第八章『対立』
何時間、こうして目を瞑っているだろうか。
体の節々に感じる痛みも、外部から聞こえる雑音も、僅かに漏れて来る光も、人の往来で生じる微細な振動も。全てを無視する。気にしてはならない。意識した時点で対価としての効力は著しく落ちる。自分がまるで存在していないかのように無意識の空間を漂い続ける。そんな瞑想を可能な限り続けるのが”先見の暗”の対価。
「あっ……!? はぁ、はぁ……」
稀に、呼吸を忘れる瞬間があって軽く咽せ込む。これは瞑想に没入出来ていない悪い証拠だ。必要最低限の呼吸や体勢の調整は無意識に行える必要がある。究極的には、瞑想という形を取らずに無意識に身を任せて生活できる事がベスト。それが叶えば”先見の暗”は永久機関と化して無敵の能力となるだろう。
ただし遠い道のりだ。物事を無意識に任せ、且つ完璧に無駄なく行える能力のことをエルミタージュでは真力と呼ぶ。資料によると、会得する為には個人差はあれど通常数十年の年月を要するとの記述がある。その時間を可能な限り短縮する為にこの学園には真力科が存在している。
だが、真力とそれ以外の異能力を同時に取得するのはそれこそ半世紀もの時間を要するとも言われていて、とても現実的とは言えない。それでも成宮一咲を始めとする数人の生徒はそれを会得している噂があるが。
「……ダメだな、今日は」
その日の瞑想を諦めたところでトン、トン、とノックの音がする。
「ロズだけど。少し話しても良い?」
一瞬だけ返答を考える。彼女に対して桐也が事件やゼラニウムに関して話していないのは、彼女の思想について思うところがあったからであった。
約一ヶ月前。
大会へ向けて互いの能力を高め合う為の修練を繰り返していたある日。
「やるね……」
「柊くんの方こそ……その能力、まだ正体を明かしてくれないの?」
「大会当日までのお楽しみだ」
件の使われていない棟の一室で二人は床に寝そべって一休みしていた。
「もう一つの能力は分からないけど……柊くんは、どうして能力無効化なんて能力を選んだの?」
「そりゃ、前も言った通り。負けない為さ」
「そんなに人に勝つ事が重要なの?」
「そう……だな。ある人に勝つ事が目標だから。その為に必要な能力が”ニュートラル”と、もう一つだっただけの話さ」
「人に勝つことが目標か……そりゃ私にも目標はあるけど。その為だけに能力を作るって、なかなか根性いるよね」
「そうかな。俺は本当に目標にしか興味ないから」
「だってさ。せっかくこんな世界に来たんだよ。色んなことが出来て、色んな人の役に立てる能力が一番幸せになれると思うの。その上で自分の夢も叶える……って、これじゃ欲張り過ぎかな」
「いやいや、この学園に限界なんてない。そういう姿勢の方がエルミタージュには住みやすいと思うよ」
「そう? なら良かった」
一つ溜息を吐いてからロズは立ち上がる。
「私たちって、ズルくないのかな」
「何が?」
「この学園でさ。夢みたいな世界見せられて、それを叶える事が出来て。そんな幸せを、僅か数百人の生徒しか体験できてないんだよ。この世界を外の人々にも共有したいと思わない?」
その思想を聞いて桐也は真っ先にゼラニウムの事に思い至った。自分が超自然の世界を知り、エルミタージュに入学する事になるキッカケ。黒葉の死は正に、超自然的な世界を知ってしまったが故に起こってしまった事件。
感情が顔に出ていないか不安になりつつも、桐也は取り繕って回答をする。
「世界に共有すれば混乱を招く。使い方を誤れば世界を壊しかねないのが魔術や超能力だろ? ゼラニウムがその最たる例だ」
「んーそうなのかなぁ。使い方次第なら、みんなに平等に強い力を共有すれば、きっと平和になると思うんだけど」
誰がどんな思想を持とうがそれは自由だ。ただ、ゼラニウムに関わるとなると桐也は平常心を保つのが難しくなる。
気持ちが乱れる前に桐也は話を変える。
「それよりも、まずは目の前のことさ。大会で優勝したいだろ?」
精一杯の微笑みがロズを納得させられたかは分からなかった。
――そんなやり取りを思い出しながらロズを見る。
何も桐也は、ロズが例の事件の主犯だと考えているわけではない。ただ、その思想からして何者かに唆されて間接的に協力させられているとしてもおかしくはない、とは思っていた。彼女は正義感が強く真面目な性格。それ故に、「世界の為になる」というような言葉の罠にハマりかねないと。
しかし桐也には、友人がもしも取り返しのつかない過ちを犯したとしても、その罪を清算するために協力して行く覚悟があった。それは、友人として過ごした時間が嘘だったとは全く思わないからだ。逆に言えば、それさえもが嘘だと告げられた時に桐也は深く憤る。彼のゼラニウムへの怨恨はそこから来ているのだ。
扉を開けると、目の下にクマを作ったロズがフラフラと部屋に足を踏み入れた。
「おいおい、どうした?」
「え……なにが?」
「何って、凄い青白い顔してるから。体調でも悪いのか?」
「ああ……昨晩はずっとローズ・スペクトルの修行してたから……夢中になると止まらなくって」
彼女らしくないと思った。たかだか三ヶ月の付き合いではあるが、彼女は自分の身を削ってまで努力や趣味に費やす人ではない。寧ろ効率的な時間の使い方や質を高める方法を見出すことに重きを置いていることは、普段の雑談から察することが出来た。
「あまり無理は良くない……って、俺は人のこと言えないんだけどな」
「桐也くんの対価って瞑想だったよね。もしかして邪魔しちゃった?」
「いや、本当に効果のある瞑想が行えていたらノックなんて耳に入らないからな。丁度集中出来なくてやめようとしてた所だったんたよ」
「なら良かった」
意外にも遠慮なく部屋に入ったロズに、桐也は要件を尋ねる。
「それで?独りで寂しいから来たって訳じゃないんだろ」
「ああ、うん。でも……それに近いかも。相談したいことがあって」
「聞くよ」
「躑躅とさ……喧嘩しちゃったんだ」
それは初耳だった。躑躅の口からは少なくとも聞いていない。
「躑躅は謝ってくれたし、私も許したから解決なんだけど。それでもちょっとモヤモヤが残ってて。桐也くんならどう思うか聞きたかったの」
「……どっちが悪いか、みたいな話か?」
「いや、そうじゃなくて……ただ分からなくて困惑してて。喧嘩の原因は躑躅の態度の事なんだけどね」
「まあ、人当たりの良い方ではないよな」
苦笑いでそう言うと、ロズも少し微笑んで返す。
「私も躑躅がそういう人だって分かってるのに、自分勝手だって言い過ぎちゃった。普段の生活じゃ躑躅は寧ろ凄く謙虚なのにね」
「へえ。でも、それなら何が分からないって言うんだ?」
