ギャヴ-3

 水陸両用車フロッグ発動機モーターを止め、ギャヴはMAX&MARIE社のオフィス兼倉庫の前に降り立った。車の後部座席には、人間大の鹿角ウサギジャッカロープのぬいぐるみが座している。その項垂れ、間の抜けた姿に目くばせしてから腕時計を見ると、時刻は20:29。暗い中にポツポツと、港湾地帯に立つ建物の窓の明かりが見える。ニューボストンには東海岸有数の港があり、昼夜を問わず明かりが絶えることはない。

 しかし、ギャヴの見上げたオフィスの窓に、明かりの気配は皆無だった。普段ならオフィスのどこかしらかの窓の明かりが、少なくとも倉庫の常駐灯くらいは必ず点いている。今はそれらが一つもない。窓はかすかに、近隣の建物の明かりを鈍く反射するだけだ。



 「今は忙しい。話なら夜にしな」

 日中、ギャヴはマリー婆さんに電話を入れたものの、あっさり対話を先に伸ばされた。で、日も暮れた19時過ぎに再度電話を入れたものの、今度は空しくコール音が響くだけだった。席を外しているのかと考えて、ギャヴは時間を空けて二度、三度と、固定電話と携帯電話の双方にかけ直した。しかし誰も出ない。マリー婆さんはクソガキもとい孫と二人で、三階建てオフィスの最上階に暮らしている。少々考えにくいが、携帯電話を家に置いたまま、家族二人で出かけているのか。

 もう夜だ。面倒だから明日にするか。そんなこと考えながら、ギャヴはポケットの小水筒スキットルに手を伸ばした。


 不意に鳥の、鷹の羽音が聞こえた。


 もちろん、このガレージハウスの敷地の中にも外にも鷹などいない。聞こえたような気がした。その程度だ。しかしギャヴは、またか、と思う。ずっと昔から時として、他の誰の耳にも聞こえないこの羽音を聞いてきた。避難民キャンプで暮らした幼い頃、親代わりだった精霊話者シャーマンの〈低く飛ぶ梟ローフライングオウル〉ジョージに訊ねると、彼は言った。

「鷹は予兆であり、警告だ。耳を澄ませ。注意深くあれ。良き赤き道をゆくならば」

 いつになく真剣なジョージの様子に、何だか特別な人間になったような気になって、森や岩場で耳を済ませてみたり、茂みや小川を覗き込んでみたり……子どもなりに注意深く振舞ってみたものの、何か特別なことが起こるわけでもなく。却って注意は散漫になっていただろう。「何もないじゃないか」と文句を言うギャヴに、ジョージは言ったものだ。

「〈大いなる精霊グレートスピリット〉の計画は大きく深い、小さき我々が推し測るのは難しい」

 ただ、羽音を聞いた後に、身近に大小の事件が起きたのは事実だった。始めて聞いたあの九歳の夏には、巨大なハリケーンが避難民キャンプに迫り、皆で逃げた。一八歳の夏には、センチネルの対神操具士アームズドライバーの適性検査に落ちた。2年前、スプリングフィールドの作戦に参加する直前にも、ギャヴは確かにあの羽音を聞いた。

「……クソ!」

 経験に裏打ちされた胸騒ぎが止まらない。このままでは気になって、ただでさえ少ない睡眠時間が更に減りそうだ。

 ギャヴはテーブルに置いた水陸両用車両のキーを掴むと立ち上がった。ふと、去り際のベルナルド博士の姿が思い浮かび、自室にとって返して、クローゼットにしまい込んだ得物を引っ張り出した。その感触と重さを確かめながら、ギャヴは自身に言い訳する。使うことになるとは思えないが。ジョージは常々言っていたからな。「直観は、より大きな自分からのメッセージだ」と。



