第5話 憑依者
映画を批評的に見始めたのはいつ頃だろう。
小学生の時分は、映画というだけで、テレビ番組より特別で、ひどく高尚なものに思えていたから、内容云々に拘わらず、それを見たという実感だけが残っている。両親が映画好きだということもあり、少なからず幼い頃から映画館に通ったが、やはりその頃の記憶は映画の内容ではなく、その前後、発券窓口でお金を差し出した一幕や、映画館を出た後の夜空だけが色濃く残っている。
けれど中学生に差し掛かると、主軸はその中核へと向かい、友人と意見を交換するようになってからは、不思議と映画の内容が記憶に定着した。そこで感想を述べているSNSやブログを漁る度に、そのジャンルがもつ雛形が漠然とした形でわかってきた。恋愛もののテンプレート、冒険もののテンプレート。――そしていま、自分の人生が、まさにそのひとつのジャンルの匣に、無理矢理押し込められている。
ホラー映画だ。
それらは敬遠していたこともあって、数作しか視聴していないが、それゆえに記憶は鮮明で、題材が異なるとは言え、まったく同じ構文をもって、その恐怖を語っていることが知れたのだ。
それは周囲の無理解。
主人公だけが異様な状況を悟り、周囲にも理解をもとめるが、それを頑迷なる現代人は受けいれず、錯覚や精神疾患というラベルで片づける。他者の無理解に、主人公は孤独感に苛まれ、さらに怪異による猛攻をうける。孤独と脅威。それが今まさに、わたしを覆っている青ざめた靄の正体であった。
ライングループは、あれ以降だれも何も発しない。その能動的な沈黙は、すべてはわたしに対する非難の現れで、杏子などは哀しげに視線をむけて、こちらに自省を訴えかけてくるようだった。
(あれほど怪異だの心霊だの騒いで、本当のところ、信じていないんだ)
わたしは嘆息の代わりに理解を示した。
彼女達の天秤は、感受性より理性に傾いたのだ。現状を正しく理解できないという不安感を日常で覆い隠そうとする愚かしい理性。あれだけ意気込んでいた杏子も結局のところ臆したのだ。――だが、わたしは違う。そのため、四時限目の生物の時間に挙手をして、体調不良を訴えて教室から退室した。
嘘はない。
体調は今にも膝を抱えるほど不安に苛まれている。それに行き先も保健室である。
後ろの扉から出る間際、わたしの思惑を察したように、加賀が眉をしかめたが、あれほど横柄な態度をしめしながら、結果、恐怖に臆した女など憚る気もおきなかった。
保健室は、校舎の正面玄関から向かって右手にある小さな一室である。
スライドドアをあけると、涼やかな冷風にのって、かすかに鼻をつくヨードチンキの匂いがする。どうやら養護教諭は不在らしく、室内は静寂に保たれている。治療具が置かれた診療台とデスクのほかには、左手にベッドが三台ならぶ。そのうち奥のベッドを囲うように、クリームグリーンのカーテンがひかれていた。
「三谷、さん」
遠くから呼びかけると、息を引っ詰めるのが聞こえた。
「わたし。磯谷弥生」
「・・・・・・なん、ですか」
カーテン越しに、か細く、怯えた声がこもる。
「怒ってる?」
返答はない。わたしは臍をかんだ。自分が下手に出なければならないことに、小さな憤懣を覚えながらも、丁重な口調をもって彼女に接した。
「気分はどう? 大丈夫」
「・・・・・・」
「その、心配だったから」
「・・・・・・あの」
閉じきった二枚貝のような口が、ちろりと触手を伸ばす。
「いまって、授業中ですよね」
「うん」
「なんで来たんです」
今度はこちらが言葉に詰まる番だった。
「なにを聞きに来たんです」
「・・・・・・分かってるなら訊かないで」
彼女と駆け引きをするつもりなど毛頭ない。最初こそあれだけの失神を見せたのだから気遣う心向きはあったが、こうして憎たらしげな声を向けるのであれば、一切の憂慮も必要ないだろう。――わたしは乱暴にカーテンをひいた。
マスクをつけたままの三谷は左側を下にして、土中の芋虫のように丸まっていた。乱れた髪は失神時の爪痕をのこし、握り込んだ右手はこわばりが抜けていない。それでも発話はできるし、目には意思の光がある。そのひかりを、こちらに向けず、目を逸らしたままでいることに、自分に対する意図的な無礼を働いているようにも思えて、頬がひきつく。
「かお、見たんでしょ」
「・・・・・・」
「なにか、いったら」
「・・・・・・みた、よ」
「ど、どうだった! やっぱり可錆の死霊が取り憑いていた!?」
わたしは飛びついた。あれほどの反応を見せたのなら、かならず悪霊の憑依が、その面貌を醜く歪ませている筈である。ともすれば切り抜かれた週刊誌で見たように、野生生物の造作によって醜怪に欠落した顔貌が現れたのではないか――。
そう、思っていたわたしは、ことそれを直視したはずの三谷がひどく冷めた面持ちで、じっと窓辺に視線を注いでいることに気がついた。それは無視のような灰色の感情を想起するものではなく、視線をどこかに預けて沈思と一点を考え抜いている様子だった。
