ギャヴ-2
センチネルの〈
唱え、狙え、開け。号令の狭間に、ミストレス・グロスマンは呪いのように言葉を染み込ませる。躊躇うな。例え相手が同じ人間であろうとも。訓練課程を終える頃には、二割ほどの特務魔術士候補生が脱落したものの、ギャヴは同期のなかで最も速く、誰よりも正確に標的を撃ち抜けるようになっていた。
そして訓練課程の最終日、最終試験は市街を模した訓練場だった。襲い来る
事前に頭に叩き込んだ地図に従い、茂みから出て多目的カッターでフェンスを切り、施設の敷地に潜入する。制限時間を考えると、残り時間は5分もない。あまりのんびりはしていられない。ギャヴは〈加速〉の呪文で反応速度を上げ、併せて〈強化〉の呪文で筋力と全身の強度を上げて階段を駆け降り、地下室を目指す。扉を開ける度に立ちはだかる人型の
標的を認識するなり、ギャヴの意識と身体は呪文発現装置として機能した。定型化したイメージ喚起によって即座に呪文を完成させ、ギャヴは二点の座標に対して同時に〈混沌の弩〉を開放する。
狙い違わず、二つの射撃塔の上部構造が消し飛んだ。人質の模型は無傷。試験は歴代トップでクリア。試験は。
目の前でバラバラと飛び散る射撃塔の欠片が、赤く粘つく小さな肉塊と骨片に変わった。頬をかすめて跳んだ液体。その温い感触が思考を支配する。これしかなかったという自己弁護と、他にもあったのではないかという懐疑で身体が震える。己の心臓の音が、耳に痛いほどに大きくなる。うるさい。胸の内で弾けそうに高まる内圧に、ギャヴは喘ぐように大きく目と口を開いた。
見開いた目の先で、裂けたカーテンから射し込む光が、罅われた天井に揺れていた。点けっぱなしにしていたTVのブラウン管で、CNNのキャスターが朝のニュースを読み上げている。
昨夜未明、ニューボストン港湾部において……
鈍く疼く頭を振りながら上体を起こすと、ギャヴはベッド脇の置時計を見た。
デジタル表示は10:32。酒の力で、珍しく長い時間眠れたらしい。昨夜はマリー婆さんの仕事を終えてから何をしたんだったか。ギャヴは順を追って記憶を確かめる。婆さんから報酬を受け取ると、フリッツの店でレッドフックのビールを1ケースとジャックオニールの合成ウィスキーを1ダース買い込んで、
ギャヴは昨夜の出来事を思い出す。カモメへの
二日酔いに痛む頭を軽く叩きながら、ギャヴは服を脱いで全裸になるとシャワールームに向かった。湯は出ない。酔い以上に、頬にこびり付く温い何かの感触を洗い流そうと、水のシャワーを浴びた。シャワーを止めて、タオルで頭を拭きながら姿見を見る。鏡に映ったのは、
「……まあ、大して違いもないか」
誰にともなく呟きながら、ギャヴはタオルを羽織ってリビングを抜け、ベランダに出た。三階建て――水没階を含めれば四階建ての最上階からは、海へと続くニューボストンの街並みがよく見えた。半ば海に沈んだ建物の合間を、フロート付きの水陸両用車両が行き交っている。東の湾に向かうボートが、器用に水没ビルの狭間を抜けていく。かつてマサチューセッツ州最大の都市だったボストンは、その45パーセントほどの地域が海の底に沈んだ。今から30年前に発生した海面上昇現象、通称〈大海嘯〉と呼ばれる災厄によって。復興が進んだ今はニューボストンと名を変えている。ギャヴが借りているこのガレージハウスも、貸しオフィスだった建物の海に沈んだ一階を放棄、二階を水陸両用車のガレージに、三、四階を居住用に改装したものだ。
西の方に目を遣れば、午前の陽射しに一際高く聳える尖塔と円柱、円錐から成る巨大機械群が見える。〈
人類には未知の知識と技術で、〈相転換炉〉を始めとする〈
現生人類種の領域を侵害せず、共存と協力を選んだ〈旧き民〉。彼らはその異質さ・異形にも関わらず、この混沌の時代において極めて重要な協力者として、この国に受け入れられ始めている。とは言っても世間で見られるその数は決して多いものでない。研究機関や政府施設で稀に目にされる程度だった。ごく一部の例外を除けば。
『覚醒したのか、友よ』精神感応により音もなく、ギャヴの頭に言葉が流し込まれた。『追加のアルコールはないかね?』
くれてやった瓶をもう空けたのか。ギャヴは溜息をつきながら室内に戻ると、合成ウィスキーの入った箱を開けた。簡素なラベルの貼られた瓶を一本手に取ると、ドアの開きっぱなしになった隣室へと放る。かすかに風を切るような音が鳴り、ウィスキー瓶が何か縄のようなものに巻き取られて消えた。とりあえずアルコールを与えておけば大人しいこの同居人は、"ごく一部の例外"に属する存在だった。ギャヴは隣室で合成ウィスキーを啜る〈旧き民〉について思う。アルコールが切れると、何やら意味不明な"心的騒音"を精神感応で周辺に撒き散らす迷惑極まりないヤツだが、まあ、役には立つ。