 MAX&MARIE社のオフィス、一階シャッター脇の扉に鍵はかかっていなかった。

 温い夏の風が、潮の匂いと魚臭を運ぶ。この街ではお馴染みの風でありながら、その夜はどこか、傷んだ果実を混ぜたような甘い腐臭が混じっていた。

 不快なその臭気に眉根を寄せながら、ギャヴは右手で腰の光線銃を抜きつつ扉を抜けた。一階ガレージの窓から射し込む街灯の光に、光線銃を構成する赤い鉱物がかすかに淡く輝きを返す。階段まで進むも、自身のかすかな足音以外に物音はない。闇に目を慣らしながら階段を上がる。一段踏むごとに、鼻を衝く魚臭が強くなる。

 二階、暗いオフィスの窓は開いていて、ブラインドが外からの温い風に揺れていた。魚臭が強いのは風向きのせいか。元々ロブスターを中心に魚介も扱っている会社なので、室内が多少臭うのは不自然でもない。闇慣れた目に、薄暗がりのオフィス内が顕わになる。職員用のデスクと棚と、社長のデスクのパソコンは、特に荒らされた形跡はない。社長デスク奥の金庫は……

 薄闇の中でも明らかなその光景を目にして、ギャヴは平静を保つため細く長く息を吐いた。ダイヤル式の金庫の扉はひしゃげ、開け放たれていた。ツールベルトからペンライトを抜き出して、光量を極小に設定し金庫の状態を確認する。めくれ、歪な穴の痕のある金庫の扉。銃痕などの、火器が使われた形跡はない。中にあったのだろう紙幣と各種証券が辺りに飛散し、引き裂かれた帳簿が転がり頁を撒き散らしていた。

 現金や金目の物は手付かず。婆さんが特注品だと自慢していた金庫の扉は、古びた壁紙のように引き剥がされている。

 引き返すべきだ、とギャヴの心の一部が言った。物盗りではあるのだろうが、ただの物盗りでは在り得ない。魔術的手段で膂力を強化しているのか。あるいは金庫を破壊できる存在を従えているのか。いずれにせよ、今は一般人の自分が関わるべき事柄ではない。が

「……これ以上、夢見の悪くなる材料を増やすのも、な」

 放置すれば、不眠で半死人。更に探って"何か"に遭遇したとて、まあいずれ来るべきものが、少々早めに来るだけだろう。ギャヴはペンライトをしまい込むと、足を忍ばせ三階の婆さんの私宅へと向かう。ベルトのポーチから出した遮光シートを光線銃に被せ、薄闇に目立たぬようにしつつ階段を上る。汗ばむ額を左手の甲でぬぐう。空調が停まっているため暑い。魚介の臭気がこもって不快だ。階上からクスクスと、かすかに子どもの忍び笑いのような音が聞こえた。

 婆さんの孫のダニーか? ギャヴは判別しようとするも、その音はほんの一瞬で、実際に耳にしたのかも判断に迷う。

 三階私宅玄関の扉も、こちらに向かって不自然な角度で開いていた。扉に直接触れず、銃把で引っかけるようにして開けながら、ギャヴは静かに中へと踏み込んだ。センチネル時代、取締りで何度か訪れたため、間取りはおおよそ把握している。フローリングの廊下を進むと、マリー婆さんの"もう一つの仕事場"に出る。簡易ベッドが中央に置かれ、棚と机に干した草や何とも知れぬ骨や木の枝、根、香料入りの蝋燭、オイルの瓶などが所狭しと並べられている。非登録の魔女だったマリー婆さんは、ここで貧しい者たちを相手に、病の治療や妊娠出産にまつわるあれこれの施術を行っていた。一般の医院よりもはるかに格安で。もちろん無免許無届での行為なので、連邦政府魔術行使法に触れる。摘発されれば処罰は免れない。しかし政府の医療体制は現在、全ての国民に過不足なく行き渡っているとはとても言い難く。こうした無届の医療行為も、悪質なものでなければ黙認されているのが現状だった。

 施術室の奥のドアを開ければ、マリー婆さんの私室だ。このドアも閉じ切ってはおらず、隙間からかすかな光が覗いている。

 ドアの前に立つと、また例のクスクス笑いが耳についた。ギャヴは銃把でドアをゆっくりと引き開け、腰を屈めて滑り込む。

 開いた窓にカーテンが揺れ、射し込む街の灯が室内を青白く照らし出す。向かって左奥に押し付けられたデスクの上には、海図と地図が雑に広げられ、水晶の振り子ペンデュラムがその上に無造作に転がっている。その横にはヴィジャ・ボードと奇妙に曲がった枝や針金が。これらの器具は、方位占術ダウジングに利用されるものだ。

