第17話「試合へのカウントダウン」
それからの一か月間は、水の中でもがいているようだった。
ただひたすらに練習を重ねた。アヤメさんに力ずくで止められても、無理やりにでも練習を続けた。でもどれだけやっても、成長なんてまるで実感できなかった。
そんな俺をあざ笑うかのように、日々進化を遂げてゆくクレハのSC。同じ競技をしているはずなのに、それはまるで別物のように思えた。
練習中のクレハの表情は晴れやかで、憎らしいほどに嬉しそうで、「SCをする」というただそれだけのことが、どうしようもなく楽しいのだとわかってしまって、そんな姿をすぐ隣で見せられた俺は、何度も気持ちの悪いものがこみ上げてきた。
気を抜けばすぐに卑屈なことを考えようとする。隣で楽しむクレハに呪詛を吐きそうになる。そんな自分に気付くたび、自分自身を嫌悪して、才能のない小さな自分を呪ってしまう。
そうやって何もできないまま、何も成長しないまま時は過ぎ、もう大会は翌日にまで迫っていた。
「今日は、お先に失礼します。試合会場を見ておきたいんで」
クレハと一緒にいる時間を少しでも減らしたくて、もっともらしい言い訳をくっつけて練習を抜ける。会場の下見なんて、全く必要ないのに。いったいどれだけあの陸上競技場で戦ったと思っている。我ながら嘘のへたくそさにあきれてしまう。
「……そう」
「ああ、では明日な。寝坊するなよ」
寂しそうな表情をするクレハから視線を逸らし、当たり障りないことしか言わないアヤメさんから意識を逸らす。アヤメさんには、きっと何もかもお見通しなのだろう。俺の抱える不安も不満も焦燥も、痛みも苦しみも、この感情の黒さも、何もかも。だからこそ何も言ってこない。今は、その無関心がありがたかった。
競技場へと足を向ける。だが向かう先は、正確には競技場ではなく、その隣の海浜公園だ。
少し歩いてたどり着いた公園は、夏真っ盛りだというのに人っ子一人いなかった。寂しい風景だが、今はその空っぽさにどこか安心できた。最近は、もう毎日と言ってもいいくらいここへ足を運んでいる。自主練と称して、クレハから距離を置くためだ。ここは青江高校とも近く、家からもそう離れておらず、オマケにこうして人もいない。一人になるにはもってこいの場所だった。それに広い砂浜はめちゃくちゃに体を動かしても、誰にも迷惑が掛からない。
自主練というのも嘘ではない。一か月の間、毎日ここで『スクエア』の練習をしていた。『スクエア』を使えるようになれば、何かが変わるような気がしていたのだ。世界のトッププレイヤーに名を連ね、ミナトさんとも対等に戦えるようになる、そんな気が。
でも結局、『スクエア』は成功しなかった。たった一度のまぐれもなく、すべて失敗に終わった。
どれだけ努力した事実があったところで、結果が伴わなければ無意味だ。明日の大会にしたってそう、どれだけの積み重ねがあったって、ミナトさんに勝てなければそこに何の意味も生まれない。
結果よりも過程が大事。この考え方はよくわかるし、一面では事実だと思う。でも、勝負においてそれはただのきれいごとだ。負け惜しみと言ってもいい。結果につながらなかった今までの時間が、形にならなかった努力が、無意味だったなんて思いたくなくて、信じたくなくて、「この敗北は次へ進むための経験だ」と「失敗があったから成功したときがうれしいんだ」と、負けた自分を慰めるために言い聞かせて、騙す。
負けただけでなく、その結果すら認められない、受け入れられない、本当の弱者だ。俺はそんな風にはならない。そのために、絶対に勝たなくちゃいけないんだ。あの人に――。
「おや、シン君じゃないか」
ふいに、後ろから声がかかる。その声はついひと月前も聞いた声で、
「ミナト……さん」
考えていた人が目の前に現れて、思考が止まる。
「君もここに来ていたんだね。僕も、大会前日は毎年この景色を見に来るんだ」
そう言って、ミナトさんは海の向こうを見る。つられて顔を動かすと、今まさに沈まんとする夕日が目の奥を真っ赤に焼いてくる。
たまらず目をつむると、横でミナトさんが「はははっ」と笑う声が聞こえた。
「なんとなく、落ち着く感じがしないかい? 僕はね、真っ赤に燃える夕日を見ると一日の終わりを感じて、気持ちが明日に向いていくんだ」
そう言われて、もう一度、今度はゆっくりと目を開いて同じ景色を見る。橙色から紅へ、そして徐々に夕闇へと変わっていくその光は、確かにざわめく心を落ち着かせてくれた。
