコストは高く。娯楽として海外へと渡航できるのは、ほんの一部の富裕層に限られている。飛箒艇のチケットなど、おおよそ一般庶民に手が出る金額ではなかった。

「なんかすみません。僕らだけ特等船室スイートなんて」

「重要度から言っても順当だよ。我々はおまけみたいなものさ」

 ブリタニアで開催される世界防蝕会議シドノスへは、新トウキョウ湾の不可触領域再突入作戦に関わった者全員が招待されていた。真科田先生については、不可触領域の接触者が陥るある症状について書いた論文が認められてのことだった。海浜警備隊の伊勢ソウリや、アルビオンのキース隊長率いるカレドヴール隊の面々は、後続の便でブリタニアへ向かう予定になっている。

「特等船室はどうなんだい? やっぱりベッドは大きかったりするのかい?」

「はい。でも柔らかすぎて、却ってなんだか寝心地が……」

 入口の方から、壮年の紳士が歩いてくるのが鏡越しの視界の隅に映る。その見るからに仕立ての良いスーツ姿にケイは、飛箒艇に乗れるのはやっぱりお金持ちなんだなーなどと漠然と思う。特に目を引くことでもないので、ケイも真科田医官との雑談に戻った。

「一般船室は普通のベッドだね。それでも私の自室のものよりは、はるかに質も……」

 唐突に、真科田医官が言葉を止めた。その目が驚愕に大きくなる様を見て、ケイはその視線を辿る。

 先の紳士がおもむろに自身のシャツを指で引き破ると、万年筆と思しきペンを握りしめて自らの胸を刺し、裂いた。

「何を!?」

 叫んで、真科田医官が紳士に駆け寄る。垂れ落ち床を濡らす血を踏んで。慌てて真科田医官に倣うケイの目の前で、紳士は手を止めず更に己が胸を裂く。真科田医官がその万年筆を持つ手首を掴むも、凄まじい膂力で振り回されて、個室トイレのドアに叩きつけられた。

「先生っ!」

 ケイは真科田医官に駆け寄り、その長身を助け起こそうとする。

「私は大丈夫だ。それよりも……」

 よろけながら立ち上がる真科田医官と、それを支えるケイは、目の前の光景に息を呑んだ。

 壮年の紳士は造り物のような虚ろな目で天井を見上げながら、己の胸を手で抉り、ゴキゴキと音を立てて胸骨を割った。その手指の肉が潰れ、ほの白い骨が垣間見える。何語がわからぬ奇怪な音声を血とともに吐き出しながら、紳士のようだったものは太い血管を引きちぎり、いまだ脈打つ己の心臓を捧げ持った。

「まさか」怖気に身を震わせながらも、何かに気づいた真科田医官が言った。「供物化オファードか!?」

 供物化? ケイがその言葉の意味を問う間もなく、流れ落ち床に溜まった鮮血が宙に浮き上がる。血液それ自体が独立した生き物のように蠢きながら、紳士だったものの胸の開口部に吸い込まれた。ぐちゅぐちゅずずるると何かを咀嚼し啜るような音が、紳士だったものの肉体の中から聞こえてくる。

 異音を聞きつけたのか。メイハが血相変えてこちらに駆け込んでくるのが見えた。ケイは腹の底が熱くなり、こみ上げてくる衝動のままに叫んだ。

「来るなっ!」

 メイハが足を止め後ろに跳ね飛ぶ。同時に、紳士だったものの肉体が弾けた。血肉が飛び散り、脂肪と皮が舞う。

 超高速で観る植物の成長映像のように、鋭い鉤爪を先端に持つ長い長い節足が、幾本も枝分かれして生え伸びてゆく。腹から背筋へ駆ける衝動が命じるままに、ケイは真科田医官を引っ張って共に床に這いつくばった。

 キィィィと聴力検査の音声を幾倍にも高くしたような音が、幾重にも重なって鳴り響く。音の苦痛に耳を押さえるケイの視界が"傾いた"。

 何が? 戸惑う間にも、ケイと真科田医官の留まる床はどんどん傾斜を強めてゆく。ケイが立ち上がろうとした時にはもう、背後から押し寄せた寒気と風に、目を開けていることすらできなくなっていた。

「ケイ!」

 名を呼んでくれたのはメイハかはたまたウルスラか。壁面が割れ、半壊した紳士トイレと節足の怪物の姿が、上に向かって見る間に小さくなってゆく。手がかり足がかりの何一つない唐突な浮遊感に、ケイは自分と真科田医官が飛箒艇から放り出されたことを知った。

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