二章
一度玄関まで戻って休むことにした。転ばぬようにと気を遣って歩くのは精神面の方が疲労する。
玄関の中にも特筆すべき点はなかった。もちろん誰の靴も置いていないし、花や飾りの類も一切ない。
家の中はどこまでも薄暗く、広いので廊下の先の方は真っ暗だ。何もないくせに部屋の数だけが多く、どこの扉を開けても同じような部屋ばかり。
腹が立つ。私を馬鹿にしているとしか思えない。こんな嫌がらせをする為にわざわざ……相手はよほど暇人のようだ。殺すならさっさとすればいい。恨みなら直接吐いてくればどうだ。そんなこともしないでこちらにばかり求めるとは、そっちの方が傲慢なのではないか。
まだ復讐や恨みだとかは定かではないが、歓迎されているわけでないことだけは分かる。
身体面の方も疲れたので、何も無い部屋の真ん中に寝転んだ。ぼやりとした明かりに顔を照らされる。蝋燭が一本だけ。いざとなったら燃やしてやろうか。どこかに隠れているなら誘き寄せてやる。
その時を思い描けば、ふっと笑いが溢れた。大丈夫だ、私はまだ負けていない。
いつの間にか寝ていた。暑さに寝苦しくなり起こされたのか、じっとりと全身が濡れている。
頭がぼうっとしていたが、簡単に起き上がれたことに数秒経ってから疑問を抱いた。全身の縄が外されている。誰か私の体に触れたのか。やはりここにいる……私が眠っている間だけ帰ってきているのか。
不快な気分は消えないが、自由にしてくれるなら利用させてもらう。不可思議な体験ももう終わりだ。
意気揚々と玄関を飛び出し、着物を翻しながら門まで走った。崩れるのも気にせず、飛びつくように腕を伸ばす。身長よりも高いが、不可能ではなさそうだ。
何度か繰り返したが、足が地面から外れた頃に力が尽きてすぐに落ちてしまう。何か椅子でもなかっただろうか。少し考えてやめた。あの部屋を一つ一つ回って、あるかも分からないそれを探すのは面倒だ。
足袋を脱いで着物を一枚脱いだ。体を軽くしてから袖を捲ってよじ登る。手汗で滑るが根性で掴み取り、指先が向こう側へ触れた。
最後の力を振り絞り、そこを絶対に離すまいと気合を入れ両手で掴む。鉄で擦れて肌が赤くなっていたが、痛みはあまり感じなかった。一度力を抜いて息を吐く。腕以外を休ませた後、一気に力を込める。
門の上に乗り、ゆっくり向こう側へ降りようかと思ったが、滑ったのか一気に落ちた。
多少体を打っただけだ。これだけならまだ動ける。ぼろぼろに着崩れた着物を少しだけ直し、裸足で歩き出す。
門から一メートルほどだけ石の地面が続いているが、その先は雑草の道になる。裸足だと怪我するかもしれないが、靴などないので仕方ない。
つま先を前に伸ばすと、不愉快な草が足裏をくすぐった。そのまま地面に一歩落とそうとした時だった。景色が突然歪み、体が動かなくなる。
気がついたら、部屋の中へ戻っていた。僅かな明かりが自分を照らしている。一体何が起こったというのか。
私は確実にこの敷地の外へ出たはずだ。しかし戻された。周りには誰もいない。何か説明できない力に引き戻された。
体は先程までと同じだ。鉄に擦れた赤は残っている。足袋も履いていない。
一回ここから出る計画を止め、汗をかいていたのでどこかに風呂でもないかと歩き回ってみる。
襖を二十は開いただろうか。終わりが見えない。そこでおかしさに気がついた。外側から見た時、この家の大きさは確認したはずだ。それなのに、どれだけ歩き回っても終わりが見えない。直進しているはずだが実は僅かに曲がっているのか。いやそんなはずはない。じゃあなぜ……端に辿り着けない。
気味が悪い。この家、この空間はどこかおかしい。
奇怪な話を信じたことはなかった。幽霊だのドッペルゲンガーだの、その手の妄言の類に興味すら持てなかった。
しかしなんだこれは。これが現実だというのか。私は確実に説明つかない妙な場所へと迷い込んでしまった。まさかこの屋敷から出られないのか。屋敷の外側もダメだった。中もおかしい。いつ端に辿り着く。他の部屋はどうなっている。景色が変わらないから分からないが、本当は同じ場所を回っているだけなのかもしれない……。
次は何か印をつけながら歩くとしよう。目に入った蝋燭を取ろうとしたが、手を掠めた。もう一度手を伸ばしたが、取れない。目の前に見えるのに、手は空気を掴んでいるだけだった。
いよいよ自分の目が信用できなくなってきた。一度外へ行き、庭のようなところへ向かう。水の入った壺があったはずだ。
それは昨日と言って良いのか分からないが、全く同じ佇まいをしていた。ピンと張った水面はあまりに揺れないので、これも幻だろうか。
指を一本それに入れると冷たい感触がして、ちゃんと指先を濡らしていた。揺れた水面に映る月が歪んでいる。
少し考えてから着物を一枚脱いで、水の中へ突っ込んだ。ぼたりと重くなった着物を畳の上に置く。部屋が暗いから見辛いが、なんとか色が変わった箇所は分かる。水が乾かないうちに、隣の部屋まで着物の裾を垂らしながら早足で襖を開けた。
それを何度か繰り返し、十番目の部屋に着物を置く。そこから走って、今なぞってきた道を辿った。
指先で確認すると、きちんと畳は湿っている。初めの方は乾き始めていたが、なんとか違いを見つけることができた。
一応ここまでの道が幻術の類でないことにほっとしたが、それだけだった。結局この後も部屋は続くし、状況を打破できるようなものもない。
びしょ濡れの着物を乾かすのは面倒だ。ここから出ようとしたらまた気を失って、その間に乾いているだろうか。
馬鹿なことを考えていると鼻で笑ってしまった。このままここにいたら気がおかしくなりそうだ。
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