「葉団扇くんとの関係だよ。そもそもその話から躑躅の態度の話に発展したの。私は、躑躅も葉団扇くんも心配。無茶し過ぎて大怪我したりとか、もしかしたら命を落とすことだって有り得るっていつも不安になる」
「実際、水瀬さんの自殺未遂の時は二人とも命懸けで助けようとしてたしな」
「それで大会でぶつかり合って葉団扇くんは左手に障害が残るような怪我までした。それって、本当に二人が望んでることなのかなって。私にはそれが理解できなくて、頭がぐちゃぐちゃになって、怒っちゃった」
「俺だって、理解できてるわけじゃないさ。あの二人……特に絆は、常に自分の意思を最優先に考えてる。やりたい事は必ず成し遂げる。そういう力を持ってるから、俺は絆を尊敬してるんだ」
「でもそれって、とても怖い事だよ。取り返しのつかないことになったらどうするの?」
「そういうブレーキが掛かるのは自然な事なんだよ。でも、俺のしたい事は怖がってたら成し遂げられない。だから絆と一緒にいることで影響を少しでも受けたいんだ」
「……やっぱり私には、とても分からない世界だな」
「分かる必要があるのか?人は人、自分は自分じゃないか。悪い意味じゃない」
「そうだね。桐也くんのお陰で、私も自分に多少自信が持てた気がするもん」
やはり彼女は良き友人だ。だからこそ、慎重に接して行かなければならない。もしも過去の犠牲者のように”法の支配”による契約を結ばされていたのなら、事件の話を匂わせる事そのものが危険であると考えるべきだろう。
――同時刻。生徒会。
暖かな微睡みの中に、成宮一咲はいた。
「一咲」
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。これは自分を憎む声か。それとも蔑む声か。
過去の幾つもの出来事が頭に渦巻いて離れない。血みどろの腕、死屍累々の教室、崩落した学園の姿――。
「
「う……」
眩い後光が作り出す輪郭は、一咲がよく知っている人物。
「プリムラ……」
全体の髪色は明るい水色だが、そこから天使の輪のように円形に伸びた白い髪が特徴的だ。顔の造形は完全な左右対称。白く透き通り潤いのある柔らかそうな肌。
「大丈夫だよ。貴方も私も、ここにいる」
「うん……ありがと」
じわりと掻いた汗をハンカチでふき取ってから、深呼吸を何度か繰り返す。
「まだ影響は続いてるんだね」
「ええ……そう簡単に浄化はされないよ。プリムラの方こそ、能力の影響で後数ヶ月は現れないと思ってたんだけど」
「私も意外だった。でも、こればっかりは正確に予測がつく物じゃないから」
「そうね……それで、現出してくれて早々で悪いんだけど。また協力して欲しいことがあるの」
「良いよ。その為に私はここにいる」
「ごめんね。えっと……記憶を送信した方が早いな。ちょっと待ってね」
これまで脈拍を整える為に行なっていた深呼吸に比べ、より深く息を吸い込む。すると、一咲の眉間の位置が青々と光り出す。
静かに、その光の粒子がプリムラの顔の方へと風に乗るように流れていった。
「何度見ても綺麗」
「プリムラに言われても、褒められてる気にならないんだけど」
「本心だよ。私には私の、貴方には貴方の美しさがあるんだから」
全ての青い粒子が吸収され切ると、プリムラは哀しげに眉間にしわを寄せた。
「ああ……その時間に居合わせられなかったのが悔しい。私の能力なら、防げたかも知れないのに」
「でも、過ぎたことは仕方ない。プリムラの責任でもないしね」
「ええ。だからこそ、捜査には全力で協力する」
「ありがとう」
少し黙り込んで考え事をしてから、プリムラは尋ねる。
「ねえ、一咲が目を付けてる四人の内、夏休み中も寮にいるのは誰か分かる?」
「えっと……確実なのは柊くん。シドウェルさんももしかしたら」
「分かった。ありがとう」
彼女は背を向けて静かに生徒会室の扉から出て行った。
一咲が気兼ねなく話せる知人はほんの僅か。その中でもプリムラは世界で最愛の人であり、一咲の宝物だった。
「それじゃ、また……」
雑談を終えて部屋に戻ろうと扉を開けたロズ。廊下に見知らぬ女性が歩いていることが気にかかったが、自分には関係ないと思いそのまま立ち去った。
その女性はそのまま桐也の部屋の扉を叩いた。
一瞬、ロズが戻って来たのかと思い急いで扉を開けた桐也。予想外の人影が見えたことに少しだけ目を見開く。
「……何か、御用ですか?」
「初めまして。”秘密基地”メンバーのプリムラ……と言えば分かって貰えるかな」
桐也は未だに、学園のトップに座している者たちを信頼していない節があった。
「その”秘密基地”が、新入生に何の御用ですか?」
今回の事件に彼女らが関わっているとは流石に考えないが、この強大なオーラを以ってしてもゼラニウムといたちごっこを繰り返すばかりというのに違和感があったからだ。
「そう睨まないで欲しいな。個人的な興味があって来たの。凄い能力を持っているそうだから。二人でお茶でもしない?」
桐也はプリムラから視線を外さずに頷いた。
「まず一つ……失礼を承知で確認しておきたい事があります」
カフェテリアの座席に座るなり桐也が口を開いた。
「“秘密基地”にはゼラニウムを逮捕する任務があるとお聞きしています。ですが、難航しているとも耳にしました。それだけ強い力がありながら、なぜ追い詰める事が出来ないんですか」
「ふふ、それは耳が痛くなる質問だね」
柔和で穏やかな微笑み。周囲まで幸福が伝わって来そうなその表情を見ながらも、桐也は警戒を緩めない。
「素直に、それは私たちの落ち度です。ごめんなさい。ただし、少しだけ勘違いして欲しくない点があるの」
「はい」
「私たちは、まだまだ弱い」
「そんな……そんなはずがない! 俺はエナジートランスじゃないですけど、貴方が強大なオーラを持っていることは肌に伝わって来ます」
「莫大なオーラを持っているのは本当だよ。全員それに足る才能もあったし努力もしたから当然だ。でも全員、戦うために鍛えたわけじゃないの」
「あ……」
「目標が違えば伸びる能力もバラバラ。結果的に今の”秘密基地”には戦闘向きの能力者が少ないの。辛うじて戦えるのが私と萌音くらいだけど、二人とも時期によって戦えない場合がある」
根本的に動機が異なっている。そんな単純な事に桐也はようやく気づき、頭を抱えたくなる。
「では……もしも最初から、ゼラニウムを倒すつもりで能力を育てて……さらにもしも、”秘密基地”の皆さんのようなオーラを手に入れたとしたら。彼らを打倒出来ると思いますか?」
「それは、君自身のことを言っているの?」
「いや……」
「聞いた限りの貴方の能力から推察するに、強敵相手でも絶対に負けないことに拘っているように感じる。でもね、それが目指す場所だとしたら奴らには勝てない……私はそう思う」