 そしてマリー婆さんがデスクチェアに腰掛け、こちらに背を向け項垂れていた。

 婆さんの白髪頭が僅かに揺れる。生きている? ギャヴは光線銃を構えて近づきながら、様子を探った。数秒から数十秒の間隔で、彼女の身体は、ほんの僅かに痙攣するように動いている。ギャヴは婆さんの背後から、その肩に左手をかけ、引いた。

 デスクチェアが回転し、マリー婆さんがこちらを向く。血の気の全くない蒼白の顔面に、口が底知れない洞窟のように大きく黒々と開いていた。瞳孔の開き切った目は暗い天井を見つめたまま動かない。

 ビクンと婆さんの身体が痙攣する。その瞬間、婆さんの首からその頭上の虚空に向かって、幾本もの赤い半透明の筋が見えた。聞こえてくる、子どものするようなクスクス笑い。痙攣に合わせて、赤い筋の先にある"それ"が徐々にその姿を顕わにした。

 血の赤で象られ彩られたゼリー状の体に、垂れ下がる幾本もの触手が老婆の首に刺さり、彼女の生命を啜っている。触手が赤く脈打つ度に、ゼリー状の体が輪郭を濃くし、クスクスとこちらの精神を苛立たせる音を発した。

 その姿を認識した瞬間、ギャヴの脳裏で、訓練生時代に叩き込まれた知識が呼び出された。〈星の精〉。深宇宙に棲み、時として魔道士に招喚・使役され人の血を啜る特定神話生物……

 機械的に、ギャヴの右腕は虚空に浮く赤いゼリー体に銃口を向けた。〈星の精〉の体から生える大きな鉤爪が、空気を裂いて迫り来る。

 遮光シートを振るい落として飛び退きながら、ギャヴはトリガーを引いた。

 光線銃の銃口から発射された赤い閃光が、〈星の精〉のゼリー体に至ってその全体を覆う。大鎌のような爪も、赤い閃光が駆け抜けるなり中空で静止した。瞬きにも満たぬ間、赤く染まった半透明のゼリー体と、垂れてうねる触手、鎌のような爪の先までを、赤い閃光が直線と鋭角の緻密な迷路模様を刻んで駆け抜ける。

 と見えた瞬間、〈星の精〉は全身に刻まれた赤い光の迷路に呑まれるように、不揃いに崩れ、薄闇の空間から消えていった。

 フゥと止めていた息を吐き、ギャヴは机に突っ伏す婆さんに近づいた。生命の欠片でもないかと、皺の寄った首筋に左手を当てる。

「……すまないな、婆さん」ギャヴはマリー婆さんの身体を起こしてやると、まだ動く瞼を下ろしてやった。「祈りの文句の一つも言おうと思うんだが、何に祈ったらいいかわからん」

 その時、背後でカタンと音が鳴った。ギャヴが振り向くと、隣の寝室のドアが動いてかすかな隙間を覗かせた。反射的に光線銃の銃口をドアに向け、身構える。

 次の瞬間、ドアから飛び出してきたものに向かって、ギャヴはトリガーを……

「ギャっギャギャっ、ギャ……」小さな影が、どもりながら縋りついてきた。「ギャっ、ギャヴ!」

「ダニーか!?」トリガーから指を放し、ギャヴは薄闇に浮かぶ顔を確かめた。大きな丸い目に、くしゃくしゃの黒髪。マリー婆さんの小さな孫の顔は、涙と鼻水でベトベトだ。「何があった?」

