第47話 あの日を塗り替えてしまいたいから




 室内からのピアノの演奏が終わっても、私は剛さんの胸に顔を押し当てたまま、しばらく動くことが出来なかった。


 この心地いい空間にもう少し浸っていたい。もちろん、無理なことだと分かっていたけれど……。


「ありがとうございます。我がままにつき合ってくれて」


「陽咲がこれまでのことを整理して、前に進めるようになるなら、俺は何だって協力するさ」


 この温もりに包まれていると、自然に涙が溢れてくる。同時に心の中の氷が少しずつ融けていく。


「剛さん……、私がこの後取り乱したら、その時は何をされても構いません……」


「突然どうした」


 私はそれに答えることが出来なかった。


 震える体に気力を振り絞って、そこに向かうように命令をする。これが終わったらきっと動けなくなるかもしれない。


 でも、今の私は独りじゃない。


 明るい時間には鯉に餌をあげる橋を渡って、公園に入ったときとは反対側のエリアに向かった。


 昼間は小さな子供たちがお母さんと一緒に遊ぶ光景が見られるエリア。もちろんこんな時間は誰もいない淋しい空間。


 その端にある茂みの前で、とうとう足が動かなくなった。


「大丈夫か?」


 呼吸が浅くなって、身体が震えている。


 頑張ってみたけれど……。でも、無理。


 剛さんごめんなさい。私、ここまで来て耐えられない……。


「ごめんなさい……。ここが……」


「もういい。それ以上言うな」


 剛さんは、とっくに気付いてくれていた。頭と背中に手を回して力強く抱きしめられている。


「陽咲が強い子だってことはずっと知ってる。でも、それを無理して陽咲を失うことの方が俺は辛い。約束しただろ? ずっと味方だって」


「はぃ……」


 ようやく呼吸が落ち着いてきた。


「剛さん、私、ここで10年前に汚れてしまいました。何もなければ、剛さんに渡すはずだった、初めてを失いました。もともと恋愛上手じゃなかったし、死んじゃうって分かっていたから。でも、夢見たかった……。一番好きな人、私のことを大切にしてくれる一人に本当は渡したかったんです……」


「俺は、陽咲の気持ち、ちゃんと貰ったよ」


 うん、分かってる。剛さんは私が傷ついていると分かっていても粗末に扱うどころか、ひとつひとつ一緒に歩いて傷を治してくれてきた。


 そう、そしてこれが集大成。


 私のトラウマを剛さんと一緒に乗り越えるため、近づくことが出来なかったこの場所に帰ってきた。


「陽咲、おいで」


 剛さんに促されてベンチに腰かけた。ここはあんなことがなければ私の特等席だった。後ろには倉庫のプレハブがあるので背後からの視線もないし、正面は植え込みを挟んでグラウンドや例の校舎が見える。こんな時間でこちらは暗がりになるから、窓から外を見ても私たちは見えない。


「俺は陽咲を傷つけた奴らを許すことはない。今日だっていろいろ思い出したんだろ?」


 そう、後半の中学時代の整理は、私の病気の発覚からあの事件まで、私の暗黒時代の整理だった。


「剛さん……、お願いがあります。この場所で、私をリセットしたいんです。それが何でもいい。私をあの日から剛さんのものにして……」


 自分でも何を言っているのか、よく分からない。でも、剛さんなら分かってくれると信じていた。


「本当にいいんだな?」


「うん。他の人には頼めないですから」


 剛さんは頷いて、私にキスをしてくれた。


「うん…………」


 唇をあわせながら、そのあとは剛さんのリードに任せた。



 剛さんの手が私の胸の膨らみを確かめ始めてくる。


 もう結婚して数年経つけれど、剛さんに抱かれているときの私は、今でも身体中が甘く疼いてしまう。


「陽咲……」


「はぃ?」


「本当にこれでいいのか? 当時のあいつらと俺がやっていることは同じことなんだぞ?」


「違いますよ。剛さんは私の事を愛してくれています。それは私も抱かれ方で分かりますよ。あの当時とは全然違います」


 暗くて分からないけれど、私の顔は真っ赤だと思う。でも剛さんに背を向けるなんてできない。


 屋外のベンチで抱きしめられて、キスをしてなんて、本当にギリギリだし、お巡りさんにでも見つかれば注意されちゃうよ。


 10年前、私はこの場所で同じ事をされた。あの当時はそれに加えて身体を引き裂かれた痛み。好きだった人からの裏切りの悲しみ……。


 女性として受けた屈辱は事あるごとに私を縛り付けてきた。


 今だって、身体が受けていることは同じ。でも、全然違う。私には全てを許せた人がいる。その人の想いを受け止めることなら、苦痛にはならない。


「剛さん、私、幸せです……」


「陽咲はもっと幸せになれるんだ。忘れるなよ」


 剛さんの腕で力強く抱き締められて、とうとう私の全てがホワイトアウトして融けていった。

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