それを目標に据えてはいけない。ならば自分は今後何を指標に強さを求めればいいのか。
「大丈夫だよ。貴方には
「……はい。俺もそう思ってはいます」
「希望を与えるとすれば。戦闘面で世界最強なのは、間違いなく彼の姉の葉団扇
「そうなんですか……?」
学園について十分に調べたつもりの桐也だったが、それは初めて聞く話だった。
「では、その人にゼラニウムの逮捕を任せることは出来ないんですか?」
「そうしたい所だけど、奴らは集団行動が主だから流石に一人じゃ勝ち目がない。かと言って私たちが一緒に行くと、能力が干渉しあって結果的に戦力が落ちるの」
「なるほど……」
「でもね。葉団扇絆くんと蘧麦躑躅さん。それにさっき私と擦れ違ったロズ・シドウェルさん……そして貴方。目的がどうあれ全員戦闘に向いてる。順当に修行を続ければゼラニウムに勝つこともあると思う」
「俺たちが……」
桐也は少しばかり考える。ロズに対する疑いについて、彼女に話してしまっても良い物だろうかと。
「何か気になる事があるなら、遠慮なく言っていいよ。私の事を信用できないのは何となく想像付くけど……友人に話しづらい悩みだってあると思うから」
自分の心中を正確に言い当てられたことにより、逆に桐也はプリムラに対し一定の信頼感を覚えた。
「先ほど話に上がったロズについてなんです……僕が思うに、彼女の能力や思想は禁術を使う人々やゼラニウムに近いものがある。今回の事件に直接関わっていなくても……何かに利用されている、もしくはこれから利用されてしまう恐れがあると考えています」
「私も同意見だったから、あえて貴方だけに話しかけたんだ」
「やっぱり……じゃあ、何か対策が?」
「今はまだない……私には、ごく簡単に言えば『真実を知ることのできる出来る能力』があるのだけど。それには精度の限界や使い所の問題があるし……本人に直接質問をしてその真偽を確かめるという方法じゃ、”法の支配”に抵触する恐れがある」
「そうですよね……俺も、それが気になっているせいで、彼女のことを迂闊に信用できないんです。友達なのに」
「その為にも、やはり貴方の力が必要なんだ。協力してくれる意思があるのは既に聞いているけど、改めてこの私からお願いしたい。この事件の解決に手を貸してほしい」
まるでアンドロイドのように端整で透き通った右手が桐也の前に差し出された。もう桐也に迷いはなかった。
「こちらこそお願いします。事件を、一刻も早く解決しましょう」
機械のようだと思ったが、触れてみると強い体温を感じる。奇妙な印象のこのプリムラという人を今は信頼してみようと思った。
そんなやり取りに、唐突な横槍が入った。
「これはこれはお熱いカップルさん、ご注文はいかがなさいますか~?」
茶髪で肩までの内巻きヘアの店員が、意地悪な笑いを浮かべていた。大きなクーラーボックスのような箱を持ち歩いているのが気になる。
「いや、俺たちはそんな関係じゃ……」
その店員の態度に、プリムラが静かに反論する。
「あのさ、ここカフェテリアだし、ウェイターなんていないでしょ」
「あ、バレた? いやー久々にプリムラの顔見てつい嬉しくなっちゃって」
「普通に話しかけてくれれば良いの」
意外にも、彼女はプリムラの知人のようだ。桐也が少し戸惑っているとプリムラの方から口を開いた。
「紹介する。この子はジャスミン。私と腐れ縁でね……」
「大親友と言ってよね! 私の影響で似た能力まで作っちゃうんだから」
「アレはただヒントを得ただけで……」
これまで手の届かない場所にいるような気がしていたプリムラも、十分に人間らしい部分があることがよく分かる。
「お腹は空いてる?」
「え? ああ、そうですね……そろそろお昼ですし」
「じゃあこちらをどうぞ!」
クーラーボックスのような箱から取り出された皿には、調理されたばかりの熱々のハンバーグが乗っていた。
「お飲み物はこちらですね!」
並々に注がれたアイスカフェオレが机に置かれた。
どちらも桐也の大好物であり、まさに今この場で食べたいと感じるメニューだった。
「これは……」
ジャスミンは楽しそうに笑っている。プリムラは諦めたような呆れたような微妙な表情のまま説明する。
「ジャスミンの能力はね、『カクテルパーティ』って言って……人の望んでる料理を一瞬で作る能力なの」
「えっ!? それって、物質を生成してるって事ですか?」
「ふふ、ジャスミンのはそうじゃない。しっかり学園の冷蔵庫に保管されてる食材が消費されるよ。でも調理する手間も腕前も必要なくて、その人が食べたい最適な味を提供する」
そんな能力、想像もしなかった。しかし日常の中で非常に役に立つ能力であり、こういった方向性も異能の力の目指すべき場所の一つなのだろう。
「そして私の『カクテルパーティ』をパクったのがプリムラの能力なんだ〜」
「人聞き悪いこと言わないでよー」
まだまだ上がある。そう感じるばかり。目の前のプリムラは底が知れないし、ジャスミンもまた自分とは全く違う道を極めた者だ。
「俺……まだまだ強くなりたい。どうすればお二人のような、力を手に入れることが出来るんでしょうか」
プリムラは桐也の表情を見定めるように黙っていた。ジャスミンも愛らしい笑みのまま沈黙している。
「だったら、私が直々に稽古をつけようか」
「えっ……ホントですか?」
「ただし厳しい道のりになるよ。命懸け……とまでは言わないけど。人権を尊重できないかも。人間らしさを棄てた先にいるのが、私達だから」
「それでも……俺はやり遂げなきゃならないから。お願いします、力を貸してください」
「良い顔だね。一咲にそっくり」
生徒会長の立ち居振る舞いを見ていれば分かる。確かに自らの生など既に興味がないかのような姿勢。その覚悟が必要なのだろう。
当初、成宮一咲に警戒心を抱いていた桐也だったが、今は羨望さえ感じていた。
プリムラは校舎裏の森まで桐也を連れて来た。
「まずは今の貴方の能力の限界を調べなきゃならないね。”ニュートラル”の方から試させてもらうよ」
「はい」
プリムラは深く息を吐いて目を瞑る。するとほんのりと白い光が彼女の身体に纏わりつくのが確認できた。
「それ、変身ですか……?」
「え? いや違う違う。これはただオーラを解放しただけ。確かに私は変身できるけど、それは代償が大きいから極力避けたいの」
「でも、俺はエナジートランスじゃないのに……プリムラさんのオーラが見える」
「オーラが濃いと常人にも見えるの」
なんて事だ。桐也はスケール感を勘違いしていた。これは、掌に収まると思っていた球体が実は遥か遠くに浮かぶ太陽だったというような錯覚だった。
