ギャヴ-3
しかし、ギャヴの見上げたオフィスの窓に、明かりの気配は皆無だった。普段ならオフィスのどこかしらかの窓の明かりが、少なくとも倉庫の常駐灯くらいは必ず点いている。今はそれらが一つもない。窓はかすかに、近隣の建物の明かりを鈍く反射するだけだ。
「今は忙しい。話なら夜にしな」
日中、ギャヴはマリー婆さんに電話を入れたものの、あっさり対話を先に伸ばされた。で、日も暮れた19時過ぎに再度電話を入れたものの、今度は空しくコール音が響くだけだった。席を外しているのかと考えて、ギャヴは時間を空けて二度、三度と、固定電話と携帯電話の双方にかけ直した。しかし誰も出ない。マリー婆さんはクソガキもとい孫と二人で、三階建てオフィスの最上階に暮らしている。少々考えにくいが、携帯電話を家に置いたまま、家族二人で出かけているのか。
もう夜だ。面倒だから明日にするか。そんなこと考えながら、ギャヴはポケットの
不意に鳥の、鷹の羽音が聞こえた。
もちろん、このガレージハウスの敷地の中にも外にも鷹などいない。聞こえたような気がした。その程度だ。しかしギャヴは、またか、と思う。ずっと昔から時として、他の誰の耳にも聞こえないこの羽音を聞いてきた。避難民キャンプで暮らした幼い頃、親代わりだった
「鷹は予兆であり、警告だ。耳を澄ませ。注意深くあれ。良き赤き道をゆくならば」
いつになく真剣なジョージの様子に、何だか特別な人間になったような気になって、森や岩場で耳を済ませてみたり、茂みや小川を覗き込んでみたり……子どもなりに注意深く振舞ってみたものの、何か特別なことが起こるわけでもなく。却って注意は散漫になっていただろう。「何もないじゃないか」と文句を言うギャヴに、ジョージは言ったものだ。
「〈
ただ、羽音を聞いた後に、身近に大小の事件が起きたのは事実だった。始めて聞いたあの九歳の夏には、巨大なハリケーンが避難民キャンプに迫り、皆で逃げた。一八歳の夏には、センチネルの
「……クソ!」
経験に裏打ちされた胸騒ぎが止まらない。このままでは気になって、ただでさえ少ない睡眠時間が更に減りそうだ。
ギャヴはテーブルに置いた水陸両用車両のキーを掴むと立ち上がった。ふと、去り際のベルナルド博士の姿が思い浮かび、自室にとって返して、クローゼットにしまい込んだ得物を引っ張り出した。その感触と重さを確かめながら、ギャヴは自身に言い訳する。使うことになるとは思えないが。ジョージは常々言っていたからな。「直観は、より大きな自分からのメッセージだ」と。
MAX&MARIE社のオフィス、一階シャッター脇の扉に鍵はかかっていなかった。
温い夏の風が、潮の匂いと魚臭を運ぶ。この街ではお馴染みの風でありながら、その夜はどこか、傷んだ果実を混ぜたような甘い腐臭が混じっていた。
不快なその臭気に眉根を寄せながら、ギャヴは右手で腰の光線銃を抜きつつ扉を抜けた。一階ガレージの窓から射し込む街灯の光に、光線銃を構成する赤い鉱物がかすかに淡く輝きを返す。階段まで進むも、自身のかすかな足音以外に物音はない。闇に目を慣らしながら階段を上がる。一段踏むごとに、鼻を衝く魚臭が強くなる。
二階、暗いオフィスの窓は開いていて、ブラインドが外からの温い風に揺れていた。魚臭が強いのは風向きのせいか。元々ロブスターを中心に魚介も扱っている会社なので、室内が多少臭うのは不自然でもない。闇慣れた目に、薄暗がりのオフィス内が顕わになる。職員用のデスクと棚と、社長のデスクのパソコンは、特に荒らされた形跡はない。社長デスク奥の金庫は……
薄闇の中でも明らかなその光景を目にして、ギャヴは平静を保つため細く長く息を吐いた。ダイヤル式の金庫の扉はひしゃげ、開け放たれていた。ツールベルトからペンライトを抜き出して、光量を極小に設定し金庫の状態を確認する。めくれ、歪な穴の痕のある金庫の扉。銃痕などの、火器が使われた形跡はない。中にあったのだろう紙幣と各種証券が辺りに飛散し、引き裂かれた帳簿が転がり頁を撒き散らしていた。
現金や金目の物は手付かず。婆さんが特注品だと自慢していた金庫の扉は、古びた壁紙のように引き剥がされている。
