第48話 私のために泣いてくれた人




 幼い記憶、こんな広い背中はお父さんだったろうか。残念ながら、私は顔を写真でしか見たことがないけれど、こうやって体の奥底では記憶しているのか。


「お父さん……」


「ひな……。よかった。気がついたか?」


「はい。えっ……私……」



 気がつけば、剛さんの背中で揺られていた私。


 ちゃんと、抱きしめられたときに乱れた服も元通りにしてくれているし、二人で買い物をした袋も持ってくれている


「少しは気が収まったかい?」


 すぐに記憶をもう一度リセットして状況を理解した。返事の代わりに、剛さんの肩から回す手に力を入れる。


「あんな無理やりな状況でありがとうございました。本当に、私の身勝手だったのに……」


「中3のクリスマスなんて一番の日に、この道を泣きながら帰ったんだよな。それに比べたら、俺に出来ることなんてたかが知れている。そのときのひなの気持ちを考えたら、俺はまだまだ無力だ……」


「そんな……。剛さん以上を求めたら、私間違いなくバチが当たってしまいます


 ううん、もう大丈夫。私の記憶はさっき書き替えられたよ。私のファーストキスは剛さんに渡したんだって。



「背中、暖かいです」


「そうか……」


 結局、剛さんは私を背中におぶったまま家まで連れてきてくれた。


 お風呂のスイッチを入れて、準備ができるまでのあいだ、ホットミルクを入れて、コタツに二人で入っていた。



「昔を思い出します」


「そんなシーン、あったっけ?」


「忘れませんよ。私が剛さんのために生きようって決めた日です。びしょ濡れの私の服を脱がせて、お風呂が沸くまでの間、何本もバスタオルを出して拭いてくれて、ミルクを温めてくれたんです。あの時の剛さんには申し訳ないと今でも思うんです。剛さんが本気で私のために泣いて怒ってくれました」


「あの時に、もし間に合わなくてひなが消えてしまったら、俺が持たなかったからな。必死だったよ。あの時は怒ったし、服や下着も駄目にしたのかあったよな。ごめんな」


「謝られるなんて、逆です。本当にあの日はどうしようか迷っていました。でも、剛さんに名前を思い切り叫ばれて、気が付いたんです。私は自分をこんなに思ってくれる大切な人を泣かせてしまったのだと」


 そう、はっきり覚えている。大雨の中だったけど、剛さんは私を抱いて間違いなく泣いていた。「どこにもいかないでくれ! 陽咲っ!」って何度も私の名前を叫びながら。


「あれは後から考えれば情けなかったよなぁ」


「いいえ、私のために本気で叱って泣いてくださったんです。私のことあんなに強く抱いてくれたんですもの。自分の浅はかさを知りましたよ」


 一緒にお風呂に入って、並べた布団に入って明かりを消す。


「きっと、俺たちの恋愛は特別だよな」


「そうですね。私たちだから乗り越えられたんですよ。ありがとうございます」


 すぐに剛さんから寝息が聞こえてきた。昨日の夜から無理をさせっぱなしだったから、少しでも休んでほしい。


 そう。私はこのたった一人の男性に誓った。「ずっとそばにいます」と。剛さんが次に男泣きしたのは、私が就職した直後の土曜日の夕方。


 朝、私のお部屋に来て少し抱き合っていたら、お仕事で疲れていた剛さんは眠ってしまった。その寝顔を見ていたら、何度も夢の中で私の名前を呼んでいた。


 目が覚めたあとに聞いたら、ずっと私たちの馴れ初めからのことが夢で流れていたんですって。だから、目が覚めたときに私の姿が夢で消えないか確かめに来たくらい。


 私の療養の時間、剛さんは一人で私がいつ帰ってきてもいいように、デートの代わりに留守にしているお部屋で私の帰りを待つ準備を続けてくれていた。


 お母さんはそれを知っていたから、婚姻届の署名を書きながら教えてくれたの。


『絶対に坂田さんは陽咲のことを裏切らない。だから陽咲も全力で残りの時間を尽くしなさい』って。


「もちろんよ、剛さん……」


 私は逆に目が冴えてしまって、剛さんを起こさないようにコタツに戻った。



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