下着を履き、シャツを羽織る。褪せたダークグリーンのパンツに足を通しながら、ギャヴは今日の予定を考えた。引き揚げに成功したブツの内容によほど満足したのか、マリー婆さんは既定の報酬の倍を寄越した。滞納分の家賃を払って釣りが出る。さっさと家主のアンドレアを訪ねて払ってしまおう。それから食料を買い込んで……
『友よ』思考を遮り、同居人の言葉が届いた。『現生人類の個体が我らの住居に接近している』
市街からも居住区画からも離れた、こんな場所に用がある者か。ホルスターをチェックしベルトに付けながら、ギャヴは思考を巡らせる。サミュエルは、先週訪ねて来たばかりだからしばらくは来るまい。あいつのいるセンチネルはそれほど暇ではない。
とりあえずは居留守を使うか。ギャヴはシャツに袖を通すと、ホルスターにある光線銃の充填率を確かめた。二発は撃てる。呪文を紡げぬ今、頼りになるのは同居人? の造ったこの銃くらいだ。
TVを消し、光線銃を右手に構えて階下へと降りる。ガレージ兼入口のある一階――元々は二階、のドアの鍵はかかったままだ。小型の水陸両用車の騒々しいスクリュー音が近づいてくる。やがて音が止むと、入口ドア前の浮き板を踏む足音が聞こえてきた。
一人か。しっかりと迷いのないその足音から、ギャヴは健脚の持ち主、恐らくは男と予想する。ここまで明確に存在を主張する以上、刺客や復讐者の類ではないらしい。ドアがノックされた。
が、会うのは面倒だ。誰だか知らないが放っておいてくれ。ギャヴはそのまま居留守を続けることにした。息を潜め、気配を、身体から出る諸情報を極小にして、来訪者が去るのを待つ。潜伏の技術もひと通りは身に着けている。体感で42秒ほど経つと、再び足音が鳴り、一歩ごとに音は小さくなっていった。
スクリュー音が遠くなって消えるのを待って、ギャヴは光線銃をホルスターに収めて階上の部屋に戻った。
ソファの背もたれ越しに、見覚えのある銀髪が見える。
「かつての師の訪問に対して、居留守とは些か失礼ではないかな?」銀髪の老紳士はソファから立ち上がると、ギャヴを見て皺の寄った厳つい笑みを浮かべた。「久しいな、ギャビン・ホーソーン」
「ベルナルド博士……」
老紳士ベルナルド・コーンウェルは、ギャヴがセンチネルの訓練期間を終え、正式に探索者となった頃、技術を学んだ師にして上官だった。
「どうして、何故ここに?」戸惑いながら、ギャヴは言葉を絞り出す。敵ではない。敵ではないが、混乱する。「俺はもう、センチネルを辞めたんですが」
「頼み事があるのだよ、ギャビン。今の君の仕事にも関係することだ」
こちらのことは、とうに調べ尽くした後か。特に隠していたわけではなかった。サミュエル辺りに訊けばすぐに今の俺の居所はわかっただろう。しかし何かがギャヴの気に障った。「呪文も紡げない、
ギャヴは箱からビールの小瓶を手に取ると、ベルナルドの向かいの椅子に腰かけた。栓を抜いて、温くなったビールを呷る。
「スプリングフィールドの事件は、報告書も調査資料も目を通したよ」ギャヴの態度に含むものもなく、ベルナルドは穏やかに言った。「君は決して間違っていない。全知全能の上方世界の存在でもなければ、あれ以上の結果は望めんよ。君の判断と行動は賞賛されこそすれ、非難されるべきではない。……と言っても、君は納得せんのだろうな」
ギャヴは黙ってビールを飲んだ。さっさと追い返したいが、言いくるめるにもニューミスカトニック大学の教授相手に、弁説で勝てるとも思えない。腕づくでとなればなおのこと無理だ。何せ相手は近接戦闘術の師でもある。飽きるまで話させるしかない。
「まあ、今となっては詮方ない事でもあるか」溜息をついたベルナルドの片眼鏡が、鈍く外の光りを反射した。「ここからは純粋にビジネスの話だ、ギャビン。マリー・ノートンとつないでほしい。報酬は弾もう」
瓶を傾けるギャヴの手が止まった。フルネームで言われたので、ギャヴは一瞬、その名が誰を指すのかわからなかった。マリー・ノートンは、昨夜、引き揚げたブツを前に、顔の皺を喜悦に深くしていた婆さん。MAX&MARIE社の社長。今の雇い主だ。
「何でわざわざ俺を通すんです? ここまで来られるなら、あなたが直接出向けばいいでしょうに」
「それをするには、私は些か有名になり過ぎた」さも不本意そうに、ベルナルドは鼻を鳴らした。「センチネルの人間が直接面会を申し入れて、あちらが会う気になるとは思えんよ」
それはそうだろうな、とギャヴは思う。センチネルは無免許での魔術の行使を取り締る側の組織だ。無届で
そんな魔女に、センチネルの重鎮が会う理由は何なのだろう?