しかしこちらにはニュートラルがある。この能力は魔術か超能力かに問わず発動する。どんな大きな実力差でも埋める為の能力だ。
プリムラはスーパースローカメラで撮影した映像のようにゆったりと拳を近づけて来た。その動きに少しだけ当惑していた桐也にプリムラが忠告する。
「そんなに無防備じゃ、死んじゃうよ」
「えっ?」
瞬きの後。桐也は激しく揺さぶられる感覚だけを覚えた。眼前の景色が揺れ動いていることに思考が追いつかない。一体何が起こったのか。
「大丈夫?」
「え……何が起こって……」
自分が地べたに倒れている事だけはようやく認識できた桐也だったが、そうなった経緯が理解できなかった。
「簡単に言えばね、貴方の”ニュートラル”はまだまだ不完全ってことだ。完成度で言えば30%くらいかな」
「そんな……でも確かに、プリムラさんの攻撃が俺に当たった。一体どうなって」
「いわば今の貴方は投げられた石を棒立ちで受け止めようとしたみたいなものなんだ。目に見えないオーラなら空気みたいなものだから貴方の能力によって勝手に流れ去って行ってくれる。でも私のオーラはちゃんと見えるでしょ。貴方の確率操作じゃ上書きし切れないほどの情報量がここに詰まってるの」
「そんな……」
愕然とした。ニュートラルは確かに自分の意識がない時や瞑想中などは発動しないし、全くの認識外から加えられた情報の書き換え等も例外に含まれる。だが今は集中して彼女のオーラを打ち消すつもりでいたのに、それが叶わなかった。
「まずこれが現状。貴方では、ゼラニウムのように人間を棄てた連中には絶対に敵わない」
「そういう……ことですね。でも、まだ”先見の暗”があります」
「それって発動時間は良くて一分くらいでしょう?一分で敵を仕留められると本当に思う?」
「それは……」
「まあ、自由に時間軸に留まっていられない私が言うのもオカシイけど……能力に制限時間があるのはナンセンス」
時間軸に留まっていられないという言葉に耳を疑ったが、桐也は一先ず無視する。今はプリムラよりも自分のことに集中すべきと感じた。
「だから貴方がまず克服すべきは二つ。”ニュートラル”は根本的に仕組みを変え、あらゆる異能を分解できる能力に改善する。そして”先見の暗”の時間制限をなくす為、対価を変更する。制限時間があるのは対価も時間に依存しているから。そうでしょ?」
「しかし、そんなことが本当に可能なんでしょうか?」
「不可能ね」
冷たく突き放すような言葉。しかしすぐに柔和な笑みを取り戻す。
「でも、この学園だって本来不可能な物で出来ている。現実を棄てる覚悟のあった者だけがエルミタージュに入学している。今度も同じこと……有り得ないことを成し遂げたいのなら、再び何かを棄て去る覚悟が必要。現実から既に脱却しているというなら、今度は人間という形そのものから離れなきゃならない。だから忠告したの。今ならやめられるけど?」
「いえ……答えは決まっています。やらせてください」
掌が痛む程に、拳を強く握りしめた。
8月2日。
その日は絆の誕生日だった。丁度良い機会ということで、
桜木町駅前に降り立った絆。横浜の街並みも、もう以前とは違ったものに見える。自分はもうこの世界の住人とは違うということを悲しくも思い、誇りにも思う。どちらの生き方が正解かどうかは誰にも決められない。
「お待たせ、絆」
「久しぶりー躑躅!」
遠慮なく抱き着いて来る絆をユックリと引き剥がしながら躑躅は頬を赤らめる。
「……あんまり外でベタベタしないでよね、恥ずかしいじゃん」
「そうかなぁ。友達同士なんだから、久しぶりに会ったら嬉しいのは当たり前じゃん!」
「ともだっ……絆にとってはそういう認識か……うん、まあ分かってはいたけどさ」
ぼそぼそと呟いた躑躅の言葉を聞き逃した絆は純朴に「何か言った?」と聞き返す。
「何でもない。それより、今日は本当に散歩するだけで良いの? 私は構わないけど、絆はもっとカラオケとか映画とか行きたいのかと思ってたよ」
「今の僕らがみなとみらいの風景を見て回るだけでも、昔とは違った気持ちになれると思うんだ。それって何だか、良いなって思って!」
「へえ……うん、確かにね。私も家に帰ってみて実感したよ。私たちが如何に現実離れしちゃったのかってこと」
「でしょ。だから一緒に歩こうよ! 能力のお陰で、二人とも体力は凄く付いたしね!」
「分かった」
絆が嬉しそうにスキップを始めた所で躑躅は思い出す。
「あっ……そうだ、誕生日おめでとう」
「わあ、そうだった! ありがとう躑躅! これからも宜しくね~!」
「急だったからプレゼントとか用意できなかったけど……今度会う時、何か持ってくるよ」
「ほんと? 嬉しいなっ!」
見れば見るほどに無垢で愛おしい。当初から桐也やロズが絆を評価していた理由を今さらになって実感し、そして躑躅は傲慢に自分こそが絆の魅力を最も理解できているとも考えていた。そう思わせてくれるような力も含め、絆の本質なのだ。
「動く歩道、通ろうよ!」
「うん……」
何だか照れ臭くなってしまう。躑躅にとって、これは初めての思い人とのデートとも言える。桐也やロズに彼を取られてしまう前に、自分にだけ意識を向けさせることが肝要だ。
「ねえねえ、なんで桐也とロズは呼ばなかったの?」
「んっ!? い、いやあの……」
それを尋ねるとは、本当に絆は今日の趣旨を理解していないらしい。
「私は……今日は絆とだけゆっくり話したかったの」
「なんだか怒ってない?」
「怒ってる」
「えぇ!? そういう時は大抵怒ってないって返すものじゃないの?」
「だって怒ってるんだもん」
「僕……なんかしたかなぁ」
本気で落ち込んでいるので躑躅は少しだけ慌てて訂正する。
「……いや、ごめん。私の自分勝手な思いだから。気にしないで」
「そう? ほんとに?」
「うん。絆は何も悪くないよ。前と一緒」
「そっか、よかった! じゃあもっと楽しいお話しよっか!」
彼が他人の言葉を疑わないのは何故だろうと、たまに疑問に思う。現に今躑躅は僅かに嘘を吐いていて、それに絆は勘付いていない。しかしもしもそれがバレたところで絆は特に怒ったりはしないだろうという強い確信があった。
今は考えても仕方がない。気になることを話題に出す。
「それにしても……少し驚きなのは、街行く人のオーラだよ」
「どういうこと?」
「意外と魔術師や超能力者が歩いてる。数十人に一人くらいはいるかな」
「そうなんだ!僕たちだけじゃないんだねぇ」
「超自然理論を教える学校は他にもいくつかあるし……独学で手に入れてる人も中にはいる。世界的に見ると案外珍しくないのかもね」
