第52話 消えるはずの私が見た夢だったから…




 玄関の扉を閉めたとたん、私の足に力が入らなくなった。


「ひな、しっかりしろ」


「だ、大丈夫だよ……」


 心配してしゃがみこんでくれた剛さんに、私はすがり付いた。


「もう大丈夫だ。落ち着くんだ」


「恐かった……。またされちゃうって……」


 私は押さえきれなくなって、剛さんに抱かれたまま泣いた。


 あの冬の夜、ボロボロになって帰ってきた私を見て、お母さんは私を救急車で病院に連れていってくれた。


 手当をしてもらって、家に帰りついたのは、もう夜中だった。


 怖くて、切なくて、悔しくて、悲しくて……。私は一晩中泣くことしかできなかった。


 だから、お母さんは私に彼氏を作るようには一度も言わなかった。


 数年後にはこの世にいないはず。それでも、私だって甘酸っぱい思いもしたかった。


 でもその一件があってから、私は男の人が恐くて仕方なくなった。


 悪気がないということもわかってる。でも声をかけられただけで、身体が拒否反応を起こしてしまった。


 そう、あの日まで……。




「ひな、落ち着いたか?」


 剛さん、あなたに出会えていなかったら、私はきっと病気の進行よりも先に人生を絶っていたと思う。


 剛さんは私をそっと抱き抱えて、ソファーに座らせてくれた。


 冷蔵庫に食料品をしまって、ホットミルクにお砂糖を落としてくれた。


「ありがとう」


「なぁ陽咲……?」


 剛さんが恐る恐るといった感じで聞いてくる。


「その、制服はひなのか?」


「うん。私の高校時代のだよ。この間持ってきた中に入れてあったの」


「そうか。本当の女子高生に間違えたくらいだ。似合うぞ……」


 剛さん、顔が赤い。


 嬉しい。この制服にも辛い思いをたくさんさせてきた。一番好きな人に誉めてもらえた。


 そう、この経験をさせてあげたかった。


「飯さ、頼んじゃおうか?」


 本当はそんなつもりなかったのに。でも、あんな事があって、時間も気力も奪われてしまった。


 剛さんはデリバリーを頼んでくれて、待っている間はまた私を落ち着くように抱いていてくれた。


 そう、剛さんだけが私の心を開けた理由。


 剛さんは私をこうして無条件に抱きしめて受け入れてくれたこと。


『俺と友達になってくれませんか』


 初めてだった。恋人からではなく、私のことをすぐに見抜いてくれた。


 手を繋ぐまで半年もかかった私を、じっと待ってくれた。


 一緒に旅行に行くまで1年。19歳になっていた。残された時間を考えれば、本当はもっと早くてもよかった。そこで初めて剛さんと肌を重ねた。決して剛さんは無理をしなかった。私が少しでも怖くなると、すぐに立ち止まって落ち着かせてくれた。


 初めて、男の人と居ることに安らぎを覚えた。


 その頃には剛さんと一緒に生きていきたいと思うようになった。でも、私に残された時間は僅かだった。


 治療に2年もかかって、それが終わっても残り3年。何もしなければ1年の命。


 絶望の中で、私は再び空への一歩を踏み出そうとした。


 でも、学生時代にあんなに何度も出しかけた一歩がどうしても出なかった。


 あの温もりに帰りたいと雨の中を待ち続けた。


 ビルの屋上の縁で、後ろから抱き締められて、剛さんに名前を叫ばれたとき。私はこの人と残りの時間を過ごそうと決めた。心の傷と身体の傷を知っても、剛さんは私を求めてくれた。


 生まれて初めて、求めあう人と一つになることの愛しさを知った。




「ひな……、その格好だと、なんか俺いけないことしているみたいだな?」


「でも、前にジャージだったときに、剛さん喜んでましたよ?」


「そりゃぁなぁ……ひな可愛いし……」


 引っ越してきたばかりの頃、ホコリだらけの部屋の掃除にと、私は中学のジャージを持ってきていた。


 病気のこともあって、体育の授業もできないことも多かったから、まだまだ使えると最初の時に持ってきていたんだよね。


 私も楽だからと、今でも掃除のとかに登場するアイテムなの。


 今回はそれを上回る制服本体。なぜそれを今日の私が着ているのか


「剛さん、実はね……」


 食事をしながら、その理由を話した。


「そうか……。一緒に苦労してきたんだよな」


 普通の人が聞いてバカバカしいと笑い飛ばしそうなことも、剛さんは真面目に聞いてくれる。


「私が勝手に思っているだけなんだけどね」


「俺たち、なんでもっと早く出会えてなかったんだろうな」


「そうですか?」


「同じことが中学であっても、高校でもう少しは楽しい学生時代になったろうにさ。でも同い年じゃ無理だったか……」


「いいんです。私は間に合ったんですよ。それだけで、私は神さまに感謝しています」


 食事を終えて片付けをする頃には、私も落ち着きを取り戻していた。


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