「ば、ば……」

 ギャヴが問いかけるも、知った顔に安心したのか。しゃくりを上げるダニーの目からは次から次へと涙がこぼれ、なかなか言葉が出てこない。

 柄じゃないなと思いつつ、これで多少は落ち着くものならとギャヴはダニーの頭を撫でた。ちくり、と刺す小さな痛みに顔を顰める。目を凝らすと、ダニーの頭を木の枝が巻いているのがわかる。山査子サンザシを使った魔女の技ウィッチクラフト、幼な子を護るカルナの冠だ。この力で〈星の精〉の認知を免れたのだろう。体制嫌いで、ごうつくばりで強欲で、しかし貧しい者へ施し続けた魔女は、幼い孫に山査子の護符を与えて深宇宙の脅威から護ったのか。

「婆ちゃん、こ、これを付けて、隠れてろって……」ギャヴの注視を悟ってか。途切れ途切れにダニーは話し出した。「め、面倒なきゃっ、客が来るから……話が、終わるまで、出て、来るなって……」

 魔女が「面倒な客」と呼んだ者。ベルナルド博士が求めた「ある物」。状況と情報がギャヴの頭を駆け巡る。二階の婆さん自慢の金庫は開け放たれていた。ならば

 涙に濡れるダニーの目が、ギャヴの後ろを指して大きく見開かれた。

「ギャ……!」

 ギャヴは振り向き、赤い輝鉱の銃口を向ける。この夏場に厚いコートを着た威容、かろうじて人型めいた巨体が、この私室の入口に立っていた。

 こちらに向かってよろけるように、巨体が一歩踏み出す。窓から射し込む街の光が、その横顔を照らし出した。体格に釣り合わぬ大きな眼に瞼はなく、襟から見える頸部は盛り上がった肉の襞を生やし、ぬらぬらと鈍くぬめるような艶を見せる。げくげくと何事か言葉のようなものを太い喉から発すると、それは低く身を屈め、弾かれたようにギャヴたちに向かって跳躍した。

水棲人ギルマン!」

 吐き棄てながら、ギャヴは光線銃のトリガーを引く。赤い閃光は狙い違わず、ぬめる巨体の喉元に命中。赤い迷宮を刻み付けて、その上半身を消し飛ばした。

 光線銃尾部の、残弾ゼロを示す光なき七角形を見ながら、ギャヴの頭は状況の把握のためにフル回転した。水棲人は、特定神話生物C類最上位起源体〈大いなるクトゥルー〉の奉仕種族たる〈深きものどもディープワンズ〉が、何らかの手段で人間と交雑した種族だと言われている。〈深きものども〉と人間の交雑など、存在様式の違いから普通に考えれば在り得ない。未だ解明されていない魔術的手段、あるいは想像を超える起源体の力が関与して発生したものだと推測されていた。彼ら水棲人は人間に近い姿を偽装できる者もおり、人間社会に溶け込んで〈深きものども〉の、引いては〈大いなるクトゥルー〉に利する行為、即ち人間社会の破壊活動を行う。そのためセンチネルにおいて、水棲人は無条件制圧対象となっている。

 水棲人たちはダゴン教なる教えを信奉し、今なお組織だった破壊活動を行っている。マリー婆さんが持つ"ある物"とやらは、連中にとっても価値あるものだったのか。ギャヴが思考を深める間もなく、また新たな水棲人の巨体が部屋の入口に現れた。更にその奥、階下からも、重く跳ねるような足音が幾つも響いてくる。

 拳銃やナイフ程度では、彼らの表皮を貫けない。水中で呼吸可能な鰓と鉄板を穿つ爪を持ち、膂力は人間を遥かに超える。

 光線銃はエネルギー切れ。次の使用まで最低でも24時間を要する。呪文の力はとうの昔に燃え尽きた。たった一つだけ対抗手段もないではないが、あまりに心許ない。だから。

 ギャヴは小柄なダニーのベルトを引っ掴むと、寝室に飛び込みベッドを駆け越え、光線銃の銃把で窓を叩き割る。

「ギャヴ?」

 何がどうなろうとしているのか。困惑の目で見上げてくるダニーに向けて

「お互い運があればまた会おう」

 ギャヴは言うなり、ダニーを三階の窓から放り出した。

 うびゅあああああああぁぁぁ……と小さくなりゆく幼い悲鳴を余所に、ギャヴは左腰に佩いた短刀の鞘に左手をかけた。2年ぶりに"使う"が、果たして――

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