第3話 いつも通っていた道も今日から違う




 翌朝、俺は約束どおりに陽咲の部屋に向かう。この道はこれまで数え切れない回数を歩いてきた。


 それにもかかわらず今日の気分はこれまでとは全く違っていて、自然と早足になっている。


 扉の前に立って、久し振りのインターホンを鳴らす。


 『星野』と書かれた表札。女性の字だと危ないと、わざと俺がぶっきらぼうな男の字で書き直したままだった。


 しばらくして、カチャリと鍵を外す音とともに扉が開いた。


「おはよう」


「おはよ……。ほんとに来てくれた……」


 陽咲の部屋の玄関の外、彼女は俺に飛びついてきた。


「剛さんが来てくれたよぉ!」


「ちょっと待て。誰か来たらどうすんだ」


「そうですね。ごめんなさい」


 陽咲は恥ずかしそうに部屋の中に入っていった。1Kとトイレ・風呂別の間取は俺と同じ。


 ベッドと小さなテーブル、テレビを置いたらだいたい埋まってしまう。


 小さなクローゼットには昨日着ていたスーツやら外出着が下がっている。普段着はベッドの下の収納箱に入れているのも、全く変えていない。


 セットし直されているベッドに腰かけていると、陽咲がコーヒーを煎れてくれた。


「剛さんはお砂糖だけでしたよね」


「相変わらず紅茶か?」


 陽咲はコーヒーが苦手だ。それでも俺のためにと買っておいてくれたらしい。


「うん。どうも苦くて……。あと、昨日は驚かせてごめんなさい」


 うつむき加減で謝る陽咲に、俺は腹をたてるつもりはなかった。


「よく、頑張ったな。小さいじゃスーツも探すの大変だっただろう?」


「うん。もう、いい? ただいまって言えるようになったよ?」


 俺の隣に恐る恐る座る。


「よく頑張った。お帰り」


 髪をそっと撫でてやると、陽咲は昨日出来なかった分だとばかりにベッドの上で力いっぱいに抱きついてくる。


「ひな……」


「剛さん、寂しかった……」


 小柄な体を受け止めてやる。


 陽咲はそのまましばらくしゃくりあげ続けた。


「剛さん、私……」


 今日はまだノーメイクだったらしい。顔中涙だらけでも、化粧が崩れる心配はなかった。


「あぁ、カーテン閉めてこいよ」


「うん!」


 一つしかない窓のカーテンを閉めて、今度は二人ともベッドの上に座った。


「お願いです。優しくして? 」


 こうなることはもちろん予想済みだったし、それだけの我慢を陽咲には強いてきた。もういいだろう。


「大丈夫なのか?」


「うん。もう大丈夫」


「よし」


 ベッドに入るように促し、その隣に俺が滑り込む。


 目の前の陽咲の顔には恐れなどはなかった。目を閉じて、俺が始めるのを待っている。


 顔を近付けて、唇にそっと触れた。柔らかくて暖かい。いつもつけているリップクリームの味がした。


 そこから先は、お互いの存在を求めるように何度もキスを交わす。


「剛さん、わがままでごめんなさい」


 お互い荒い息をつきながら、久しぶりの感触に酔いしれる。


「そんなに飛ばして大丈夫か?」


「もう大丈夫だから」


「そうか……」


 もうセーブする必要はないと彼女は自ら語って、貪るように互いの体温と触覚を確かめ合った。


「やっぱり剛さんだ……。変わってなかった」


 とろんとした目と、全身に残る気だるさの中で彼女は嬉しそうに呟いた。


「俺もひなしか知らないけれど、変わってないな」


「覚えてもらえて嬉しいですよぉ」


 そのまま後ろ髪を撫でてやると、すぐに寝息になってしまう。やはり彼女なりに緊張していたのだろう。


 風邪を引かないように毛布でくるんでやり、エアコンをつける。


 テーブルの上のカップを片付けて戻ると、安心しきったような寝顔だった。


 そんな彼女の寝顔を見ている内に、俺もいつの間にか睡魔に襲われていた。

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