「おや、興味が湧いたかね?」ギャヴの表情に何を読み取ったのか。ベルナルドが笑みを浮かべた。「
「呪文を紡げない、精霊の加護もない人間が、探索者なんぞに戻ったところで役には立ちませんよ。それにミストレス・グロスマンの再訓練なんざご免です」
この話はこれで終わり。復職する気はない。言葉と態度で示して、ギャヴはビールを飲み干し瓶をテーブルに置いた。
「気が変わったら、いつでもセンチネル本部を訪ねたまえ。我々は常に人員が足りない」一旦言葉を切ると、ベルナルドは真正面からギャヴを見据え、続けた。「話を戻そう。マリー・ノートンからある物を引き取りたいので、交渉の場を設けてほしい。可能な限り早急に。それが彼女のためでもある。報酬は前金で三千。対面が叶えば、交渉の成否に関係なく五千払おう」
サルベージ屋を営む無届魔女と会わせるだけで、八千ドル。仕事の内容に比して、破格の報酬と言えた。ギャヴは当然のように裏を疑ったが、すぐに考え直した。ベルナルドの人となりについては相応に知っている。大海嘯の遥か以前から、災厄の訪れを察知し、その阻止に動いていた神話人類学者。大海嘯の阻止に失敗した今もなお、第四紀世界と人類の保全のため、センチネルを結成し活動している。人を騙して何かを成すような人物ではない。
金は欲しい。ギャヴはシンプルに考えた。単純に、生きるためには金が要る。半ば終わったような人生だが、ドラマの続きが気になる程度には未練がある。拾ったものの面倒も、まあできる限りは見てやらねばなるまい。
「わかりました」ベルナルドに向かってギャヴは言った。婆さんに電話を一本入れて、ちょっとしたやり取りをするだけで八千ドルだ。沿岸警備隊やセンチネルの連中を相手に探知や攪乱を仕掛けるより、はるかに危険も少なく、実入りもいい。「引き受けますよ」
"ある物"とやらの正体が気にならないでなかったが、ギャヴは訊かないことにした。ベルナルドが話さない以上、こちらには不要な情報なのだろう。そもそも深入りはしたくない。
「助かるよ、ギャビン」ベルナルドは外套の懐に手を入れ、サイン済みの小切手とともに、電話番号を書いたメモを寄越した。「日時が決まり次第、こちらに連絡をくれ。ミセス・ノートンには、そちらの指定した日時と場所に伺う旨を伝えてほしい」
頷いて、ギャヴはメモと小切手を受け取った。
「もう少し話をしたいところだが、お暇させていただこう」ベルナルドがソファから立ち上がる。「これでも忙しい身でね。さっさと現場仕事からは退きたいものだ」
意味ありげな目線を、ギャヴは無視した。
「人類には、まだまだベルナルド博士の力が必要です」
「フン、誉め言葉と受け取っておこうか」ベルナルドは薄く笑むと、外套を整える。腰に佩いたニホンの刀の柄がちらりと見えた。「後ろのご友人にもよろしく伝えてくれ。では」
ギャヴが背後を振り向くと、細長い何かがドアの向こうに引っ込んだ。ソファに目を戻せば、そこは空っぽ。ベランダのカーテンが風に揺れている。
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