オーラの量も十人十色で、まだ新入生の自分たちと比べても小さい者、すれ違うと干渉しそうな量の一際巨大なオーラを発しながら歩いている者まで様々だ。
しかし、それ一つで能力の熟練度は測れない。筋トレが趣味で逞しい肉体を手に入れたとして、途端にスポーツが出来るかと言われればそれは別の問題だ。それと同じことで、精神エネルギーをあくまで趣味として高めようとする人々もいるのだろう。
生活が少なからず豊かになることは確かだ。
「この調子なら、ゼラニウムの誰かとすれ違っても気づけないかもね」
「ああ、そう言えばこの辺で最近よく目撃されてるって噂だっけ?」
「元々ほとんどのメンバーはエルミタージュ出身だしね、神奈川のどっかに潜んでるんじゃないかって言われてる」
「もし会っちゃったらどうすれば良いのかな?」
「流石に敵う相手じゃないだろうから、向かって行くのは自殺行為だと思うけど……私たちなら牽制して逃げ切るくらいの事は出来るんじゃない?」
「僕たち大会の優勝者だもんね、そんなに心配しなくても大丈夫か!さて、それじゃまずは買い物かな」
まずはショッピングモールを巡ることとなった。躑躅にとって意外だったのは、絆はファッションに興味があるらしいということだった。確かに躑躅が制服で来ている反面、絆は私服だった。薄手の半そでパーカーに七分丈のパンツを合わせた少年らしいスタイルである。
「ねえねえ躑躅、僕ってどんな服着たら可愛いかなぁ?」
「あっ、絆は自分でも可愛らしさを追求してるわけね」
「だって昔から、可愛いって褒められたもん。そう言われるのも好きだし……」
気質を自覚して、尚且つそれを受け入れて自分に取り込んでいく強かさ。これが彼の危うい魅力である。下手をすれば自身の理想とのギャップに思い悩み苦しむ所を、自然に利用して自分のパーソナリティの一部にさえしてしまう。ともすれば狡猾とも言える彼の性格を躑躅は改めて認識する。
一時間ほどのウィンドウショッピングの末、躑躅が絆に着せたいアイテムばかりを選ばされた絆。その後はみなとみらい方面へと歩いていき赤レンガ倉庫を見て回ったり、山下公園で散歩をしてから中華街で遅めの昼食にすることにした。
注文を済ませて席で待つ間、躑躅は緊張したような面持ちで窓の外を眺めていた。
「お腹空いた~」
「……」
表情に気づいた絆はすぐに尋ねる。
「どうしたの、躑躅?」
「ああいや、なんでもないよ……」
あまり見慣れない表情だった。今日はかなり機嫌が良い方だと思っていたが、何か不満な事でもあるのかと絆は不安になる。
沈黙を怖がっていたタイミングで料理が運ばれてきた。
「と、とにかく食べよ! わあ美味しそー!」
「……絆、ちょっと良い?」
「えっ!? う、うん……」
何を言われるのか心配になり鼓動が早くなるが、躑躅の口から出たのは意外な言葉だった。
「多分私たち、見られてる」
「見られてる?」
「どこかしらから強烈で薄気味悪い視線を感じて……さっきから震えが止まらないの」
「僕には分からない。躑躅がエナジートランスだから?」
「……そうだね。精神エネルギーは可能性の波だから、視線の向いてる方向には微量ずつ飛んで行くことが多いの」
バッと振り向いて躑躅は視線を窓の外に向けた。瞳と脳を増強する事で、視力が上がる。その上で視線の方向に強いオーラを飛ばしてみる。
「方向が掴めないな……オーラが飛んで来てるのはやっぱり確かだと思うんだけど」
料理などに目もくれず窓に張り付いて様子を窺っている躑躅。
そんな彼女の姿を何となく見つめながら黙々と食事をしていた絆だが、躑躅の肩が唐突にビクンと震えたことに驚いて絆もガタッと椅子を動かしてしまう。
躑躅は青白い顔をして振り向いた。
「ヤバイ……絆、逃げよう!」
「ど、どうして?」
「あのオーラ、気持ち悪過ぎる……ここにいたくないの……!」
店を出るべく慌てて絆の手を引っ張ろうとする躑躅。
「待って待って、僕は精算だけしちゃうからさ……気分が悪いなら先に外に出てて」
「う、うん……分かった」
気分が悪いという次元の問題ではない。身の危険を感じた。一刻も早く、絆と一緒にここを立ち去らなければ命を落としてしまうかのような莫大な不安。
階段を降りて人々が行き交う道路の空気を吸う。先の不快なオーラは今はもう感じない。
「躑躅お待たせ……大丈夫?」
「う、うん……何とか。今はあのオーラも感じない」
「そっか、よかった。オーラを常に感じるなんて僕には想像できない状況だから、ツラかったら言ってね?」
「そう、だね……ありがとう」
こんな時、絆の優しさが心の芯に響く。彼に出会った当初は、自他の区別が付かない傲慢で幼稚な人間だと思い込んでいた。ただ、今にして思えば最初の「笑おうよ!」という言葉は感極まった勢いの余り出てしまった言葉なのであって、その後の彼の言動を見ていると個人を個人として評価している事はよく理解できた。
「どこかで休む?山下公園に戻るか、駅の方に行くかでも良いけど……」
「とりあえず駅に向かおう……早くこの場所から離れたいの」
焦っている躑躅は初めて見る気がする。右手で軽く頭を抑えながらフラフラと歩き出した躑躅を支えようと、絆が後ろから手を伸ばす。
そして足を一歩踏み込んだ瞬間――泥沼に沈み込んだような不快感が全身を襲った。もちろん中華街のど真ん中、道路はコンクリートで出来ていて足はちゃんと地面を踏みしめている。
異常事態である事は即座に理解できた。見える範囲の色と音、そして生命が消え去ったように見えた。白黒の静寂の世界で光や声を失っていないのは絆と躑躅だけ。
「こ、これは……」
フラフラと後退りする躑躅の背中を絆が支える。
「絆、どうすれば……」
「きっと誰かがコンプライアンスみたいな術で僕たちだけを閉じ込めたんだよ。何か条件を満たせば出られるかもしれない!」
――条件は私と会話する事。ただそれだけだ。
「「!?」」
どこからか声が響き、二人はキョロキョロと周囲を見渡す。
「僕たちに何の用ですか!?姿を見せて下さい!」
――おっと、これは済まない。
その声と共に、躑躅から数メートル前方の空間が歪み、そこから闇が生まれる。闇は霧状に拡散してから徐々に凝縮していき、人間を形作って行く。
紫色の髪。鼻筋が長く凛々しい顔立ち。そして開いた瞳の色は、左右で異なっていた。
「えっ……?」
白黒の世界の中で際立つその色彩に、絆は見覚えがあった。
「ベロニカ……」
「え?絆、今なんて……」
「ベロニカ・リベットだよ、この人……間違いない、ニュースで見た顔とそっくりなんだ」
躑躅は絶句した。そう言われて思い出した彼女の顔と、眼前の女性の顔は見事に一致する。
《御名答。私はベロニカ・リベット。ゼラニウム序列第二位の魔術師》