引き返すべきだ、とギャヴの心の一部が言った。物盗りではあるのだろうが、ただの物盗りでは在り得ない。魔術的手段で膂力を強化しているのか。あるいは金庫を破壊できる存在を従えているのか。いずれにせよ、今は一般人の自分が関わるべき事柄ではない。が
「……これ以上、夢見の悪くなる材料を増やすのも、な」
放置すれば、不眠で半死人。更に探って"何か"に遭遇したとて、まあいずれ来るべきものが、少々早めに来るだけだろう。ギャヴはペンライトをしまい込むと、足を忍ばせ三階の婆さんの私宅へと向かう。ベルトのポーチから出した遮光シートを光線銃に被せ、薄闇に目立たぬようにしつつ階段を上る。汗ばむ額を左手の甲でぬぐう。空調が停まっているため暑い。魚介の臭気がこもって不快だ。階上からクスクスと、かすかに子どもの忍び笑いのような音が聞こえた。
婆さんの孫のダニーか? ギャヴは判別しようとするも、その音はほんの一瞬で、実際に耳にしたのかも判断に迷う。
三階私宅玄関の扉も、こちらに向かって不自然な角度で開いていた。扉に直接触れず、銃把で引っかけるようにして開けながら、ギャヴは静かに中へと踏み込んだ。センチネル時代、取締りで何度か訪れたため、間取りはおおよそ把握している。フローリングの廊下を進むと、マリー婆さんの"もう一つの仕事場"に出る。簡易ベッドが中央に置かれ、棚と机に干した草や何とも知れぬ骨や木の枝、根、香料入りの蝋燭、オイルの瓶などが所狭しと並べられている。非登録の魔女だったマリー婆さんは、ここで貧しい者たちを相手に、病の治療や妊娠出産にまつわるあれこれの施術を行っていた。一般の医院よりもはるかに格安で。もちろん無免許無届での行為なので、連邦政府魔術行使法に触れる。摘発されれば処罰は免れない。しかし政府の医療体制は現在、全ての国民に過不足なく行き渡っているとはとても言い難く。こうした無届の医療行為も、悪質なものでなければ黙認されているのが現状だった。
施術室の奥のドアを開ければ、マリー婆さんの私室だ。このドアも閉じ切ってはおらず、隙間からかすかな光が覗いている。
ドアの前に立つと、また例のクスクス笑いが耳についた。ギャヴは銃把でドアをゆっくりと引き開け、腰を屈めて滑り込む。
開いた窓にカーテンが揺れ、射し込む街の灯が室内を青白く照らし出す。向かって左奥に押し付けられたデスクの上には、海図と地図が雑に広げられ、水晶の
そしてマリー婆さんがデスクチェアに腰掛け、こちらに背を向け項垂れていた。
婆さんの白髪頭が僅かに揺れる。生きている? ギャヴは光線銃を構えて近づきながら、様子を探った。数秒から数十秒の間隔で、彼女の身体は、ほんの僅かに痙攣するように動いている。ギャヴは婆さんの背後から、その肩に左手をかけ、引いた。
デスクチェアが回転し、マリー婆さんがこちらを向く。血の気の全くない蒼白の顔面に、口が底知れない洞窟のように大きく黒々と開いていた。瞳孔の開き切った目は暗い天井を見つめたまま動かない。
ビクンと婆さんの身体が痙攣する。その瞬間、婆さんの首からその頭上の虚空に向かって、幾本もの赤い半透明の筋が見えた。聞こえてくる、子どものするようなクスクス笑い。痙攣に合わせて、赤い筋の先にある"それ"が徐々にその姿を顕わにした。
血の赤で象られ彩られたゼリー状の体に、垂れ下がる幾本もの触手が老婆の首に刺さり、彼女の生命を啜っている。触手が赤く脈打つ度に、ゼリー状の体が輪郭を濃くし、クスクスとこちらの精神を苛立たせる音を発した。
その姿を認識した瞬間、ギャヴの脳裏で、訓練生時代に叩き込まれた知識が呼び出された。〈星の精〉。深宇宙に棲み、時として魔道士に招喚・使役され人の血を啜る特定神話生物……
機械的に、ギャヴの右腕は虚空に浮く赤いゼリー体に銃口を向けた。〈星の精〉の体から生える大きな鉤爪が、空気を裂いて迫り来る。
遮光シートを振るい落として飛び退きながら、ギャヴはトリガーを引いた。
光線銃の銃口から発射された赤い閃光が、〈星の精〉のゼリー体に至ってその全体を覆う。大鎌のような爪も、赤い閃光が駆け抜けるなり中空で静止した。瞬きにも満たぬ間、赤く染まった半透明のゼリー体と、垂れてうねる触手、鎌のような爪の先までを、赤い閃光が直線と鋭角の緻密な迷路模様を刻んで駆け抜ける。
