第4話 禁忌を破るとき
可錆高校の亡霊は、わたしたちの小さな企みに気づいたのだろうか、それから十日ほど経ってもまだ現れる様子もなかった。
その十日間は梅雨開けを撤回するかのような長雨がつづき、更には台風すら接近して、教室内に陰陰とした空気が立ちこめ、まるで雪山の悪天候をなぞるかのような天候にも拘わらず、わたしを含めた四人は誰一人として、憑依される学生を見ずに、無駄な緊張と不安を強いられ続けていた。
(ともすれば、正体が明かされたのに驚いたのかも)
などと太平楽を気取っていた十一日目。
その日は鬱陶しい曇天とは打って変わった夏晴れで、まばゆい青空のもと、からりとした日差しと熱波が吹き込む模範的な夏日だった。
例によって睡魔がおそう安堂の授業で、抑揚のない声がひびく二時限目。空調は一律二十八度に設定され、ひといきれがこもる生茹での教室で、みな各々教科書やノート、下敷きなどで顔を仰いでいる最中、ふとした拍子に斜向かいの席の男子に、蜃気楼にも似たぼんやりとした霞みがかかる。
ともすれば睫毛を通過した汗のために、視界が濁ったのかもしれず、ハンカチで額と目蓋をぬぐってから、あらためて刈りあげた後頭部をしげしげと注視した。
(――すわ、取り憑いた)
あれほど垂れた額の汗が嘘のようにひいた。
教師の目を盗み、すかさず携帯を取り出して、グループラインに報告する。
弥生 きた
直ぐさま画面に既読がつき、返信がくる。
加賀 マジか
どこ?
分かった
わたしは加賀さんに目配せをした。彼女は私の席から3列隣の席で、数Aの教科書をたて、その陰でアイツだろうと指さす。ついで三谷が反応を返した。
三谷 誰です
既読がふたつ付いた。それから焦れるような空白がつづく。
杏子の席をみれば、どこか思案に耽るような顔色で、ボンヤリとした顔で黒板を覗いている。その手にはシャープペンシルが握られ、指揮棒を振るかのように宙に走る。
弥生 三谷さん
杏子は気づかず、既読はふたつ。
ならば三谷が読んでいる。そして三谷はわたしの列のふたつ前である。
弥生 約束したでしょ
わたしたちの席は示し合わせたように、その教室の四方に広がっていた。
そのため顔を見る役割は、自分の近くの席であった人であり、今回は弥生の席から右斜めにすわる山縣が憑依者なのだ。
この取り決めには、しかし後ろめたさはある。教室を四ブロックに分割して担当するとはいえ、顔を見る為には後ろを振り向かざるを得なく、そのため教室の前列である杏子と弥生は、顔を見るにあたって、実質的にわたしと加賀さんより、多くの生徒を担当することになる。
杏子は問題ない。発案者であり、むしろ意欲的にのぞむ立候補者である。だが三谷は最初からこの不平等な取り決めに難色をしめして、それをわたしたちに押し切られる形で、不承不承納得した経緯がある。
弥生 はやく。授業終わっちゃう
たしかに刻限は授業終了まで残り十分を切っていた。けれど、それ以上に急かすのは、気が進まなかったとはいえ合意したのにも拘わらず、事前に取り決めていたルールに反する三谷への身勝手さだった。
わたしは携帯の画面を睨みながら、一切反応を寄越さない三谷の、その丸めて横目で人を窺うような仕草を透かし見る気持ちになる。ひとの感情を逆撫でするような陰気な面差しは、自分に同情しないわたしを非難するようにも、こうして身を屈めておけば時間が解決するだろうという打算的な目論見を隠して腹の中で舌をだしてあざ笑うようにも思えて、いまにも頬を張りたい衝動に駆られる。
どうにも抑えがたい憤懣に、さらに拍車を掛けたのは、ようやくラインにきづいた杏子の一言だった。
杏子 もう、よくない?
「は?」
思わず声が漏れた。それは前の席の生徒の背中を小指で小突いて気づかせる程度の声だったが、視界の端で、息を潜めていた三谷の猫背がびくりとした。
よくないよ。皆で決めてたじゃん 弥生
杏子 だけどさ、もう良いじゃん。三谷さん怖がっているし
怖い? そんなの前から分かってたでしょ? 弥生
杏子 でもさ
ズルだよ。ズル。 弥生
てか三谷さんも見てるでしょ。なんか言ったら
既読数は人数分に達していなかったが、彼女がポップアップの通知越しに事の成り行きを見ているのは薄々感じていた。わたしは杏子との口論では埒があかず、三谷に的をしぼり指弾するようなスタンプを投げた。
【最低】【ゲス】【クズでは?】【キモい】【キモい】【最低】【ゲス】
色とりどりのスタンプが画面を埋める。ときおり杏子や加賀さんの文章が差し込まれるが、それを画面から押し流すため、絶え間なく罵倒のスタンプを送った。
三谷 わかった
乱打する侮辱のなかにあって、その一文はわたしの目をうばった。
途端に何故だか、わたしが怯える番になった。さながら足蹴にしていた犬が、唸り声をあげたとみえるや足に噛みつかんと両顎を大きく開いたかのような恐ろしさだ。
三谷にこう言わせるために罵詈雑言を絵柄にこめて投げつけたのに、その力強い決意が不意にわたしの頬を叩いた。――約束が違う。そう思った。
お互い暗黙のウチに交わしていたヒエラルキーは、その瞬間、見事にくずれさった。ふたつ前の三谷の背中がすくりと伸びて、ゆっくりと右を向き始める。
ドキリと胸を打った。
彼女はもしや、わたしを睨みつけるのではないか。
そして席を立って、わたしの秘密を拭い取るのではないか。――そうであったら、そうであったらもう・・・・・・。
指のあいだから汗がねばる。それが純粋な発汗か冷や汗か、まったく区別がつけられない心境のまま、三谷がどちらを見据えるのか、判決を待つ囚人の気持ちで両手を組んだ。
はたして彼女は、それを見た。
横顔は血の気が引いたように青白く、眉間をよせて、眦をあげる。
視線は四時の方向をむき、それから真後ろに振り返ることなく山縣の席に留まった。そして細められた目蓋は、山縣の貌をみた途端に凄まじい驚愕に打たれたかのように見開かれ、息をつまった胸が大きく上下したと見る間に、教室全体にとどろく悲鳴が一同の耳をつんざいた。――教室は、それから数秒、深閑として、ひいた波が岸に打ち寄せるかの如く、わっと騒がしくなった。
「三谷ッ」
かけよった安堂が三谷を抱く。
抱きかかえたれた彼女は腕のなかで力なく顎を天井に向け、死体のように髪を垂らしている。てんかん発作に似た痙攣をおこしつつも、息はあるのか、マスクは口にはりつき、また膨らむ。
どういうこと、なにがおきた。
同窓生のざわめきがあちこちから溢れる傍らで、わたしをふくめた三人は蒼白になっていた。安堂が呼吸をしやすくするためマスクを外そうとしている。土気色になった彼女の顔の全貌からわたしは目を背け、震えが止まらず、鏡を見るまでもなくあおざめていただろう。
それは彼女に視ることを強いた自責の念もあったが、それ以上に胸中の襲い掛かったのは、仄暗い土壌にしっかりと根を伸ばしていく怪異への確信だった。
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