纏わりつく恐怖の中で、目の前の女の尊大な態度を僅かなキッカケとして勇気を振り絞る。
「そ……」
唇が震えて上手く言葉が出ない。
「……そんな奴が、一体私たちに何の用!?」
《私は一定以上のオーラを内在する者を感知できる結界を張っていたの。この横浜市中区を範囲としてね》
そんな事が果たして可能なのか、躑躅は疑問視する。それだけ広い範囲に能力を適用するということは、オーラをその大きさまで均等に広げなければならないはず。躑躅がオーラを薄く広げても精々十数メートルの範囲にしかならない。この区を包み込むとすれば、直径6キロメートルは下らない大きさになる。
それとも、何か抜け道があるのだろうか。
《君たち、エルミタージュに入学してまだ半年も経ってないのに、よくそこまで強くなった。感心するよ……》
「お前なんかに褒められても嬉しくないよ!」
絆は果敢に言葉で抵抗する。
《君のお姉さんは、本当に強かった》
「えっ……」
《だから君も強くなると信じてた。まさかこんなに早く、偶然にも街中で出逢う事になるとは思わなかったけれど。これも運命なのかな》
目の前の人影がフワッと霧に消えた。姿が消えた事に一瞬だけ緊張が解けてしまったが、絆は次の瞬間にそれを後悔した。
「あガッ……!?」
ベロニカの拳が絆の腹を貫通して背中から突き出た。
《これが私が君のお姉さんから受けた痛みだ。そっくりそのまま、君にお返しするよ》
臓物を捏ね回されるような感覚と共に、自身が背後に吹き飛ばされた事に気づく。
「き、絆……!?」
《心配しなくてもお友達は無事だよ。この領域で受けたダメージは単なる幻だ。最もショックで死んでしまう奴もいるけれど、彼なら問題ないよ》
そんな言葉を理解できるほど冷静ではなかった。ボロ切れのようになった絆がピクピクと痙攣している姿を見て、感情の沸騰を抑えられるはずもなかった。
「うわあぁぁあああ!!!」
涙を流しながらの、絆との試合を彷彿とさせる我武者羅な突撃。何者も彼女の進行を妨げ得ないという気迫をベロニカは感じ取った。
――でも私は、何者でもないから。
「はぁッ……!?」
躑躅は大会で戦った禁術使いの擬宝珠聖也のオーラを、炎のように繊細に流れる煙だとイメージした。それが禁術のオーラの特徴なのだろう。超能力は燃え上がる炎、魔術は纏わりつく煙幕の形。
ところが躑躅の決死の進撃は、上記のいずれにも当てはまらない、”何者でもない”オーラによってピタリと静止させられた。
「えっ……えぇ!?」
例えるならば、それは粘性の高い液体。
それが能力により作り出した現象でない事は、エナジートランスである躑躅の瞳には明瞭に映る。これは現実の光景ではなく現象の存在確率に過ぎない。それは理解できる。それなのにクリームに手を突っ込んだような感触を錯覚する程のリアリティ。
《絆くんに似た美しいオーラだ。鍛錬を続けなさい。必ず道が拓けるから》
「うわぁああ!?」
ベロニカ自身は静止したまま、オーラが躑躅の身体を吹き飛ばした。絆が倒れている丁度背後の壁に躑躅も打ち付けられる。
躑躅は大きく投げ飛ばされただけで、ダメージはない。深刻な怪我をしているのは絆の方だ。
あの大会で自分が傷つけた左腕なんかとは比べ物にならない程に、胴体がグチャグチャに破壊されていた。血の赤色に塗れているせいで、ボロボロになった服と剥がれた皮膚や肉片の区別すら付かない。
辛うじて顔は原型を留めているのが救いだった。
「ぁ……くか……」
言葉を発しているつもりもないのだろう。呼吸や痙攣の結果として誘発した声帯の振動。躑躅はあまりに痛々しい絆の姿に絶句する事しか出来ない。
ベロニカの言っていたことが本当なのか、疑問が付き纏う。もしもこの領域から抜け出した後でも絆の状態が戻らなかったら。そう考えるだけで、息が出来なくなる程の大きな不安が襲う。
大粒の涙を流して泣き崩れている躑躅の前に、ふわっと黒煙が出現しベロニカの姿を作る。
もう驚いたり警戒する気力も残っていない。
《蘧麦躑躅、君に伝言を頼みたい》
「……なに」
《私たちの計画は最終フェイズに入る。邪魔をするなら今後はエルミタージュの生徒であろうと問答無用で命を奪う。この私の決意を、成宮一咲に伝えてくれないか?》
「……」
《目の前の友人が気になって頭に入らないか。まあ、思い出したら言っておいてくれ。将来有望な君たちに会えて嬉しかったよ》
そう言って再び黒い煙となって姿が消えた。そして何もかもが静止していたように見えた世界が徐々に動きを取り戻していく。絆や躑躅はここに足を踏み入れる直前の状態に戻され、周囲の人々もいつの間にやら普段通りに行き交う現実の世界に帰還していた。
躑躅はすぐに振り返り、絆の無事を確認した。
想像より顔色は良い。しかしどこか違和感がある。絆は、躑躅の見た事のない毒々しい表情を浮かべて拳を握りしめていた。
「この痛み……絶対に返してやる!」
それは、彼が初めて本気で心の底から叫んだ怒りだった。
酷く脈打つような偏頭痛。
この症状は成宮一咲にとっては「予感」そのものだった。良いか悪いかは別として、何か大きな変化が訪れる前触れ。
絆から緊急で連絡を貰う直前にその頭痛が起こった。一咲はこの頭痛を能力だと考えてはいないのだが、それなりに信用できる予兆であるのは確かだ。自分が持つオーラは非常に特殊である為に空間や時間的に離れた場所の事象にさえ反応してしまうのだと推測している。
「はぁ……」
ベロニカが横浜に現れた翌日も、一咲の頭痛は止まない。これは、変化はまだこれからだと言う事に他ならないだろう。早急に手を打たなければ最悪の事態を招きかねない。一咲が数年前に経験したとある事件がフラッシュバックしていた。
「会長!」
ノックもせず、乱暴に扉を開けて入って来た絆。躑躅も同行しているようだ。
「昨日も話しましたけど、あの!ベロニカ・リベットが!」
「分かってる、落ち着いて」
「は、はい……でも僕、アイツの事許せなくて……絶対に借りを返さなきゃいけないので!」
「情報を整理しないと対策も打てないよ。まずは二人の体験した事を、なるべく自然に語ってみて」
絆を少し後ろに下がらせてから躑躅が発言する。
「全体の概要は私が話します……」
恐ろしく生気がないように見える。確かに絆と躑躅は普段から対照性が著しいペアではあるが、より一層感情の方向が遠くなっているように一咲は感じた。
躑躅による状況の説明と絆が受けた屈辱についての感想を一通り聞き終えた一咲は、二人の瞳を交互に見つめながら語り始める。
「タイミングは偶然だけど、出会った事自体は必然って口ぶりだね。縁がベロニカに痛手を負わせた事があるとは聞いていたけど……学園の生徒に危害を加えるような奴だとは思ってなかった。正直、油断していた」
