三章

何気なく廊下に出たとき、先の方でダンッと音が鳴った。初めて聞こえた自分以外の音だ。その方向に向かって走り出そうとしたら、目の前で音が鳴った。

何かを叩きつけるような音。白い壁には黒い手形が残っていた。墨汁で染めたような真っ黒な色。手の大きさは小さい方で、十ぐらいの子供だろう。

ダダダダッ。続け様に音が鳴った。何十の

手形が壁に続く。形は多少違うが、大きすぎや小さすぎるものもなかった。

その手形を追って歩くと、その角に文字が書いてあった。

『牢獄』

同じく黒い液体だ。字はあまり上手くはない。見様見真似で書いたような不安定さを感じる。

牢獄とはここのことだろうか。確かに私は閉じ込められている。随分と大きいなかなかの待遇だが良いのだろうか。いやそんな冗談を言っている場合ではない。相手の正体は知らないが、このメッセージを見て歓迎されているとは考えにくい。きっと恨まれている。私の忘れた記憶の中に答えはあるだろう。それを思い出せば許されるのだろうか。牢獄から出してくれる日は来るのだろうか。そもそも何が私を閉じ込め、何に恨まれているのか。

分からなかったが、一応進歩ではある。何も起こらないよりは気が紛れる。今は幽霊でもいいから会話がしたかった。


それからふらふらと屋敷のあちらこちらを彷徨ってみたが、成果は上げられなかった。

またいつの間にか寝ていたらしい。もはやここでは寝ていない方が珍しい状態なのではないか。

ぼうっと天井を見つめていたら、突然ぞわりと寒気がした。なのに顔は火照り始めている。じりじりと火を近づけられているかのような不快な熱さを感じる。全身が汗をかいていたが、顔以外は寒かった。汗が冷えて、鳥肌が止まらない。

顔は左を向いていた。障子を眺めている。なぜか動く気になれず、そのままじっとしていた。

ぼわっと障子の向こうで何かが揺れた。大きな影だ。それは段々と濃くなり、こちらへ近づいてくる。

あの小さな手形のようなものとは違う、確実な化け物。心臓がうるさくなり、危険を知らせている。それなのに目が離せない。体も動かない。

なんという大きさだ。障子に収まりきっていない。あんな生き物は見たことがない。

頭には角のようなものが見える。何メートルもありそうな歪んだ角。胴体の部分は大きく、どこまでが体かも分からない。手の先には鋭い爪。這いずるように動いているのか、ゆっくりとそれは進んでいる。濡れた表面なのか、時折ぐちょぐちょとぬめるような音がする。

やがて見えたのは尾だった。根本は太く、胴体と同じぐらい。先の方は細いが、それもまた何メートルもありそうだった。

一体どういう生き物なのか、一通り見ても分からなかった。

――まるで鵺のよう。確か妖怪だったはずだ。体はそれぞれ別の動物の部位を持つ……猿や狸や虎、蛇なんかが混ざり合った化け物と聞いたことがある。

ああ、この屋敷でまた不可思議な現象が起きてしまった。既にうんざりしているが、もしあの化け物がこちらに来たらどうすればよいのだろう。潔くご飯にさせてもらおうか。

はぁと溜め息を吐く。私にこんなものを見せて一体何がしたいのか。罪を犯したのなら、まずその記憶を取り戻すのが一番ではないのか。名前すら思い出せないような状況で、どうすることもできない。こんな化け物を召喚できるような力があるならば、そちらの方が簡単なことではないのか。

試しにそのような事を呟いてみたが、反応はなかった。ここまできて盗聴器だの監視カメラだのがあるとは考えにくい。こんなことができる輩は、もっと特別な方法で自分を監視しているのではないか。

考えても無駄だ。起き上がって、完全に気配が消えた廊下に出る。化け物の痕跡は全くなかった。人間ならば広いが、化け物にとってはちっぽけであろうこの狭さの廊下を無理やり歩いたのだろうか。そう思うと滑稽で笑ってしまった。


時計がなく、起きる時はいつも同じ暗さなので、あれからどのぐらい経ったのかが分からない。印をつけるようなものもなければ、それが残っているという保証もない。

ここまできて不思議なのが、自分の生理現象についてだった。何も摂取していないのに、空腹を感じない。眠気はないが、いつの間にか気を失っている。当然排泄などの行為も必要ない。食べ物でも娯楽でも、何かが欲しいという感情が湧かない。自分はただひたすらにこの屋敷に寝転び、たまに起き上がっては走り回ってみたり、外に出ようとするだけだった。

あれから何度か塀や門登ったりしてみたが、結果は同じだった。雑草を結んでロープにしてみたり、試しに噛んでみたりしたが、何も成果はなかったし、思うところもなかった。別に不味いとは思わないが、食べたい気持ちも湧かない。

何か私は人間以外の生物に変化させられているのではないか。そんな風に思うこともあった。

私を人だと証明してくれるものはこの思考と、水面に映る顔、目に見える手足ぐらいだ。しかしそれを比較する方法もないので、本当に正しいかは分からない。

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