第1話 燃え尽きた魔術士、墜落の騎士

ギャヴ-1

 July/25th/2024 United States of Amerigo NEWBOSTON 16:12


 遠く見下ろす海面が盛り上がり、突如、白い飛沫が上がった。一つ、二つ、三つ……曇りがちな灰色の空の下、遅い午後の海を割って姿を現したのは、青黒い両棲類様の怪物だ。大きなもので全長6メートルほどはあるそれらは、大きな顎から涎を滴らせaAaAAhhhHhHrurururRuRURUuと耳障りな咆哮を上げた。怪物たちは各々巨大な身をくねらせ、海を掻き分け西を、ニューボストンの街を目指す。

 ニューボストンで、食い詰めた元センチネル隊員の就ける稼業は多くない。呪文の力を失った"燃え尽きたバーンアウト"特務魔術士ウォーロックとあっては尚更に。ギャビン・ホーソーンは上空のカモメに"乗った"視覚を切り離すと、甲板から船室に向かって怒鳴った。

「マリー! 〈深きものディープワン〉どもが湧き出したぞ!」

「数は?」

 船室の扉を開けて、太った老女が皺の寄った丸い顔を覗かせた。マリー婆さんはこの漁船兼サルベージ船の船長にして魔女、MAX&MARIE社の社長。現在のギャビンの雇い主だ。

「4匹まで見た。さっさとずらかった方がいい。ぐずぐずしてるとセンチネルに捕捉される」

 ギャビンたちが船で留まるこの場所は、ニューボストンの漁業者が操業を許された海域を些か外れている。MAX&MARIE社が本業として登録しているロブスター漁、その就業中との言い訳は通らない。取締りの沿岸警備隊だけが相手なら、酒でも煙草でも引き揚げ物の一部でもくれてやれば、見逃してくれる可能性もある。しかし特定神話生物〈深きもの〉が出れば、その撃退のためにセンチネルが出動する。この国、アメリゴ合衆国USAの神話災害対策機関、センチネルに賄賂は通じない。ギャビン自身、かつてセンチネルにいたからよく知っている。

「まったく、久しぶりの当たりだってえのに」舌打ちしつつ、マリー婆さんが東の空に鋭い眼光を投げた。「ギリギリまで粘るよ。ギャヴ、鳥にはまだ"乗れる"んだろう? 時間を稼ぎな。ギャラは弾むよ!」

 この強欲婆さんは、久しぶりに見つけた沈没船の積み荷を、よほど諦めたくないらしい。この場は船を安全な海域に戻して、センチネルと〈深きものども〉が去ってからまた来れば良いのではないか。ギャヴことギャビンはそう口に出しかけて、止めた。ニューボストンにはMAX&MARIE社のような、漁業者兼違法サルベージ業者はごまんとある。この船、マックスハート号が去った隙に、別業者に積み荷を攫われる可能性は低くない。マリー婆さんは魔女として学んだ方位占術ダウジングの知識で他業者を出し抜いてきたが、昨今のニューボストンでは誰でも容易に魔女や神秘学者の力を借りられる。

 センチネルとのいざこざは、何が何でも避けたい。しかしギャヴの脳裏を、自宅ガレージハウスの滞納した家賃と、居候のことが過ぎった。つい三日前に、大家のアンドレアに最後通牒を突きつけられたばかりだ。後がない。金もない。神話生物と戦う特務魔術士としての力は燃え尽きても、灰には僅かに滓のような燃え残りがある。

「無茶を言ってくれる」

 ぼやきながら、ギャヴは目を閉じ意識を空へと集中する。心の手を伸ばし、中空を舞うカモメの一羽を捉えて内へと乗り込む。感じるのは、海中から現れた脅威から逃れたいという海鳥のシンプルな欲求。その意志の枝を伝って群れの統率者リーダーを捉え、また乗り込む。統率者は群れをニューボストン漁港近くの岸壁へと導こうとしていたが、ギャヴはその意志を捻じ曲げ、群れをより高くへと率いた。カモメの眼を通して、視野を広く取る。旋回。見下ろす先で、マックスハート号の後部、ロブスターの罠籠用に偽装したクレーンが、海中に没したワイヤーを巻き上げている。ワイヤーの先には、MAX&MARIE社の潜水士たちが括り付けたコンテナがある。この船の真下、海中深くには、大海嘯とその余波で沈んだ貨物船があった。

 ギャヴは意識をカモメに乗せて更に上昇。白い泡の尾を引いて、東から迫る〈深きもの〉どもが見える。幸いまだ小さい。マックスハート号を挟んでニューボストンの港側から、沿岸警備隊の巡視艇がこの海域に向かっていた。そしてその前方を、巡視艇を遥かに超える速度で進む巨影がある。海面を割り裂く剣のような背びれ。それが比喩でなく剣としての機能を持つことを、ギャヴは知っている。

 カルロか。ギャヴは束の間、かつての同僚のことを思い起こす。カルロはシャチの精霊に導かれた精霊装者アームドシャーマン。センチネル大西洋方面第一部隊に属する海戦のエースだ。撃破した〈深きもの〉の数は、ギャヴが退職した二年前の時点で100を下らなかった。彼の装う〈盾体シールドボディ〉は、大型の〈深きもの〉のサイズに匹敵する巨大なシャチの姿を象る。

 〈盾体〉、この大陸を守護する大いなる神秘の力が編み上げる形象は、精霊の声を聞いた者たちの中でも、ごく僅かな者しか扱えない。ブリタニアの星辰装甲やニホンの方術甲冑のように、誰でも扱える武装祭器の性質を持たないのが難点だった。が、対神話生物戦闘においては武装祭器以上に多彩な力を発揮しうる。

 カルロについては、まあ問題ないだろう。彼が以前のままであれば、殲滅目標の特定神話生物以外に関心を向けるとは思えない。問題は巡視艇に乗り込んでいるはずのもう一人だ。センチネルの探索者エージェントは、基本的にツーマンセルで行動する。いるのは同じ精霊装者か、あるいは特務魔術士か。

 シャチの巨影はマックスハート号に見向きもせず、一直線に〈深きもの〉どもに迫る。剣のような背びれが海中に消えた。次の瞬間、海面を突き破ってその巨体が宙へ跳んだ。午後の陽射しに、黒曜石片をかき集めたような体躯を煌めかせて。その背びれには〈深きもの〉の一体が串刺しになっていた。

 串刺しになった〈深きもの〉は、〈盾体〉のシャチが海面に没するや否や、黒い塵芥となって消えた。

 〈深きもの〉どもの脅威は、彼が排除してくれる。ギャヴはカモメの統率者を駆り、群れを巡視艇へと向けた。遮るもののない空で、すぐに巡視艇が視界に映る。甲板に立つ制服姿の沿岸警備隊員たちに混じって、独特の幾何学模様のコートを着込んだ女がいた。かつては長かったブルネットの髪に、濃いグリーンの瞳。その整った横顔を、ギャヴは良く知っていた。彼女はアンナ・ウィルキンス。ワタリガラスの精霊装者。センチネルで、最も長く組んだパートナー……だった。

 少し痩せたか。胸の内に湧いたかすかな負い目を、ギャヴは軽く頭を振って払い除けた。俺に心配する資格などない。気を取り直して、カモメの群れを巡視艇へと降下させる。カモメたちを甲板の船員にまとわりつかせ、艦橋の窓へと殺到させて彼ら沿岸警備隊員の視界を阻害する。巡視艇のレーダーや操舵、機関をどうこうできるわけではない。ほんの僅かな間、彼らの意識を逸らせる程度の効果しかなかろうが、今の自分にできる時間稼ぎなどその程度だ。その僅かな間に、コンテナの引き上げが終わることを祈るだけだ。何に祈っているのか、ギャヴ自身わからなかったが。

 視界は巡視艇上空に、耳はマックスハート号の甲板に。幸いというべきか、すぐにマリー婆さんの大声が船室から飛んできた。

「もういいよギャヴ。あんたら、ずらかるよ!」

 MAX&MARIE社の屈強な船員たちが、慣れた手つきで引き揚げたコンテナを船上に固定し、カモフラージュのシートをかけた。

 カモメの統率者から"降りて"感覚を肉体と統合すると、ギャヴは船室へ向けて足を速めた。船室の扉に手をかけ、ふと振り返る。遠く小さな巡視艇から、黒く大きな翼をもつものが、今まさに飛び立たんとしていた。アンナだ。ワタリガラスの〈盾体〉は飛翔を可能とし、また海中や地中深くまでも知覚しうる超感覚を持つ。

 こんな海域で、いったい何を? 元センチネル隊員の性質さがか。ギャヴは一瞬そんなことを思う。しかしすぐに頭を振って船室に飛び込み、扉を閉めて大きく息を吐いた。

 ここにあるのは、呪文を使えぬ燃え尽きた灰。今更だ。

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