「磯谷さん」
思索の森を抜けたのだろう。突きつけられた眼差しを、わたしは真っ直ぐ見返せなかった。逸らした視線に何を読み取ったのだろうか。確信めいた、ふかい呼気とともに、三谷は口を開いた。
「わたしって不細工ですよね」
「え?」
「かお太いし、あばた顔だし、ひとえだし、下ぶくれだし。髪も癖があってボサボサで、終いには頭もわるければ、協調性もなくて、――ほんとう、生きてる意味なんてない」
「それは――」
「慰めはいらないです。どれだけ言葉を尽くされても、不意にむけられた視線のほうが、圧倒的に雄弁ですから。だから自分に自信がもてなくて、小学生のころから友達居なくて、男子はおろか女子にもいじめられて、中学も同じ小学校から持ち上がりの人たちが罵倒してきて、ようやっと県をまたいだ、この私立でやり直そうと思ったんです。貴女と杏子ちゃんに声を掛けたのも、このままじゃイケないと思ったから」
三谷の独白がつづく。それが何処にいたる経路なのか、まったく測れないが、しかし虫の知らせだろうか、ふかい澱みに沈みこむような不穏さが、足先から悪寒となって迫り上がってくる。
「だから貴女の言うことも聞いたし、怖いけど、悪霊の貌もみた。悪霊、そう、たぶん、これはアクレイなんだと思う」
「アクレイ?」
「所謂、わたしたちのいうアクリョウは、死んだ人の霊や動物霊、ひとに害する霊魂を指していうけれど、アクレイはキリスト教学の用語です。神の教えに仇す悪魔の配下。神の御言葉から道を踏み外すための誘惑。――貴女に憑いているのはそのアクレイ」
仄暗い瞳が、猫のように丸く膨らんだ。目を瞬く間に、それは三谷の三白眼にもどったが、その小さな黒目もまた、別の邪悪を孕んでいる。
「貴女はアクレイに囁かれたの」
「いみ、わかんない」
「でしょうね。なら、もうひとつ、言わせて。――ありがとう」
「は」
話題が上に下にとこんがらがり、まったく糸口がみつからない。ただ一方的に投げ込まれる台詞は、さながら独り善がりの独白に近しいのに、それが何故か、ほつれた毛糸玉のなかに一本だけ、色の異なる糸が線虫の如く、くねっている。その灰色で、ともすれば見窄らしい毛髪のような色の毛糸が、造作もなく引き抜かれようとする予感があった。
「わたしは、ようやく本心から、自分より憐れむ存在を見つけられたから。ありがとう。わたしはわたし。それ以外ではない」
「ふざ、巫山戯るな」
悩乱をきたす胡乱なる会話劇の〆に吐きだされた毒に、わたしは目眩をおぼえ、しかるのち怒りを発した。だが、あれだけ臆病で貧相で、ひとに阿ることしかできなかった三谷という不細工な女は、心の底から嘲笑うように醜い喜色を浮かべて見せた。
「ごめん。マスクで声がこごもって聞こえないわ」
「この、クソブスッ」
三谷の顔に掴みかかった。殴り、叩き、髪を引っ張る浅ましい行為を、まったく理性を介さずおこない、三谷もまた最初こそ防戦一方だったが、なにか吹っ切れたように、――或いは悪霊が取り憑いたかのように奇声をあげて、全力で掴みかかってきた。
傍からみれば、無様な猿の喧嘩だろう。
キイキイと人ならざる甲高い音をあげて組み付く二匹のおんな猿の声は、廊下にひびきわたり、それをききつけてやって来た養護教諭や教諭がかけつけて、わたしたちを引き剥がした。
わたしはどうしても悔しく、最後の一撃を見舞うため、爪をたてて頬をひっかいた。不細工のあばた顔に、更なる醜い痕跡を残さんとした指先は、やや距離が足らず、彼女のつけていた不織布の白いマスクを引っぺがした。
「あッ!」
その瞬間、わたしの甲高い叫声がとどろいた。
周囲の大人達は、きゅうにひきつけを起こしたようなわたしに驚き、三谷とわたしを交互にみやって、釈然としない顔で眉をひそめた。――何がわたしを打ちのめしたのか、まったく見当も付かない様子だった。
しかしながら、私の目にはちゃんと、その貌が見えたのだ。
驚いた教師の手から滑り落ち、わたしは後ずさりするように廊下に出た。
「かお、かおが――」
這々の体で逃げ出す。マスクをしていたため、判然としなかった。しかしそれを剥いだ瞬間、ベッドで寝ていたその人物が誰であるのか――というより、誰でなかったのか、明白に見せつけられたのだ。
あれは、三谷ではなかった。
ひとの目を盗み、つねに怯え、阿ることしか脳が居ない三谷ではない。思えば悲鳴をあげて失神したにしては回復が早すぎる。ひ弱な彼女が直ぐさま立ち直れる筈がない。
あれは、悪霊だ。三谷に乗り移った可錆高校の死んだ生徒だ。
「わたしはわたし。それ以外ではない」
あの言葉の意味がやっと分かった。わたしはわたし。そう、もう三谷ではなく、完全に悪霊が乗っ取ったという勝利宣言。それが微塵も疑いない真正であると謳うように保健室から高らかな笑い声を轟かせた。
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