毎日来ていたのに、気づかなかった。
ささくれだった精神がどこか落ち着いてゆく。このまま、ゆっくりとでいいから何も考えずに明日を迎えたい。
――そう、思っていたはずなのに。
「明日は、お互い悔いのない勝負をしよう」
そう言ってミナトさんは去っていく。
その言葉はまるで、精神を逆なでするように。落ち着いたはずの心をかき乱していった。
悔いのない勝負? そんなもの、あるわけないだろう。
小さくなっていくうしろ姿を見つめながら、俺の思考は逆流する。
だってこれは勝負なのだから。片方が勝てば、必ずもう片方は負けるんだ。俺は絶対あんたには負けない。明日こそは絶対に勝つ。クレハに見せた本気を引きずり出して、全力のあんたを叩き潰す。
悔しい思いも惨めな思いも、俺はもう、味わいたくないんだ。
気づけば太陽はとうに沈み、夜の帳を三日月が薄く、切り裂いていた。
◇
朝早くにも関わらず、会場はすでにそれなりの賑わいを見せていた。
海浜公園陸上競技場。二〇〇メートルトラックの内側にある二面のフィールドが、今回SCで使用するメインとなる。トラックの外側にも十分なスペースはあるが、そこは出場待ち選手のウォームアップの場となっている。トラックを囲うように広がる客席は、すでに半分ほどが埋まっていた。
開会式までおよそ三〇分。そろそろトーナメント表が張り出される頃だ。
確認しようと歩き出すと、後ろから「お、おはよう。シン」と聞きなじみのある声であいさつされた。
「ああ、おはよう。クレハ」
何とかして笑顔を作ろうと頬を引きつらせる。大会初日、それもクレハは公式戦初出場だ。なるべく明るい雰囲気を作ったほうがいいだろうと思ったのだが、どうもうまくいかなかったようだ。
「シン……その、調子のほうは、どう?」
以前までなら、俺のアップを手伝いながら聞いてくるはずの質問。それをこうして、同じコンバットスーツを着た選手同士として尋ねられたことに、今さら、本当に今さらながら不思議なものを感じる。
「まあまあだよ。そっちは?」
いつも通りの答えを返し、初めての質問をする。
「私も、いつも通り」
そう言ってクレハは唇を引いた。本人としては、笑ったつもりなのだろう。まったくいつも通りではないし、それは俺も同じだった。
互いに引きつっていた顔を元に戻す。どちらともなく、目を逸らした。
――このままで、いいのか?
そんな疑問が唐突に頭をよぎる。クレハがSCを始めてから、俺たちの関係は変わった。俺が変えた。変えてしまった。以前ほど心地よい関係ではなくなってしまった。でも、クレハは望んでSCの世界に入ったんだ。なら、俺が口を出していい問題ではない。望んだ先の結果として今がある。ただそれだけだ。
「ったくお前ら。大会初日の朝から、なに辛気臭い顔してるんだ」
お互いに黙りこくっていると、アヤメさんがすぐそばまでやってきた。この人のことだ、どこかから俺たちの様子を見て、あまりの雰囲気の悪さに口を挟みに来たんだろう。
「別に、いつも通りですよ」
クレハとの会話と同じように、アヤメさんにもそう返す。アヤメさんはふっと目を細めてこちらを見据え、短くため息をついた。
「ま、いいだろう。それよりもだ。トーナメント表が張り出された。見に行くぞ」
端的に用件だけ伝え、さっさと先に歩き始める。俺とクレハはそれからも目を合わせることはなく、ただただそれについて行った。
トーナメント表と言っても、俺が確認することはほとんど無い。せいぜい、AとBどちらのブロックにいるかだけだ。昨年の優勝、準優勝者はシードとして両端に分けられる。ミナトさんとは決勝まで当たらない。それだけわかっていれば、あとは出場時間を見るだけでいい。
まあ、今年はクレハの出場ブロックも確認しないといけないか。もし同じブロックなら、俺も少々気合を入れないといけない。負けるとは思わない。けどクレハは、いつ伸びるかわからないという怖さがある。
トーナメント表の張り出されている掲示板までたどり着く。関係者でごった返して近くでは見れないが、名前くらいなら確認できる。両端に目を走らせる。俺の名前があるのは最後、Bブロックの端だった。クレハの名前は――。
「!」
「あっ」
「うーん」
見つけたのは、三人ともほぼ同時だったようだ。
クレハの名前は、ミナトさんのふたつ隣にあった。
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