と見えた瞬間、〈星の精〉は全身に刻まれた赤い光の迷路に呑まれるように、不揃いに崩れ、薄闇の空間から消えていった。
フゥと止めていた息を吐き、ギャヴは机に突っ伏す婆さんに近づいた。生命の欠片でもないかと、皺の寄った首筋に左手を当てる。
「……すまないな、婆さん」ギャヴはマリー婆さんの身体を起こしてやると、まだ動く瞼を下ろしてやった。「祈りの文句の一つも言おうと思うんだが、何に祈ったらいいかわからん」
その時、背後でカタンと音が鳴った。ギャヴが振り向くと、隣の寝室のドアが動いてかすかな隙間を覗かせた。反射的に光線銃の銃口をドアに向け、身構える。
次の瞬間、ドアから飛び出してきたものに向かって、ギャヴはトリガーを……
「ギャっギャギャっ、ギャ……」小さな影が、どもりながら縋りついてきた。「ギャっ、ギャヴ!」
「ダニーか!?」トリガーから指を放し、ギャヴは薄闇に浮かぶ顔を確かめた。大きな丸い目に、くしゃくしゃの黒髪。マリー婆さんの小さな孫の顔は、涙と鼻水でベトベトだ。「何があった?」
「ば、ば……」
ギャヴが問いかけるも、知った顔に安心したのか。しゃくりを上げるダニーの目からは次から次へと涙がこぼれ、なかなか言葉が出てこない。
柄じゃないなと思いつつ、これで多少は落ち着くものならとギャヴはダニーの頭を撫でた。ちくり、と刺す小さな痛みに顔を顰める。目を凝らすと、ダニーの頭を木の枝が巻いているのがわかる。
「婆ちゃん、こ、これを付けて、隠れてろって……」ギャヴの注視を悟ってか。途切れ途切れにダニーは話し出した。「め、面倒なきゃっ、客が来るから……話が、終わるまで、出て、来るなって……」
魔女が「面倒な客」と呼んだ者。ベルナルド博士が求めた「ある物」。状況と情報がギャヴの頭を駆け巡る。二階の婆さん自慢の金庫は開け放たれていた。ならば
涙に濡れるダニーの目が、ギャヴの後ろを指して大きく見開かれた。
「ギャ……!」
ギャヴは振り向き、赤い輝鉱の銃口を向ける。この夏場に厚いコートを着た威容、かろうじて人型めいた巨体が、この私室の入口に立っていた。
こちらに向かってよろけるように、巨体が一歩踏み出す。窓から射し込む街の光が、その横顔を照らし出した。体格に釣り合わぬ大きな眼に瞼はなく、襟から見える頸部は盛り上がった肉の襞を生やし、ぬらぬらと鈍くぬめるような艶を見せる。げくげくと何事か言葉のようなものを太い喉から発すると、それは低く身を屈め、弾かれたようにギャヴたちに向かって跳躍した。
「
吐き棄てながら、ギャヴは光線銃のトリガーを引く。赤い閃光は狙い違わず、ぬめる巨体の喉元に命中。赤い迷宮を刻み付けて、その上半身を消し飛ばした。
光線銃尾部の、残弾ゼロを示す光なき七角形を見ながら、ギャヴの頭は状況の把握のためにフル回転した。水棲人は、特定神話生物C類最上位起源体〈大いなるクトゥルー〉の奉仕種族たる〈
水棲人たちはダゴン教なる教えを信奉し、今なお組織だった破壊活動を行っている。マリー婆さんが持つ"ある物"とやらは、連中にとっても価値あるものだったのか。ギャヴが思考を深める間もなく、また新たな水棲人の巨体が部屋の入口に現れた。更にその奥、階下からも、重く跳ねるような足音が幾つも響いてくる。
拳銃やナイフ程度では、彼らの表皮を貫けない。水中で呼吸可能な鰓と鉄板を穿つ爪を持ち、膂力は人間を遥かに超える。
光線銃はエネルギー切れ。次の使用まで最低でも24時間を要する。呪文の力はとうの昔に燃え尽きた。たった一つだけ対抗手段もないではないが、あまりに心許ない。だから。
ギャヴは小柄なダニーのベルトを引っ掴むと、寝室に飛び込みベッドを駆け越え、光線銃の銃把で窓を叩き割る。
「ギャヴ?」
何がどうなろうとしているのか。困惑の目で見上げてくるダニーに向けて
「お互い運があればまた会おう」
ギャヴは言うなり、ダニーを三階の窓から放り出した。
うびゅあああああああぁぁぁ……と小さくなりゆく幼い悲鳴を余所に、ギャヴは左腰に佩いた短刀の鞘に左手をかけた。2年ぶりに"使う"が、果たして――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます