第23話「最初の想いを」
◇シン
何も考えず、青い世界に意識を投げ出す。目の前を埋め尽くすその美しい光景にただ浸っていたい。そうできれば、どれだけ幸せになれるだろう。
土曜日の午後三時、臨海公園の隣にある水族館には、家族連れの客がまだ多く残っていた。とりわけ、この水族館の目玉でもある大水槽の前には、自由に泳ぐ回遊魚たちを一目見ようと多くの子供たちが詰めかけている。
そんな賑わいを、俺は少し離れたところからひっそりと眺めていた。
水槽を彩る光も届かず、賑やかな声も曇って聞こえる暗い場所。それでも、飛ぶように泳ぐ銀色のきらめきはこの瞳にしっかりと映り、少しずつ心を奪っていく。
もっと、もっとだ。
何も考えなくていいくらい、もっと、何もかもを奪ってくれ。
意思に反してそんなことをずっと考えているうちに、ひとり、またひとりと人影は水槽の前から去っていく。
やがて全員が光の下から去り、青い世界の中にいるのは暗がりにいる自分、ただひとりとなっていた。
自分より何倍も大きい、視界を埋め尽くすほどの青。その中でたくさんの銀色が素早く目の前を横切ってゆき、その影を追いかけるように首を動かす。
やがて現れた大きな影に、視線は釘付けになる。
その影はほかのどの影よりも速く、まるで青い世界を切り裂いていくように水槽の中を泳ぎ回る。この世界でもっとも速いのは自分だと、そう言わんばかりに。
それでも。
「……あっ」
その後ろから現れたさらに一回り大きな影に、それは瞬く間に追い抜かれていった。
自分でも気づかないうちに、右手を前へと持ち上げていた。その手で何を掴みたいのかもわからないまま、一歩ずつ、足を前へと進めてゆく。
そして手に触れた、こことむこうを隔てる透明な壁のすぐそばで、最初に見つけた銀色の輝きは、徐々にその速度を落としていく。
ついには、手のひらほどの小さな銀色が作る群れに、飲み込まれるように消えていった。
「っ……」
爪を立てるように、分厚いアクリルに阻まれる手を握る。
「くそッ!」
こみあげてくる胸の悪さに悪態をついて、何もつかめなかった拳を叩きつける。ドンっという振動とともに、近くにいた魚群が一斉に散っていった。
「荒れてるな」
突如として投げかけられた言葉に、睨むように振り返る。
「なんで、ここにいる」
どうしてここが分かった、そしていったい何をしに来た。両方の意味を込めて、俺は言葉を発した人物――アヤメさんにそう問いかけた。
アヤメさんはゆっくりとこちらに、いや、大水槽に向かって歩いてきながら、その歩調と同じくらいゆっくり、言葉を紡ぐ。
「初めてSCをやったとき」
そうして俺の隣に立ったアヤメさんは、懐かしむような顔でその理由を語る。
「初めて優勝した時、初めて負けた時。いつだってお前はここに来た。そして思い出してきたはずだ。一番最初の気持ち、お前自身が語った夢と、その生き方を」
覚えているか? シン。
言葉にはせずともそう問い返された言葉に、俺はすぐに答えられなかった。
応えたくなかった。
無論、覚えている。そうでなければ今がこんなに苦しいものか。あの幻想がなければ、俺はもっと楽に、普通にSCをしてこられた。
そう断言できるほどに、今という瞬間が耐えがたい。
そう断言できてしまうほどに、これ以外の生き方が想像できない。
SCで、誰よりも速く、誰よりも強くありたい。それがどれだけ難しいことでも、やり続ければ叶い続ける。それが俺の目指した生き方で、それだけが、俺にとって生きるということだった。ずっと、そうありたいと思っていた。
いや、そうあれるのだと思っていた。今日、あの試合を見るまでは。
どれだけの才能があっても、どれだけ強く、速く動けても、どれだけの努力を重ねても。いずれはもっと大きな存在に食らいつかれ、捕食される。
そう、この青い世界で、昔見た銀色の輝きが目の前で追い抜かれたように。
目の前を覆うほどの青い世界は、客を喜ばせるためのただのライトアップ。心躍らせたたくさんの銀の輝きだって、今ではもう光を反射するただの魚鱗だと知ってしまった。
止まったら、死んでしまう。
泳ぐしかない彼らは、もう何度思ったのだろう。いっそ止まってしまいたい、と。
夢を見ている時間は終わった。
終わってしまった。
「もう、子供のままじゃいられない」
アクリルと水でできた壁に、自分の瞳が映り込む。虚像を挟み、アヤメさんと視線が重なった。
「何も知らない頃には、戻れない」
強い力、巧みな技術、大きな才能。そいつらは世界中に転がっていて、その気になればいつだって俺を喰らいつくせる。そんな中で、人生をかけて努力することに何の意味があるだろうか。
視線を重ねていたアヤメさんがふいにそれを切った。
「仮に、世界のトップに立ったとしても。いずれは誰かに追い抜かれる。それは当たり前のことだ。なら、」
肩越しにこちらを見て、アヤメさんは言った。
「私たちは、どうすれば『勝ち』なんだろうな」
それは問いかけのようで、その実、アヤメさん自身にも言っているような気がした。
「今日はもうゆっくり休め。明日に響くぞ」
最後にそんないつも通りの言葉を残して、アヤメさんは去っていった。
その背中を追う気にも、言葉に従う気にも、今の俺にはなれなかった。ただアヤメさんの言葉だけが、胸の中に何度も響く。
――「私たちは、どうすれば『勝ち』なんだろうな」。
なんだそれは。
「どうやったら、勝ち――?」
勝たなきゃ負けだ。それ以外に何がある。
ああ、わかったよ。結局のところ、そうするしかない。だってこれは競技――SCなのだから。誰が相手でも、勝って勝って勝ち続けて、己の生きる意味を証明し続けるしかないって、そういうことだろう。
結局のところ、俺は自分を見放したSCに縋るしかないのだ。
相手がどれだけ強くても、どれだけの才能を持っていても、食いつかれる前に食いつぶす。そうすることでしか生きることができないのなら、誰が相手でもそうしよう。
それがたとえ、十年以上の時間を共に過ごした相手でも。
ぎり、と。奥歯が軋む。
脳裏によみがえる、今日のあの試合。いつの間にか握りしめていた拳を、俺はまた、透明な板にたたきつけた。
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