すると三回のノックの後に生徒会室の扉が開き桐也が現れる。
「はぁ、はぁ……会長、ベロニカは危険な奴だ……早急に対策を打たなければ――」
「落ち着いて。奴らが学園に直接攻め込んで来るとでも思ってる? そんなメリットはないよ。もし本当にそんな事が起きても、こちらは物量で圧倒的に勝ってる。そんなに焦る事はないの」
「そ、そうか……そうですよね」
「君はどうやらベロニカの事を知っていて恨んでいるようだけど、くれぐれも先走った行動は避けて。ベロニカは『敵対するようなら容赦しない』と言ったんだ。絆や躑躅を無事に返している以上、能動的にこちらに危害を加えようとする意思はないと見受けられる。極力関わらないようにする事が一番の対策だよ」
桐也が考えていたのは、彼がプリムラから稽古を受けたように、絆や躑躅を始めとする才能ある者たちを限界まで育てて打倒ゼラニウムに備えるという事だった。しかし頭が少し冷えた今考えてみると、生半可な覚悟では命をも落としかねないあの修行を無事突破できる生徒がそう多くいるとは思えないのだ。桐也のように戦う理由がある生徒はそれほど多くない。
「とにかく問題はない。引き続きゼラニウムへの対処は秘密基地の仕事だ。もしも学園の外でメンバーと遭遇……いえ、大きなオーラを感じ取ったら、秘密基地の誰かにすぐ連絡して。すぐに駆け付ける」
ベロニカは横浜市中区を領域指定しオーラで人間を選別していた。そして彼女らの達成したい計画とは何か。
「会長……ゼラニウムは、一体何をしようとしているんでしょうか」
「憶測の域は出ないけど……強い資質を持つ者を探していたという事は、新たに加え入れる仲間か、もしくは禁術のための生贄に利用するつもりなのかも。奴らの最終目的は、人類を新たな”フェイズ”に進化させる事だから……。その準備段階として組織の規模を大きくしているのかも知れない」
ゼラニウムは元々は単なる思想家の集まりで、だからこそベロニカはメディアに露出してまで布教活動を欠かさなかった。あのような凄惨なテロの後でも相当数の信者がいるのが実状だ。超常的な力を持たずとも、ゼラニウムを崇め奉れば幸福が齎される。それは超自然的な世界に住む者たちが天界の力を借りるのと丁度似た構図だ。ゼラニウムは現世の中で神になり、平等な幸福を分け与えようとしているのだ。
信ずる者が一定数いるからこそ、そうでない者は淘汰もしくは矯正する必要がある。圧倒的な力を見せつけて強制的に現実を呑み込ませるか、邪魔者として排除するか。いずれにせよ、それを可能にする為の措置なのであろう事は桐也には予想できた。
今でも忘れられない、数年前に見たベロニカの表情。まだ幼い黒葉が常識を歪められ自ら犠牲になろうとした事を、彼女は恍惚とした瞳で見つめていた。思い出す毎に頭に血が上り、冷静さを欠いてしまいそうになる。
ただ――後から思い返して少しだけ気になっていた事があった。黒葉が対価として消費された瞬間、その場にいたのはベロニカだけではなかった。背後で静かに、そして哀しげな表情を浮かべていたもう一人の少女がいた事。桐也はその少女と会話も交わしたが、最後には気にもとめず逃げ出した。彼女もまた被害者であろう事は明白に思え、桐也は後悔の念を抱いている。紅葉のような橙色の髪と瞳の色は、今でも鮮明に瞳に焼き付いていた。
桐也が生徒会室に慌てて入室するのを見て薄螺戯楓は溜息を吐く。紅葉しかけの黄色のような髪と瞳。
――彼は私の事を知らない。いや、正確には先日顔を会わせて会話をしているから知っている事にはなるのだろう。だが、本来の私とは違う。
楓は、彼がこの世界に足を踏み入れてしまった事を残念に思い、同時に嬉しく思う。
自分は曖昧な存在だ。自分が何の為にこの場所に立っているのか、正確には分からない。相反する両義的な感情が常日頃隣にあって、対立する二つの思想の間を渡り歩いている。両者を欺き続けながら。
学園の校舎の廊下を眺めながら、彼女は同時にみなとみらいの景色を見つめていた。横浜外国人墓地周辺の住宅街に位置する民家の中にも同時に彼女は存在している。
そちらでは名を揺女姫紅葉と名乗っており、容姿も異なる。橙色をベースとした配色と、楓より幼く見える顔立ち。
背後から扉の開く音がして、静かに振り返る。
「あれー? 一番乗りかと思ったのに」
飾り気のない素朴な少女が呑気に呟いた。
「久しぶり、リナリア」
「ベロニカはしばらく身を隠すんだってさ。エルミタージュの生徒に手出したりするからややこしい事になるんだよ、全く」
そう。ここはゼラニウムの隠れ家。楓――紅葉はゼラニウムの幹部メンバーの一人、序列にして第三位である。
目の前の少女はゼラニウム序列第七位のリナリアという。
「葉団扇縁の弟さん……だっけ?」
「そうそう。ベロニカが恨むのは分からなくもないけどね、奴はゼラニウムの一員として生きていける資質もあると私は前々から思っているんだよ」
「確かにね……」
「大体ベロニカはいつも偉そうなんだよ。アイツが序列二位だからって身勝手に動いていいわけじゃないってのに、『実質的なリーダーは私』みたいな顔をいつもする。バカみたい」
「はは……言えてるかも」
それでもリナリアや紅葉は、他でもないベロニカの指令でこの場所へ赴いた。
「しかしまあ、遂にこの時が来たって感じだね。たくさんの人が死んで、そして同時に救済される。私たちの目指していた世界そのものが目前だ」
「だね」
リナリアの嬉々とした表情から目を背ける。
「なに? なんだか気乗りしなさそうな顔してんね」
「それは……」
「分かった、エルミタージュと敵対するのが怖いんでしょ。アンタも友達がいるって言ってたもんね」
紅葉は、自分の特異な能力の事をメンバーに正確に伝えてはいない。どんな傷も忽ちに完治したり好きな場所に転移したり、より都合のいい現実に変更したりする不思議な能力として認知されている。しかし実際は違う。紅葉は楓であり楓は紅葉。彼女は二通りの人生を常に生きており、常に自分が好ましいと思う身体の状態をもう一方にも適用出来る。さらに言えば彼女は任意で世界を二つに分岐させて望ましい結果を掴み取る事も出来る。
そんな希少な能力を持っていたから、彼女はエルミタージュとゼラニウム、そのどちらにも所属し続けている。人格は一つ。しかし彼女の叶えたい願いは一つに絞り切れない。
「リナリアは、怖くないの? 友達と敵対するのが」
「怖くないよ。寧ろワクワクしてる。プリムラが私を見たとき、どんな顔をするのかね」
再び玄関から物音がしてゾロゾロと三人のメンバーが入室する。
先頭にいるのは真っ青なロングコートの上にフードまで被り、前髪で顔のほとんど見えない人物――序列第五位のガーベラである。
後ろに続くのは、大きめの懐中時計をネックレスとして身に付けている事が特徴の序列第四位、不知火アザミ。
そしてその後ろから顔を覗かせるのは、白と黒のチェック柄のワンピースとチェス盤を象った小さな髪飾りが印象的なチェスナット・マロン・フロワサール。序列は第六位である。
「わあ二人とも来てる!元気だった?」
ガーベラは包み隠された容姿とは裏腹に非常に解放的で明るい性格をしている。
「私や紅葉は能力的に体調を崩す事なんて有り得ないよ。アンタだってそうでしょ」
「あ、そっかぁ!あはは!」
「全く……ほんと、脳味噌お花畑ってこの事ね」
二人の絡みは日常的な物で、特に気にせずアザミとチェスナットの二人は空いていたソファに腰を下ろした。
「二人も、久しぶり……」
紅葉はこの二人が少々苦手である。何を考えているのか分からない事が多い。特にチェスナットは無口で且つ協調性がなく、メンバーから信頼されていない節がある。
リナリアはすぐにそれについて言及した。
「にしてもさあ、チェスナットが来るなんて珍しくて天変地異が起こりそうだ」
「天変地異は、私たちが引き起こすんだよ」
少し高めのか細い声で答えるチェスナット。チェス盤を取り出してクイーンを一気に敵陣に攻め込ませている。
態度に苛ついたリナリアは顔を背ける。
「……ふん、減らず口も相変わらずだ。アタシは未だにアンタのこと、メンバーだって認めてないから。序列がどうだろうと私の方が先輩で権限は上だって事忘れるな」
「忘れてない。ベロニカの命令だから」
「そうじゃない、私が命令してんだ」
リナリアの身体から湧き上がるようにオーラが滲み出て来る。それを感知したチェスナットも掌にオーラを集中し始め、能力使用の準備段階に入る。
紅葉はまるで大地が震えているような感覚に襲われる。
「二人、やめて」
静止の言葉を放ったのは隣に座るアザミだった。
「それ以上続けたら”巻き戻す”よ」
「……ああ、分かったよアザミ。潜伏場所がバレたらめんどいからね」
序列に関係なく、アザミはその能力と性格ゆえ強く恐れられている。
吐き捨てるように言葉を返したリナリアは気分を切り替えて全員に問いかける。
「で?一位と零位のお偉いさん方はどこなの?」
問いに対する解答を持つのはガーベラだけだった。
「二人はお仕事中だよ!」
前髪に隠れて目から上は見えないが、確かにそれは満面の笑みだった。それが何を意味しているのか、紅葉には理解ができてしまって身震いした。
――コツ、コツ。
小汚く、しかし無機質な倉庫に足音が一つ。
「虚。”ハラワタ”の様子はどう?」
少女。美麗で繊細であり、清楚で愛らしく気品があり同時に妖艶な風貌。他者から見た彼女はそう映る。
「三人とも落ち着いてる。素質アリかも」
答えた方の人物は少年。美しい少女のようだと揶揄される事もあるほどの美形。ただしその瞳には光が灯っていないようにも見える。
「それは良かった。今から実験を始める」
隔離された個室の鍵を開き、彼女が一人で部屋に入る。
椅子に座らされ縛られている三人。8歳の少年と21歳の青年女性、そして35歳の男性である。
「初めまして。私は、ゼラニウム序列第1位の神徒椿と申します。以後お見知り置きを」
三人の”ハラワタ”は全員が全員冷静に彼女の瞳を睨みつけていた。
「そして、これまで皆様のお世話を担当したのが第零位の蓼藍虚。あの子の事も、よく記憶に刻んでおいてね」
椿は言葉を発する毎に一歩、また一歩と近づいて行く。
「これから貴方たちに、進化を促す施術をする。可能性全てを引き出す為の措置だ。幸運な貴方たちは、私たちと同じ新たな人類の仲間入りだ」
彼女の物言いに、8歳の少年が反論する。
「僕たちはそんな事望んでない……望まない人々に無理矢理それを押し付けるのは悪い事だ!それに……ゼラニウムは何百人も殺した! そんな奴らに従う気はない」
「亡くなった人々は救済された。魂は可能性となって実在するし、それは死後違う形となり世界に残留し続ける。本人の意に最も沿う形でね」
「本人たちが望んでいたのは、生きる事だ……世界に貢献する為に生きるわけじゃない!」
「本当にそうかな。君も進化をすれば、考えが変わるかも知れない。試してみる事に価値はあると思うの」
「うっ……!」
少年の頭に椿の右手が触れる。彼は強気で冷静だが、抵抗する手段は持ち併せていない。
「――イデア、解放」
椿の言葉と共に少年の体が燃え上がった。実際に発火している訳ではない為それは正確な表現ではないが、爆発的なエネルギーの放出がある事は隣に座る二人にも伝わった。
「ウッ……ァ、ア……」
少年は意識を伴っているように見えるが、複雑な表情をして弱々しい声が漏れているだけだった。
「驚くべき感覚でしょ。苦痛と快楽、そしてそれを抑制する身体機能。全てが同時に最大効率で働き続けているような状態になる」
細かに痙攣しているのが見受けられるが、少年のエネルギーは益々膨張して行く。そして部屋を包み込むほどの領域まで広がった時、ようやくその現象は収まった。
「はぁ、はぁ……」
息切れこそしている物の、大きな疲労は見受けられない。
「やっぱり貴方には才能があった。きっと凄い能力を使えるはずだよ」
「能力……?」
「さあ念じて……貴方のやりたい事を」
少年は目を瞑る。自分の欲求が何か、思い出す。
――目の前の女を殺して無事脱出する事だ!
それを念じた瞬間、彼の背中から美しき銀翼が生えた。同時に椅子や縛っていた縄が容易く破壊される。翼から舞い散る羽根の一枚一枚は鋭利な刃物で構成されていた。
「行け――『天使の刃』」
彼は非常に冷淡な表情で右手で椿を指差す。同時に舞い散っていた羽根が椿へ一直線に向かっていった。
鼻先まで迫った刃物の先端を見つめながら微動だにしない椿。そして彼女の身体に無数の刃が突き刺さるとその場の誰もが信じた瞬間、想定もしていない現象が起こる。
刃物は、彼女の体表面の僅か数センチ手前で全て本物の白い羽根に変化し彼女の周りを優雅に浮遊した。現実離れした美しい光景に、”ハラワタ”の三人は思わず見惚れてしまった。
「素晴らしいよ! 君は天使の型を習得した……間違いない、”精髄”だ」
椿はいつの間にか掌に小さな球体を持っていた。放心した少年の頭に椿が球体を翳すと、彼の体は砂のように崩れ落ちていった。
残り二人の”ハラワタ”は、ここでようやく恐怖に顔を歪めた。
「さて……次も、面白い光景を見せてくれるよね?」
その美しき微笑みに、邪気はなかった。
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